2004年10月
陳腐な引用だが  (2004.10.31)

外国で飛行機が堕ちました
ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」「いませんでした」「いませんでした」
(The Yellow Monkey『Jam』)

日本人が元気に手を振っていますとリポーターは興奮して伝え続ける
黒い蟻のようなあの1人の兵士のことはひと言も触れない ひと言も触れない

日本人の家族たちを喜ばせるためのリポートは 切れることなく続く
しかしあの兵士にも父も母も妻も子もあるのではなかったろうか
蟻のように真っ黒に煤けた彼にも 真っ黒に煤けた彼にも

あの国の人たちの正しさを ここにいる私は測り知れない
あの国の戦いの正しさを ここにいる私は測り知れない

しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう

この国は危ない
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
日本と名の付いていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう
(中島みゆき『4.2.3』)

ダルフールでは今日も虐殺が続いているわけで。
……日本人の死は日本人だけが悲しむ。外国人の死は外国人だけが悲しむ。どうしてこうならなければならぬのであろうか。なぜ人間は人間同士で共に悲しみ喜ぶようにならないのか。平和を愛する人。……私のように意久地なしのものにはこんな言葉が痛切に感じられてならない。
(『きけ わだつみのこえ』岩ヶ谷治禄氏の手紙)



小銭を抱いて  (2004.10.28)

履歴書を書きながら、日本人人質の話をテレビで見る。

仄聞するところでは所持金は1万円足らずだったとか。カードを持ってるのかどうかは知らないが、帰りの飛行機の切符を買える金額では当然ない。

とするなら、もしかするとこの青年は死に場所を求めてイラクに入ったのかもしれないね。ボクサーになるとかそういう夢もとっくに破れて、しかも高校中退で無職となれば余程の技術を持ってない限りお天道様の当たる世間への復帰は(こと「勝ち組」のレールから逸脱したものに対する懲罰が容赦ない日本では)難しい。プライドだけ無意味に高ければ人生への希望などチグリス川へ投げ捨ててしまえという気持ちにもなるだろう。

だからもしかすると、彼はアルカイダにでも入ってイスラエルでドカンとやりたいねー、とか思っていたのかもしれない。破れかぶれだけど体力はあるよという人の受け入れ先だった外人部隊も最近は語学テストがあるというし(=受からない)、手っ取り早く花火を打ち上げるにはイラクは格好の青山だと思ったのかもしれない。そういう点では彼の心象は日本赤軍の夢敗れた革命家達に似ているのかな。

しかし、捕まったあとで色々反省してみれば、そうした自棄も観念的だったと理解したのかもしれない。

かの青年の無謀を弾劾するのは簡単だし、アラビア語もクルアーンも知らないでアルカイダなんて寝言は寝て言えというのは実際正しい。だが、そうした厭世的自暴自棄を産む土壌がこの島国には根強く残っていることもまた事実だろう。

いずれにしてもこれは邪推の域を出ないが。

園遊会での米長邦雄の発言を読む。「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」とか抜かしたらしい。一線から退いたとはいえ、お前の仕事は将棋指しではなかったのか。林葉直子を破門した辺りまではそれなりにまともな人間だと思っていたが、こいつも中原某と変わらぬ水準の白痴であるということがよく分かった。将棋指しで名前も知れているのならば、囲碁に最近押され気味の将棋の普及活動に精を出せばいいのだ。私も彼の四間飛車とひねり飛車の解説書にはお世話になったが、入門書とか定跡書とか書くべき本も色々あるだろうが。プロならプロらしく本業に精を出せ。

君が代を国歌と見なすのは個人の政治信条の自由である。日の丸にしたってまあいいだろう。だが、それを掲揚・斉唱「させる」のは愚の骨頂である。昨今の東京都の教育現場の右傾ぶりは都知事のアレゲさと相まって一種のお笑いに近くなっているが、現場の人間はお笑いでは済まされまい。ルソーは「強制されたものは何一つとして心の中には残らない」と『エミール』の中で書いているが、彼の実際の生き様の駄目っぷりや女性蔑視は批判されるにしても、この点は正しい。
つまりだ、米長は国旗・国歌を押しつけるということでその普及を妨げているわけで、その点からすれば国歌・国歌を冒涜しているのである。高校生にもなればそのあたりのイデオロギー的自滅っぷりは分かる。左翼勢力にとってこれほど有難い話はない。田中ウーはブッシュのネオコン主義はアメリカを自滅させて多極的な世界を展開させようとする、パウエルなどによる遠回りな陰謀ではないかとかなり突飛な陰謀史観を巡らせているが、こういう右翼連中のダメダメ発言を目にするに付け、彼らは左翼を利するためにそうした墓穴をガシガシ掘っているのではないかと考えたくもなる。そもそも、大衆は本質的に保守的だから、黙っていれば世の中は少しずつ右寄りになっていく。前衛という古色蒼然たる集団という発想はそうした現実に対する苛立ちから生まれてきたものだ。だからギャーギャー惨頸やら気違いシンちゃんががなり立てなくとも、一億総白痴の日本ではみんな右翼になってしまうのである。ほっとけば。それにブレーキを掛けるのがサイードの言う「知識人」だということだ。将棋指しは単なる高級技術者なんだからそのあたりを履き違えてはいけない。技術者が勘違いして政治的な覇権の獲得に乗り出すのは大衆社会の病理だということは西尾幹二君も大好きなオルテガが言っていたことではあるが。

まー、プロキシプロ棋士になるには周知の通り奨励会という育成コースで徹底的なエリート教育を仕込まれ、さらに一定年齢までに規定の段位を取ることが必要なのだが、精神的な土壌を形成する時期に将棋漬けにされてしまい、思想的な訓練を積む機会を逸した人間が年を取るとどうなるかということは他の棋士の色々な事例を引き合いに出さなくても分かろうというものだ。このような連中が人間的にかなりヤバいというのは別段棋界に限ったことではなくて、アカデミズムの世界で頻発する腐れセクハラの事例からも一目瞭然なのだが。


アマゾンの続き  (2004.10.26)

で、アマゾンからお詫びが来て、6週間くらい遅れるとのことです。
キャンセルすっかなー。

頭痛がひどい。


仕事を探す必要上、色々なサイトやら雑誌を見ているのだが、面接の心得とやらで明るくポジティヴな性格であることや、その表現技法についてご丁寧について解説しているものが多い。そういう記事は文章を読んでいるだけで眩暈と吐き気がしてくるのだが、なぜこのようなある種の妄信がまかり通るのか。

確かに私の性格は決して明るい方ではない。ここ数年は神経症の傾向がかなり悪化していて、時として睡眠障害を来しているのも事実である。そして、このような傾向をモラトリアムゆえの甘ったれたあり方だと指弾する人々が周囲に数限りなくいるし、社会もそういう風に動いていることもまた事実である。恐らく、こういう思考傾向を持つ人間は、淘汰されていく他はないのだろう。

また、それに対抗するには私はもはや疲れ果ててしまっている。それが状況の悪化により一層の拍車を掛ける。

このような「ポジティブ主義」の覇権は資本主義的な生産至上主義のドグマに由来することは明らかすぎるほどに明らかだ。前資本主義的なあり方が残存する社会では、芸術が本質的に持っている社会に対する敵意が共約不可能性という形で独立した地位と価値を有していた。マラーノが多かったにせよ、芸術の分野ではユダヤ人がそれでも生き残ることができたのはその証である。

そうした立場を夢想するのは単なるノスタルジーだ。それはほとんど全ての人々が意識的であれ無意識的であれ了解している事柄ではある。長三度和音+長調+アダージョ以下のテンポ指定が癒し系としてもてはやされるのは、加速してゆく現代の工業化された時間が我々の生へと侵入してくることに対する必然的な反動の形成である。だが、それにしても、その反動が労働力の再生産に供されるのであれば、結局のところその反動もあまり心浮き立つものではない。結局のところ、それらへの需要は耳を聾せんばかりのBPM=250の音楽的まがい物へのそれと同じだからだ。

そのような価値の覇権に妥協することができない私のような人種は、結局生の主権も奪われて国境沿いの掘っ立て小屋に押し込められるしかない。そしてその寒村でも聞き耳を立てている奴はいて、私の思考を官憲に密告する機会をうかがっているのだ。


アーマゾーン  (2004.10.23)

アマゾンにて本を買ったわけですよ。で、買った時は「3営業日以内に発送」と書いてあったわけで。
でも5日経ってるのにまだ来ない。不審に思ってもう一度本の情報を見てみると、「2〜3週間以内に発送」に変わってますねタイスの瞑想曲(くだらん)。

アマゾンといえば一番下に

左大臣さん、¥ 64,980 で商品が売れます!
Amazon.co.jpで購入した商品を出品しませんか?

とか出てきやがります。この猛烈な目減りっぷりはイヤミですか!    しかもアクセスするたびに金額が減ってくし。
ええ、ええ、アマゾンさんではバリバリ買い物しましたよ。本だけでも去年は30万くらい買ってますよ。今年だって相当買ってますよ。人文系ばっかりだけど。DVDとかCDだってかなり買いましたよ。本家アマゾンからも結構買ってますよハイ。

なのになのになんでそんなに「貴様の買ったものには市場価値などないのだバーカ」みたいな罵倒をしますか(;´Д`)

(;´Д`)(;´Д`)(;´Д`)(;´Д`).....


書けない  (2004.10.22)

ああああ、某筋から依頼された「体験談」が書けん! 書いているうちに気持ちが悪くなってきて全部デリートの繰り返し。ああああ。

人間にはそれぞれの速度とあり方があるわけで、生存にかかわる問題でなければもっと私達はダラダラしていいと思う。


ああ  (2004.10.20)

社会的に文学部、就中大学院まで行った人間は完全にゴミなのだということがよく分かった。

冬眠したい。


現象を越えて  (2004.10.18)

眼前の事態に囚われてはいけない。それが何を象徴しているのか、何を意味しているのか、考える。

「アニーとボンボン」の歌詞を読む。
あうー、こりゃどっからどう読んでもヤク中の姉ちゃんが薬代欲しさに売春やってる話ではないか。
こんなのをオシャレなフレンチポップスとか勘違いしている輩はアウアウアウアウアウアウ……


クトゥルフじゃないよ  (2004.10.17)

HDDの中味を整理していたら、アトラク=ナクアを発掘したので思わず終盤の「ホコロビ」辺りから再プレイしてしまう。後半の展開は悲劇の典型を踏んでいることもあり、それほど虚を突かれてビックリ、ということはない。そもそもが主人公が人外の存在である(元々は人間であるが、物語中では手負いの女郎蜘蛛の化け物である)という出発点からして、その死が終盤に待ち受けているであろう事は当然といえば当然だろう。
だが、この物語は単なる手軽な悲劇と片づけるには余りに惜しい。そこには正邪の区別が転倒された世界における和解の契機が、極めて否定的な形で示されることにより、我々を支配する様々な原理に対するより根源的な敵意としてその日常性の中に突きつけられているからだ。夜に住まう者は正しき者の支配を首肯しつつ、また同時に彼らによっては自己は決して肯定されない存在であることを知りつつ、彼らに敢えて滅ぼされることで彼らの正しさの暴力性を突きつけるのである。
無論、ここで主人公である初音を死に至らしめるのは邪神であるところの銀である。正邪の地平で言えば確かに彼自体も「正」の側にいるとは言えない。だが、決定的なのは、銀が神として男性的支配原理、もっとあからさまに言うならば男根的な支配機構の側に属しているという点である。即ち、価値は逆転しておれども、銀はその中で支配者として君臨している以上、「正しさ」の存在論を全て統握しているということになる。それに対して主人公である初音は、日の光によって肯われた正しさの世界からも、また同時に純粋に邪悪な世界からもその立場を認められることがない、呪われた者として立ち振る舞わざるをえないのである。そして我々が彼女に対して安易な自己同一化を許さない語りのスタイルも、彼女による我々自身への容赦ない批判の匕首を構成することになる。この作品がその総体において我々に厳しい衝撃を与えるのは、そのような文体のあり方それ自体が初音の敵意と嘆き(彼女は人間であった時代、村人によって輪姦されている)を象徴しているからではなかろうか。

以下、多分「独り言」に続く。


剽窃疑惑  (2004.10.16)

大昔の日記に、Ali Projectの「赤と黒」という曲がグレツキの弦楽四重奏第1番のパクリではないかという話を書いたことがあるが、今日資料が発掘できた。ググって見たところそれを書いているサイトはどこにもなかったので、ここで公開することにする。

ここで行う原曲の使用は、著作権法に定められた研究としての引用であることを宣言しておきます。
使用音源
    『赤と黒』:VIZL-57 blanc dans NOIR〜黒の中の白〜 (2001年発売)←レンタルCD屋で借りてきた
    弦楽四重奏第1番「既に日は暮れて」:WPCC-4390 クロノス・カルテット演奏(1991年発売)


まず、「赤と黒」の冒頭部分。
ここをクリック
で、グレツキの弦楽四重奏第1番の8分くらいのところ。
ここをクリック
キーとテンポが違いますが、メロディの反復回数は一緒です。

次。『赤と黒』の一番最後。
ここをクリック
で、グレツキの弦楽四重奏第1番の1分くらいのところ。
ここをクリック
キーが違いますが、他は完全に一緒です。

ちなみにグレツキは1933年生まれのポーランドの作曲家で、交響曲第三番「悲歌」(1976)が非常によく知られている。ロンドン・シンフォニエッタとドーン・アップショウ(Sp)による演奏の録音は涙ウルウルの名演。

前者のCDはレンタル屋で見つけてきたのを使用しているので、ライナーノーツに引用の旨書いてあるかどうかは分からないのだが、もし書いていないとしたらいかがなものか、と思ってしまう。


待ちきれない  (2004.10.12)

えー、翻訳が出る出る言っときながらかれこれ2年半も待ちぼうけを食わされている本があります。

勉強ついでに仏訳版から翻訳することにしました。全集版は手に入らなかった。

さて、何の本でしょう?

出来上がったところからボチボチ公開していく予定です。無論、無保証。誤訳てんこ盛り予定。


デリダが死んだ  (2004.10.09)

表題の通り。

何とも言いようのない鬱いだ気持ちになる。


薔薇でいっぱいのお墓  (2004.10.08)

「着うた」がどんなものなのかということで、サンプルを落としてきてみた。曲は『愛の賛歌』のジャズバージョン。

なんか違う。

オリジナルにあった猛烈な生命力の奔出が全くない。

だってもとの歌詞はこんな凄まじいものなのだから。

Le ciel bleu sur nous peut s'effondrer
                            頭上の青空は崩れ落ちてしまうかもしれない
Et la terre peut bien s'écrouler
                            そして大地はひっくり返ってしまうかもしれない
Peu m'importe si tu m'aimes
                            そんなこと構うものか、もしあなたが私を愛してくれるなら
Je me fous du monde entier
                            私は世界全てを鼻であしらおう
Tant que l'amour inondra mes matins
                            愛が毎朝私を押し流してくれる限りは
Tant que mon corps frémira sous tes mains
                            あなたの手の下で私の身体がわななく限りは
Peu m'importe les problèmes
                            問題があろうと構うものか
Mon amour puisque tu m'aimes
                            恋人よ、あなたが私を愛してくれるのだから

で、最後には

Dieu réunit ceux qui s'aiment.
                            神は愛し合う者同士を再び結びつけ給う


こういうのを都市居住者の惰弱な手垢にまみれさせてはいけないような気がする。


でけた  (2004.10.07)

着うたできた。うわーい。
その他は、なんとも滅入りがちな秋の一日。

人を罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな! (ニーチェ)


イーピネゲイア  (2004.10.03)

大昔、私がまだ大学生だった頃、2年間ほどだが学生オーケストラに入っていた。入りたての新人は課題の練習曲としてグルックの『アウリスのイーピネゲイア』の序曲を延々練習させられる。曲自体は難易度も低く、はっきり言って全然面白味のない作品なので、暗譜がすんでしまうとトゥッティでの練習はひたすら同じことの繰り返しの苦行状態になる。この辺りはザイツのヴァイオリンコンツェルトと似たり寄ったりだ。

で、昨日。
買ってきたルーヴル美術館のDVDを見ていると、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番やらなんやらに混じって、どこかで聴いたことのある厳めしいだけのつまらない旋律が流れてきた。どっかでこの曲聴いたよなあ……と記憶をたどってみると、まさしくそれはかの『アウリスのイーピネゲイア』序曲であった。DVDで使われていたのはワーグナーによる編曲版なので多少の異同はあるのだが、まさしくあの「アウリス」である。スコアはおろか録音すら滅多に見かけないマイナーな曲を何でわざわざ使っているのかよく分からないが、リップノイズ混じりのナレーターの解説と唐突に入ってくる「アウリス」のツープラトンで、1時間足らずのDVDはほとんど画面に注目することができないままだった。
もう一枚はヴェルサイユ宮殿のものなのだが、ここで借りられる日本語版オーディオガイドの凄まじさは人々の間でちょっとした話題になるようなものだったりする。その特徴を説明するのはかなり難しい(文章は普通)ので、知らない方にはお詫びするほかないのだが、このDVDのナレーションに件のオヤジを起用しているのだとしたら泣くぞ。


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