2006年06月
有難いねえ  (2006.06.27)

この前の日曜日は飲み会ゆえ、(月曜を無視して)都内某所で友人達と飲んだくれていたわけですが、行く途中の乗換駅で昔の教え子二人に会いました。

知らない人のために一応書いておくと、私は過去に1年半ほど塾の講師をしていたことがあり、その時受験学年だった元生徒二人にその日偶然出くわしたというわけです。

今は彼女らは高校生な訳で、確かに化粧の仕方も上達しており、そしてもう一度の受験の年齢になっていて、将来の身の振り方も含めて色々悩むところもあったりする訳です。彼女らの進学した学校は決して上位とは言えず、就職は視野に入れないまでも専門学校に行ってサクッと社会に出るのか、あるいは大学受験をするべく、嫌いな勉強をもう一度しなければいけないのか、等々悩みは尽きないようでした。

そんな中でも有難いなあ、と思ったのは、彼女らが私を未だに「先生」と呼び、電車内のマナーをガタガタ言うとそれなりに従順に言うことを聞いてくれる点でした。あの塾の講師の間での私の評判は決していいものではなかったけれど、今こうしてかつての教え子に会って、今でも彼女らがそのように私を見なしてくれているのを確認する機会に恵まれると、あの劣悪な職場でもそれなりに頑張った甲斐があったのかな、と少し思ったりもしました。

そんなわけで、その日のお酒はちょっぴりおいしかったですよ。


インファンスの眠りの中で  (2006.06.23)

ここはなんてあたたかくて
やさしい人ばかりなのだろう
すこしだけ眠ろう
慣れてしまえばきっとここも寒くなる

抱きしめられるたび    聞こえてくる声
そこじゃないとささやく    そしてまたひとりが始まる
            (篠原美也子「ここはなんてあたたかくて」)
篠原美也子の「ここはなんてあたたかくて」で歌われているのは、恐らくは救いようのない孤独に襲われたときに躊躇いがちに扉を広く私達の内なる、言葉を持たない記憶である。その誰も入ることのできない薄暗い小部屋の内側では、かつて、あるいは不確かな形ではあるかもしれないが、孤独が、生の無意味さが宥和されうるという希望に満ちた瞬間がもたらした恩寵の断片が時の奥底を湛えながら優しい光を放っている。その何物も照らし出すことのない光の静けさは、私達の傷だらけの肌をいたわるように包む。

徹底的な孤独の、皮膚を全て剥ぎ取ってしまうような苦痛の寒さの極北において時として辿り着くことが許されているのは、この感じることすら困難なあたたかい陋居の幻想であろうと思う。そしてこの記憶の破片は、自ら語り出すことはできず、弱さに満ちた悲しげな怯えたその瞳を虚ろに向ける。
ここはなんてあたたかくて
静けさに満ちているのだろう
すこしだけ眠ろう
慣れてしまえばきっとここにもいられなくなる

孤独の旅の、意味そして故郷喪失の果てに左の掌に漸く見出した希望の断片と夢への細い回廊。この鍵の可能性を夢想することができる者のみに許された、或いは与えられた風景が有り得ると私は信じたい。そして、この場所に微かに吹き付けてくる風の囁きに耳を澄ますことによって、悲しみは初めてその一歩を抱き締めることができると思うのだ。


寝不足の瞼に生まれたての朝は眩しすぎる  (2006.06.21)

目的も、意味も、希望も、喜びも、愛情も、優しさも、美しさも、あたたかさもない生というのは、なんと空虚なことだろうと思う。

いつでもそっと手がかりをくれた夜は
いつしかただ眠るだけのものになった
朝を待たなくなってどのくらい経つのだろう
                                                      (篠原美也子「サヨナラ」)

それでも重く、行く当てのない夜を越えて朝の躁に打ちのめされて。
こんな放浪がいつまで続くのだろう。
ひたすら眠り、泥のように何もかも忘れて眠りたい。


オーノー  (2006.06.19)

http://www.papas-dept.co.jp/shopping/papas/p32.html

これ掲載のアロハシャツ買っちゃいました。
パパスはカタログの文句が頭悪すぎるのだけど、服自体の仕立ては非常にまっとうなので、お出かけ着としては心動いちゃうねえ……このカタログに載ってるサマージャケットもいいけど、ちょっと手が出ません(涙)

Yシャツやらネクタイも併せて買ったので、来月のカードの請求が鬱だ……


火星人ギーレンの大出世  (2006.06.17)

マーラー/交響曲第10番(D.クックによる補筆版)/ミヒャエル・ギーレン指揮/南西ドイツ響を聴く。

クック版のマーラーの10番といえば、ラトル指揮のBPOライブ盤が定番と言われて久しいが、昨年発売されたこの録音もそれに負けず劣らず素晴らしい。

ギーレンと言えば現代音楽フリークにはおなじみの指揮者で、彼が昔振ったベートーヴェンの交響曲第5番の録音はケーゲルだってこんな解釈はせんだろうという水準の抜け殻演奏で、逆にノーノの『広島の橋の上で』とかの演奏は正確無比としか言い様のない実に的確かつテンションの高い素晴らしい録音に仕上がっているし、同じくノーノの『セリーに基づくカノン風変奏曲』とかリゲティの『レクイエム』の録音なんかも実にドライないい演奏としてごく一部で評価が高い。
と言うわけで本録音はどうせ重油のようなマーラーの苦悩をあっさりそぎ落とした骨組みだけの即物主義の極北のような演奏かな……と高をくくっていたら大違いなのでこうしてレビューを書いている次第です。

確かに、ギーレンのタクトさばきはインバルなんかの演奏と比べると圧倒的に主観性が足りない。だが、そこにはマーラーの晩年の懊悩から倫理的に距離を置こうとするギーレンの節度ある解釈態度が伺えるように思える。歌うべき所は確かに歌い込んでいるのだが、すすり泣きを分かち合うような共感ではなく、あくまで4メートルほどマーラーから離れてマーラー最晩年の肖像を、ギーレンの視点から彫琢しようとしているように感じられるのだ。

演奏は総じて丁寧に音符を追っており、主観性に流れてスコアの音価を蔑ろにしていることはないし、音符間のアーティキュレーションはわざとあっさり目で鋭角的な鳴らし方をしている。このあたりはギーレン節といった感じ。特に中間楽章はそのドライさが逆にマーラーの躁状態の悲しさを的確に示しているように思う。そのキッチリした演奏は彼の楽しげな表情自体がなにか浮薄であるという迷い、怯えを感じさせてくれる。

そして終楽章。大太鼓の一撃が素晴らしい。自らをこの世から引きずり攫っていく死神の弔鐘のように響く凄絶な一撃。スフォルツァンドかつ余韻を抑えた鳴らし方(マーラーの指示通りではあるのだが)がこの世界からの別離の虚無の深淵を恐ろしい程に刻印してくれる。それに続くフルートのソロは比較的自由に歌い込んでいたパユに比べるとやや固い印象はあるものの、乾いた印象を持続させるという点では効果が大きい。

そして最後の弦セクションの13度の跳躍も艶がありつつ寂寥感と諦念が無限に滲み出てくる穏やかさ。ああ、マーラーは、第1楽章のオーケストレーション作業をしていた頃はまだこの世にいたマーラーはもうこの世にいないのだな、永遠に手の届かない彼方へと旅立ってしまったのだな、という切ないほどの喪失感を与えてくれる。 この世界に生き残ってしまった我々が、彼岸のマーラーへと呼びかけるような哀切さが身を切るような痛さで伝わってくる。

いやー、ギーレンの指揮でマーラーを聴けるとは、長生きはするものですよ奥さん。


ええ、忘れたですよ  (2006.06.16)

なんか今日ドス黒い気持ちになったが、家帰って某秘密●ールズのPV観たら忘れちゃったですよ。

おおお、リピートして観てたら段々頭がパーになってきた……

ゆりまんせー。


そんなことをディスプレイを見ながら書き込む三十路男が一人。


  (2006.06.15)

時は全てを連れてゆくものらしい
なのにどうして寂しさを置き忘れてゆくの
いくつになれば人懐かしさを
うまく捨てられるようになるの

 難しいこと望んじゃいない
 有り得ないこと望んじゃいない
 時よ最後に残してくれるなら
 寂しさの分だけ愚かさをください


この歳になって再び寂しさが身にしみる。
長い夜を一人きりで歩いてゆかねばならぬ事の身を切るほどの孤立感と寂寥が私を苛む。

いっそ阿呆になれたら。精神をかなぐり捨てることができたら。


汚いとな  (2006.06.12)

上司に本棚の写真見せたら「汚ねえうぎゃー」と言われました。
ショック。片付け決定。


133  (2006.06.11)

Quel sont donc, ma belle amie, ces sacrifices que vous jugez que je ne frais pas, et dont pourtant le prix seulement, et si je balance à vous les offrir, je vous permets d’en refuser l’hommage. Eh! comment me jugez-vous depuis quelque temps, si même dans votre indulgence, vous doutez de mes sentiments ou de mon énergie ? Des sacrifices que je ne voudrais ou ne pourrais pas faire! Ainsi, vous me croyez amoureux, subjugué ? et les prix que j’ai mis au succès, vous me soupçonnez de l’attacher à la personne ? Ah! grâces au Ciel, je n’en suis pas encore réduit là, et je m’offre à vous le prouver. Oui, je vous le prouverai, quand même ce devrait être envers Mme de Tourvel. Assurément, après cela, il ne doit pas vous rester de doute.


言葉なんか通じやしない  (2006.06.10)

コミュニケーションが嫌いだ。

特に極端な即時性に依拠した、即ちメールのような形態でのコミュニケーションは、媒体としての特質を意識することなく日常的なコミュニケーション手段として存在し続ける限り、それ自体としてむしろ悪しきものであるとすら時に私は思う。それは考える暇とそれに伴う沈黙を応答に対する怠慢と解釈させる、あるいは応答がない事への際限ない疑心暗鬼への道の口実をもたらすらだ。当意即妙な、そして機を逸しない、クロック周波数の高いコミュニケーション能力とある種躁状態のような饒舌さがなければこのようなコミュニケーションの洪水の中で生きていくことはできないと私は感じる。

だが、そんな物に価値があるのか。リアルタイムで流れ去ってしまうような言語の交換はそもそもが無意味な槍の投げ合い、さもなくば沈黙が示唆する孤独の深淵を侮蔑的に恐怖するが故のその場凌ぎのごまかしでしかない。ラクロの『危険な関係』は書簡形式で話が進んでいくが、対話というものが内容と意味を持つためには単なる口頭での軽佻なやりとりではなく、熟考を経た上での自らの孤独に根ざした意識が必要なのではなかろうか。

その時の言葉は恐らく時として口ごもりがちな、鈍重な様子を帯びる。言語ならざるものに近接する恐れと戦きは言語の伝達性が有する実にあっけない限界、つまりは己の無力さを直接認識させるからだ。そしてそのような暗い隠れ家からもたらされる言葉こそが、語る者の魂のありかをうっすらと暗示してくれるように私は考える。

にもかかわらず、即時的な応答を強いる今日のコミュニケーション概念は、言辞の即時交換を至上目的とするために、こうした夢幻の交叉路を何の躊躇いもなく破壊してしまう。むしろそうした界隈に低回する態度は不誠実だとでも言わんばかりだ。口をもぞもぞと動かしかけただけで私はラウドスピーカーの罵声に耳を塞ぐことになる。

だがそんなコミュニケーションが一体何だというのだろう。言語は、言語ならざるものを暗示するからこそ語られうる価値がある。まさにそうした言語ならざるものが私の想像力を動かし、そして影を落とし見えざる魂の揺曳への意識のかくの如き跳躍が、他者と私を言語という微かな手がかりで繋ぐ架け橋の蜃気楼を現出せしめるのではないのか。

真率に語る言語というのは本来そういうものだと思う。兎に角静かに、考えさせてもらえないか。


マックス・ロボトミー  (2006.06.09)

週末。もうヨレヨレに疲れた。 寝床に横たわると重力が四肢を苛むのがはっきり分かるほどだ。

こんな風に疲れてるときは、言葉の機銃掃射になぎ倒されがちだから気をつけないとね。


人は一人だと 分かり合いたいのに なんて難しい
言葉は無力で 時には銀のナイフになる

                                               (「スカーレット」)


さあ、眠ろうではないか。  (2006.06.07)

ここ暫くの所どうも気が滅入る状態が続いている。気晴らしに、というか気休めに鎮静効果のある香りのお香を焚いて就寝してみたりするのだが、翌朝の気分の重たさは如何ともし難い。現にこうして日記というか雑記は付けられているわけだから抑鬱ではなく、典型的な不定愁訴の一種だと分類することはできるだろうが。
原因の特定は思うに任せないが、これは恐らく私自身の自我が弱いのかもしれないとは時々思う。周囲の人々の精神状態を完全に無みして日々を過ごしていくような態度は人間としてあるべき姿だとはとても言えないが、かといって人間の悲しみに簡単に感応してしまうのでは、とてもではないが誰かを支えるなどという大仰なことはできない。

とりあえず瞼と意識を落とすことにする。


雄弁は銀であり、……  (2006.06.06)


私達は狂ったように喋り続けている
埋めることのできない空虚と絶望をあたかもそれで隠蔽するように
何も聞かないために私達はひたすらに口をもぞもぞと動かし
堆く積もるは孤独と無駄な時間
理解とは言葉か 向き合えば理解できるとでも言うのか
そんなのはまやかしだ 私達は言い訳の壁を築くためにその場凌ぎの独白を続けているに過ぎない


自己利益と感情と道徳律  (2006.06.05)


瓜田に履を納れず、李下に冠を正さずというが、確かに往々にして多くの人は私の意志とは無関係に、しかも通俗的な解釈を施すものらしい。少なくとも私は、と言い訳めいたことを書くのはどうも気が引けて仕方ないのだけれども、「他者」の役に立とうと行為するとき、私は自己に戻ってくるものとしての自己利益を余り勘定に入れることができない。いやむしろ、ある程度まで打算ずくで行動することができたなら、もう少しこの人生はまともなものになっていただろうとすら思う。相手が助けを呼んでいて、その叫びに自らが主体の意味を剥奪される形で駆けつけたのは自己利益ではなくむしろ倫理に基づく義務に由来するのだ、と説明したところで大概の人は理解すらしようとせず、それどころかそこにあらぬ勘ぐりをしてニヤニヤ笑おうとする。
哲学を学んだ者として、過去にもこの手の無理解と難詰にさらされたことは一度や二度ではないから、ある意味慣れっこといえば慣れっこではある。だが、だからといってそうしたことにいつも全く傷つかないというかというとそんなことはなくて、最近ではコミュニケーションそのものを否定する心象が頭をもたげてくるのを感じるのだ。コミュニケーション嫌いは別に今に始まったことではないが、そして価値を異にする人に言葉を紡ぐことを嫌がるわけではないが、下手をすると数分で消え去る感情よりも自己を越えて行為を道づける定言命法としての義務を、そして善に対する意識を持ち続けているのだと説明することを、例え信仰を持っていてもそれを感情でしか定義づけられないような人々に説明することは根本的に不可能なのではないかとすら感じる。

その中で、自らの義務意識をいかに根拠付け、正しさの不在という明るみの中で他者との関わりを思考するべきなのか。私にはそれが分からなくなってきている。


巷に雨の降る如く  (2006.06.04)

疲労が激しい。

先日、ゾラのボヌール・デ・ダム百貨店を読んだ。今のサル・ガルニエ近くのミショディエール通り界隈に店開きした百貨店「ボヌール・デ・ダム百貨店」がいかにして周囲の零細小売業を破壊していったのかという話である。

で、話のメインの筋は田舎から親類を頼ってパリにやってきたドゥニーズと百貨店店主のやり手親爺ムーレの恋愛なのだが、まあこの辺りの構造は某『風と共に去りぬ』とよく似ていたりするので別段どうでもいい(但し、ドゥニーズを想いすぎる余りメロメロのヘロヘロになっているムーレの内面描写は色々な意味でリアリティがあって笑える)し、百貨店の圧倒的な資本のパワーに押し潰されていく零細小売店の店主に向かって「お前らの商売のやり方は古い」と平然と言ってのけちゃったりするドゥニーズの精神構造にも疑問符が付きまくりなのだが、それはそれとしてボヌール・デ・ダム百貨店(つまり大規模小売業)が周囲の零細小売業を片っ端から蹂躙していく様子は実にリアルで圧巻である。いわゆる街の洋品店みたいな傘職人、帽子屋等がなぎ倒され、ボーヌ・デ・ダム百貨店に立ち向かうべく廉売競争に突入した生地屋は大赤字を出した挙げ句店主は破産して自殺未遂。そこそこ手堅い商売をしていたボーデュのラシャ屋は婿養子に決めていた男コロンバンがデパートの店員に恋慕して身を持ち崩し、店主の娘ジュヌヴィエーヴは悲嘆の余り死んでしまう。つまるところ百貨店一つで周りの人間の人生は滅茶苦茶にされてしまうのである。現在世界から観光客が来まくっているパリの美しい都市景観はこの小説が書かれた時代に当たる19世紀中頃にほぼ成立するのだが、その背景にはこのような新興商業資本家の暴力的としか形容の使用のない圧倒的な資本のパワー(及びそれに伴う旧世代の破滅に近い退場)と植民地諸国からの猛烈な搾取がベースにあったことは忘れてはなるまい。
そしてまた現在に目を転じてみるならば、かの百貨店が編み出したマーケティング手法、即ち「女性を徹底的に収奪せよ」という戦略は、そっくりそのまま今日の日本でも生きている。某地下鉄のイメージ広告が片っ端から例外なく買い物マニアの女性を美化・礼賛することによって東京の都市空間のみすぼらしく醜く薄汚く排他的で狭苦しく陋劣で物価と住居費が高く人間性を太平洋に打ち棄ててしまっているダメダメさを隠蔽しているのもそういう搾取の文法に則っているのだ。


いつまでも いつまでも いつまでも このままでいようって約束した  (2006.06.02)

あたしたちはまるで17才のように
夜が明けるまで話をした
あたしたちは短い永遠の中で
遠い夢の話をした

Like seventeen
戻れない日々はなぜ
あんなにきらきら光って
                         篠原美也子『Like 17』

私が好むと好まざるとに関わらず時は過ぎ、周りの風景は老いてゆく。
あの日に抱いていた希望や理想はどこへ行ってしまったのだろう。
可能性として提示されていた未来は余りに眩しく、気高いものであったのに。


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