2011年11月
筆が進まんわけですよ  (2011.11.26)


9月気の下旬以来、「例のアレ」についての感想をしたためようと色々と思案しているのだが、うまく内容がまとまらない。理由の一つには夏以来仕事の方が主に環境面でウニャウニャなことになっている(具体的な話はFacebookやMixi等でごく少数のメンバー限定で公開しています)ことや、それに伴う精神面での不調もあるのだが、私という人間は文章を書くことで精神の平衡を保っているようなところもあるので、それなりに近い時期にある程度体裁をまとめて公開できればと考えている。

言うまでもなくネタとしては当然色々あり、それを内容としてきっちりまとめた場合膨大な分量になることが見えているため、ある程度の読みやすいサイズにまとめた場合は例によって非常に抽象的で晦渋な内容になってしまうことが予想される。そうはいっても元々私の文章はごく一部の限られた人以外には難解で場合によっては衒学的ですらあるらしいので、そのあたりはそもそも気にする必要はないのかもしれないが。

そういうこともあり、ネタの一つである合理性の問題について目下アイディアを整理している。非常に基本的な弁証法的言い方を採用するのならば、非合理に対立するものとしての合理性は、それ自体として自己目的化した場合、むしろ非合理に転落するということだ。つまり、謬見や迷信を克服するためのものではなく、それ自体を価値として理性がその対象となった時、理性はその段階ですでに狂気であるということだ。そして我々の理性あるいは合理性なる精神は、実は我々自身の野蛮を克服するものではなく、むしろそれをさらに盲目的に推し進める(それこそ「合理化」する)契機へと成り果ててしまう。だから、かようにも合理化あるいは合理的思考なるものが社会的諸力の基盤として見なされている現状は、それ自体として実はメタ的、弁証法的な意味で再度合理化されないといけない。にもかかわらず、このような理性による理性の自己批判ともいうべきプロセスに当たっては、実は別の審級が要求されることを我々は理解しなければいけないし、そしてこの問題について理解することはできても価値を認める人はそう多くない、ということは我々は認識してしかるべきだろう。なぜなら、そのような思考法は彼らにとってはまさしく「非合理的」なものだからである。

ではその契機、あるいは価値についいての認識を促すものとは何か。そんなあたりまで話が及んだところで今日はこの辺で。


新宿「でめ金」にて串揚を食う  (2011.11.21)


11/18は新宿の「でめ金」にて知人のフランス人カップルをもてなした。今までは初台の「シラノ・ド・ベルジュラック」とか新宿住友ビルのザ・ワインバー(人数が結構多かったので)といったフレンチ中心で攻めてみたのだが、今回は毛色を変えてみようということで、串揚げ屋を選んでみた。「おまかせ」で勝手に色々と出てくるというシステムを体験してもらうのも悪くないと思ったからだ。

会話に結構エネルギーを取られたこともあり、串揚げ自体は結構サクサクホクホクでおいしかったという印象くらいしか残念ながら残っていないのだが、特に彼氏の方は大変に酒に詳しく、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝がスコットランドに単身修行に出かけてそのノウハウ(と嫁さん)をあらかた取ってきてしまった――これはいわゆる「竹鶴ノート」として知られている――の話まで知っていてびっくり。確かにフランスではイギリスへの対抗意識もあるせいか日本のウイスキーが比較的人気があるのだが、彼自身が日本のウイスキーを手に入れられる店を滞在中に探していて結構難儀していたようだったので、後日竹鶴21年を送ってあげた。結構高かったが、今度パリに行った時にでもたっぷりお礼をしてもらおうと思う(笑)。

なお、彼らは後日大阪方面に旅行に行き、山崎蒸留所の見学とテイスティングを楽しんできたそうな。本当にウイスキー好きなんだなあと感心した次第。対抗上、私も時間を作って宮城峡蒸留所に見学に行く必要があるかもしれない。


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