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2010年07月 |
10kg痩せました
(2010.07.14)
昨年の11月暮れからフィットネスクラブ通いを再開し、今年の頭から本格的に減量に励んでいたのですが、昨日の段階でようやく年初比10kgの減量に成功しました。当初予定では6月末で今回の目標到達予定だったのですが、少し遅れました。目下回復運転中。
消えるものと消え去らないもの
(2010.07.11)
あれから3年が経とうとしている。 あの出来事を通じて浴びせられた罵倒の数々は、3年の月日を経ても未だに消えることがない。受けた屈辱を思い出して怒りと悲しみに震えることがなかった日も、一日たりともない。以来全ての日々は憎しみと無意味さに満ちるようになったように思う。 正直なところ、このような傷手は1年もあれば忘れることができるだろうと考えていた。ところが、苦しみや怒り、人間に対する増幅された不信は日を追うごとにいや増すばかりである。たとえば、このような消し去りがたい出来事の傷跡を茶化すような、唾棄すべき人間とその行為に対しては敵意を覆い隠したりコントロールすることも最近では時折難しくなってきたし、酔い潰れるまで酒を鯨飲することも月に1回は生じるようになってきた。 早い話が、私はすっかり壊れつつあるのである。遺す当てもないし貯める意味もない金を使って散財して時折気を紛らわしたりもするし、高いレストランで飯を食ったりしてポトラッチに走ることもあるが、そんなのは一時の気休めだ。 ある種の歪んだ復讐心も入り混じった功名心で、爾来3年間は何とか自らを持ちこたえてきたつもりだ。だが、その合間合間には気晴らしというか現状から逃避するための散財などを繰り返してきたため、正直蓄えも人様と比べると相当に少ない。そんな現状を今省みて、そして人に殺されるか自殺でもしない限り確実に待ち受ける孤独死という末路をイメージするとき、このような無意味かつ無価値な生を続けていくことにどれほどの必要性があるのかと毎日自問せずにはいられない。 これを読んで下さる人に伝えたい。当たり前すぎて何を言っているのだということにもなろうが、ひとたび心が深い傷を負ってしまうと、それは人生の意味すら灰燼に帰して葬り去るだけの隘路にその人を追い込むのだ。そしてそれは言語化された方法では取り戻すことができない。 時々、私は自分の人生が既に失敗の段階にあるとこの日記でも書き記しているが、この感情はここ最近日を追うごとに強くなっているようだ。
ビアガーデンで飲んだ
(2010.07.06)
金曜日は三越本店のビアガーデンで飲みました。 それをまたとやかく言うどうしようもない人もいるので、とりあえず報告だけ。 正直、信用を自ら毀損するような行為を繰り返すくせに自分を信用しろと繰り返す人とのつきあいは、もうそろそろ限界のようです。
さだいじん は きゅうりょうが すこしだけ あがった!
(2010.06.28)
さだいじん は きゅうりょうが すこしだけ あがった!
AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G EDを使ってみた
(2010.06.25)
というわけで本日は友人のかわごえ薬局氏とダラダラ遊びつつ、24-70mmF2.8の試し撮りを行ってきた。
AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G EDを買った
(2010.06.24)
色々なことで精神的に最近結構病んでいるし、ボーナスも30日に支給されるらしいので、心機一転乾坤一擲の再起動を期して、AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G ED(http://www.nikon-image.com/products/lens/af/fx/zoom/af-s_24-70mmf28g_ed.htm)を買った。前々から欲しいと思っていた金環レンズ(注)の一つで、値段もほぼ底値に近づいてきたので、後先考えずに購入した次第。貧乏ユーザーの小生もついに大三元レンズのうち一本を手にすることができたと思うと、感慨もひとしおだ。ちなみにこれに合わせケンコーのZeta(http://www.kenko-tokina.co.jp/imaging/filter/zeta/4961607335253.html)を同時に購入し、前玉保護用に装着。
東京イエローページというのがあってね
(2010.06.19)
時には昔の話をしよう。 みんなひとり ひとみしり さびしがりやこれを読んでおられる方で、この歌のタイトルが一発が分かる方はほとんどいないだろう。一応正解を引用すると、こんな歌だ。 今から20年も前の歌である。しかも典型的なアイドル歌謡である。知っている方がおかしい。 「みんなひとり ひとみしり さびしがりや」という一見矛盾する歌詞に凝縮される人間の孤独を扱ったこの歌は、この矛盾をリアルな自己意識として表現することが求められるため、歌い手を選ぶ。 その意味で、これを歌っていた小川範子というアイドルは、その儚さと陰のある個性(いわゆる「お菓子系」雑誌でモデルをやっていたことを暴露されるなどの悲運があったという)故に、この歌が持っていた中心的主題、つまり「ひとみしりangel」という語に象徴されるある人々は、他者への恐怖と孤独がもたらす宿命的な別離の反復のうちに、迷子であることを運命づけられていることを受忍するしかなく、その絶望の連続はせいぜいがレッスンとして昇華される程度だという救いようのなさを、抽象的な運命論ではなく、彼女自身の幸薄げな表情が象徴する一つの世界に受肉化させ得たのだと思う。この歌を初めて聴いた当時私はまだ高校1年生で、しかも中高一貫の男子校に放り込まれていたため、この歌が提起する現実は理解するべくもない。だが、それでも、「みんなひとり ひとみしり さびしがりや」というフレーズが放つ悲しみとこの世界そのものに対する消しがたい恐怖は、その後の惨めな人生を予告するものとして私の胸に響いた。 全くの余談ではあるが、この歌を歌っていた小川範子には、一度だけ大学の階段ですれ違ったことがある。私のようなマニアでなければ分からないほど当時の彼女は地味かつ華奢で、数年後大名行列をやって登校姿をメディアに撮影させた某アイドルとは全く別物の、等身大の人間の姿がそこにはあったように思う。そして、そのような彼女だからこそ、かの歌は、歌以上のアウラを伴ってこの疲れ果てた中年男の記憶に沈殿していたのだろう。
めずらしく連日の日記
(2010.06.17)
留学中、論文のチェックをしてくれた知人が、また病を得て入院したという。入院の報を受けてすぐにお見舞いもかねて病気快癒のお守りを送ったのだが、幸い事なきを得たようだ。 彼の知遇を得たのは、もう10年以上前のことになる。独語と古代ラテン語とエルザス語にも堪能な彼は、文学や芸術への造詣も深く、ワイン関連も含めて私にとっての師匠の一人と言ってもいい。2年半ほど前、さる出来事のせいで失意の底どころの状態ではなかった私の危機について、手紙の文体からだけ(文面ではそれについては敢えて触れなかった)で見抜いた炯眼の持ち主である彼からは、多くのことを学んだように思うし、昨年の暮れパリで彼と昼食を共にした折にも、旧交を温めると共に再びいくつかのことを教えられた。 たとえば、多くの人の中にあって救いがたいほどの孤独を感じたときこそ自らに向き合うことで超越的なものの崇高さを再度見いだすいい機会であるということ。 たとえば、この世界の中には腹の立つこと、つまらないことは余りにも多いけれども、美しいものや偉大なものに接することで、私たちの精神はそうした事柄から離れて一人立つことの位置をもう一度確認することができるのだということ。 そして、人間同士は埋めがたい差異を持っているが故に、時として絶望を味わうことにもなるけれども、その差異を積極的に認め合うことのうちに豊かな連帯の萌芽があるのだということ。 長いとも短いとも言えない今までの人生を振り返ってみるに、照れることなく「私の人生は多くの部分を彼(彼女)に負っている」と言い切れる人はさほど多くない。恐らくこれは不幸なことだと今では悔やまずにはいられないが、それでも彼はそのように断言することができる人間の一人だ。スノッブだとか嫌味だとか陰口を叩かれることも多々あるが、それでも今の私があるのは彼のお陰だ。 医者でもないのだから、私が彼にできることは正直ほとんどない。だが、それでも私が生き続けている間は、せめて彼に恩返しの意味も込めて、彼の健康を願いつつ、対話を積み重ねていくことができればと思う。
カンチェリを聴きつつ
(2010.06.16)
人を罵倒することを挨拶の代わりだと勘違いしているような種類の人々が存在する。彼らは一見社交的ではあり、表層的には陽気ではあるのだが、そうした行動が暴露する人間としてのその程度の低さは、彼らとの交流はあくまで形式的なものに留めるべきだということを教える。人を罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置いてはいけないし、彼らの厚顔無恥が消えてなくなることはないのだから、それを願うとか矯正しようというのはそもそも求めてもいけないことなのだろう。 つまりだ。意味がないことに心を動かすべきではないのだろう。意志そのものを放棄することに価値を見いだすという点では、それはストア派的というよりもショーペンハウアーの観念的な厭世論に近いのかもしれない。だが、一方でニーチェ的な高圧的な嘔吐感を常に感じながら重い朝をやり過ごさねばならないのは、どうしたらよいものだろう。
Shure SRH840を買った
(2010.06.11)
通勤等移動時の音楽のお供として、ヘッドフォンはATH-PRO700をここ3年くらい使っていたのだが、ハウジング部分近くのヒンジが経年劣化と普段からの雑な取り扱い故に割れて壊れてしまった。とても修理で対応できるレベルのものではないし、ヘッドバンド部分がだいぶボロボロになってきたので、ここは思い切って新しいヘッドフォンを購入することにした。 今月はベッドのマットレスを注文したり、その他酒代も結構な金額になっていて収支がかなり苦しい状態なので、beyerdynamic DT880とかAudiotechnica ATH-AD2000のような準ハイエンドヘッドフォンにはとても手が出ない。前者は開放型なんで電車の中で使うのはそもそもNGですが。 そんな中で色々と比較検討を繰り返して、ShureのSRH840を買うことにした。購入先はいつもの如くAmazon.co.jp、価格は約18,000円。注文した翌々日には落手。しかし箱が大きいね。 で、夜間10時間程度エージングも含めて放置した後、私がいつも使うCowon D2TVにて聴いてみた。 第一印象は、高音部の賑やかさは33KHzまでの再生レンジを誇るATH-PRO700にやや劣るものの、声部の解像感は驚くほど高いということだ。特にマーラーやストラヴィンスキーの曲を聴いてみると、それぞれのパートがどういう音を鳴らしているのかがかなり確実に聞き取れる。これはすごい。しかもそれでいて解像度優先で全体のフォルムを崩すようなことにはなっておらず、立体感をしっかり保持したまま解像している。 また、低音部は本機の方がインピーダンスが若干高いためもあってか、やや安定感が高く、クラシックなどでは和声の変化を追いやすい。ただ、ロックとかJ-POPなどの場合では聴き疲れる可能性もあるだろう。 その他、DJ向けヘッドフォンでは余り重視されない、ホールの残響や静音部での音量の減衰もしっかりと聞き取ることができ、トータルとしては弦楽器などは艶のある音色を繊細さとともに堪能することができる。 唯一問題なのは右側のドライバーユニット向けのケーブルが外側に露出している点で、鞄に収納するときは丁寧に袋にしまってやらないと断線の危険性がある点だ。これは普段から丁寧に扱う習慣を付ける他はない。 まとめると、2万円以下の中級価格帯のヘッドフォンとしては非常に出来がいい。これがゼンハイザーみたいなメーカーだったら4〜5万円くらいの値段は付けていたかもしれないと思うと、Shureの英断には拍手を送りたい。ただし、ここまでの性能になってくると、128Kbps程度のMP3だと音源によってはかなりアラが目立ってくる。実際、今から10年以上前のエンコーダでMP3化した128Kbpsの某アニソンを聴いてみたら、高音域でのボーカルの立体感の喪失(特にリバーブを強めに効かせた音源だとひどい)や、ストリングスの旋律が圧縮のせいで妙に線が細くなっているのが明確に分かる。そんな訳なのでこのヘッドフォンを使って圧縮音楽を聴くのであれば、容量の許す限り高ビットレートでのエンコードを行うか、可能であればFlacのような可逆圧縮フォーマットを使った方が幸せになれると思う。 |
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