2005年04月
そんなもので  (2005.04.30)

「人生とは裏切られた希望、挫折させられた目論見、そうと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない」
「未だかつて、自分は本当に幸福だと感じた人間は一人もいなかった。――もしそんなのがいたら、多分酔っぱらってでもいたのだろう」
(A.Schopenhauer)


アンプラグド?  (2005.04.29)

篠原美也子の新アルバムが届いたので聴く。

何かに抗うかのようなアンティームでアコースティックな響き。けれども眼差しは限りなく優しくなっており、子を持つ母親のそれになっているといえば類型化のしすぎだろうか。

ああ、ライブに行きたくなってきたな。


倒れた  (2005.04.20)

ついに仕事先で倒れました。
ストレスが限界で人間の声が恐ろしいです。

字を追うこと自体は苦痛ではないので、寝床で山田昌弘『希望格差社会』を流し読みする。

はっきり言ってこの本はクズだ。これならまだキルケゴールの方が救いになる。というか、宗教的実存を口実に新興宗教に走る連中の病理を的確に描写しうるだろう。
で、単にクズだと断定するだけでは投下したお金が勿体ないので、とりあえず何がクズであるのかを書いておく。

本書では戦後の高度経済成長社会が有していた右肩上がりの社会動員モデルがいかにして崩壊し、社会と自己実現の未来に希望が持てなくなってしまう層が出現したのかを偉そうに述べているのだが、それに対する処方箋が全く見えない。それが最大のクズであるゆえんである。各種統計資料の解説は官公庁から発行されている白書の類と大差なく、統計局の収入と家計に関する資料とかをざっと眺めるだけでも十分に述べられる程度のものでしかない。そんなのは当然の所与として処理した上で、それに対してのつまらぬ政策論に完結しないだけのビジョンを提出するのがこの種の本の役割ではないのか。にもかかわらず本書では社会学の授業よろしき統計の解説に250ページも割いた挙げ句、「政策面でのセーフティネットが必要」という、バカでも思いつくような安易な結論に逃げている。まー、偉い大学教授(同書の著者は東京学芸大の教授だそうだ)に収まってしまえばこの辺りの危機意識は希薄になるんだろうが、私も含めて、日々絶望に苛まれつつ生きていかねばならない(そういう点では、練炭で命を絶てる人々には私は羨望すら覚える)人間の社会全体に対する怨恨の深さは到底彼にとって理解できるものではないのだろう。今から10年も前に、鶴見済がなぜ「絶対に来ないと知っていつつも、僕らはデカい一発が来ないかとワクワクしている」と『完全自殺マニュアル』関連の本の中で吐き捨て、小阪修平が「オウムのやったことは許されないが深い同情を感じる」と覚悟して言い切ったのか、そのあたりの実存的危機が彼には理解できないのだろう。その種の問題はほとんど神経症か鬱病に近い哲学的感性がなければ接近不可能といえばそうなのだが。

だが、このような著者の素養の問題は著者がいずれくたばれば解決する問題だから、本質的には何ら重大ではない。むしろ、このような事態あるいは現実に対する哲学的言説が介在する余地が全くない、あるいは極めてエキセントリックなものとして処理されてしまう日本の現実の方が、余程人々を「絶望」させるものとして重大視されなくてはならない。知識人ヅラをしてメディアの表面に出てくるのがいわゆる旧来の意味での「知識人」ではなく上級テクノクラートでしかないという日常(教養教育の方向性が物語るように、知識人は専門的技能を持つか否かという観点から考えるならば、そもそもが全くの役立たずである)は、マックス・ヴェーバーを引用するまでもなく最悪の大衆社会のリアルな一側面である。

以前『死に至る病』を読んだ時には、「神神うるせえオッサンだなこの著者は」とひねくれた見方をしていたものだった。だが今自分が絶望以外に形容すべき語句が見あたらない日々に落ち込んでいるに及んで、彼の唱える宗教的実存の意義が、別の価値を持って現れてくるようになっている。逆に言えば、私の日常は、無神論者を以て任じる私のような人間にすら宗教的諸価値の説得力をすり込もうとしてしまうほどに救いのないものに成り果ててしまったのだ。そうだろう、ステパン?


風邪を引いた  (2005.04.10)

風邪を引いたせいか、身体の関節が少しからず痛む。

明日からまた仕事。面倒くさいなあ……

「もっとも良い復讐の方法は、自分まで同じ行為をしないことだ」(マルクス・アウレリウス)


食事と文化  (2005.04.03)

昨晩はオテル・ド・ミクニで食事をした。ヴェブレンに全力で罵倒されそうな衒示的消費の典型みたいな行動だが、残念ながら普段の生活はとてもではないが有閑階級ではなくてむしろその反対の貧乏暇無しモードにどっぷり浸かって生きている(かといって生産的な仕事をしているわけでもないのだが)のが何とも頭の痛いところだ畜生。で、中味については、食事のまっとうさ(野菜の美味さは特筆されるべきだろう)もさることながら、ボーイやウェイティングバーでのバーテン氏の教養の高さにいたく感心した。ルーヴルでの美術工芸品エリアでの展示順序やアングルの「トルコ風呂」がどこにあるかまで記憶しているのだから、その話題の豊富さは恐るべしである。料理の内容について色々あれやこれやと質問しても、きっちりとした返答を返してくれる辺りも感心することしきりだった。普段飲みに行く新宿東口の某ワインバーではこうは行かない。どうせ同じものしか注文しないし、そもそもの値段がパチンコ玉と対戦車ミサイルくらい違うので当たり前なのだが。このような経験は渋谷の門深沢以来であった。ボーナス入ったらまた行ってしまいそうで怖い。

こういう高めの店に行くたびに(と言っても超高級店は数えるほどしか行ったことがない:しかも自腹は今回が初めてかもしれない)、食事と文化の不可分な関係である。同行者の情報によると、某パリの「スフレ」(←笑うな!)ではあるグラビアアイドルが私の真後ろに座っていてガツガツさっさと食って「おいしい〜」を連発した挙げ句滞在1時間ちょいで帰っていったらしいが、いわゆるコースメニューは普通に食べるとそれだけで2〜3時間は掛かるものだ。大昔通訳の仕事で帯同した時は昼食なのに食べ終わったら午後4時だったというかなり滅茶苦茶なこともあって目を回したが、まともなフランス人と夕食をとると、7時から食前酒片手に自己紹介絡みのお喋りを始め、8時半頃ダラダラと前菜をつつき、最後のコーヒーに辿り着く頃には日付が変わっているのが普通である。往々にしてその後更にビールやらウイスキーやらブランデーやらオー・ド・ヴィをチビチビ飲みながら3時くらいまでお喋りをして過ごすのだから、これは食事に名を借りたお喋り耐久マラソンと言うべきだろう。

でだ。こういう長期戦の食事の場合、口に食料を放り込んでいる時間の割合は当然低下するわけだから、その間を埋めるための様々なネタが要求される。昨晩のオテル・ド・ミクニでも皿と皿の間が場合によっては30分くらいあったのだが、4〜5人で食事をする場合には(主宰ならなおさら)その場をリードできるだけの教養が要求される。TOBやらポイズンピルやらLBOやらPLOやらPCIやらCPUやらPFIなんていうゼニ勘定にまみれた話題は当然のごとく忌避される。銭勘定は仕事ですればいいわけで、食事の時には別の審級が支配しているというわけだ。話のネタがないヤツは仕事ができても薄っぺらな人間として軽蔑の対象になるわけで、飯を食うという行為は必然的に文化的素養の鍛錬を要求する。新橋の縄暖簾ではないので上司やら同僚の噂話をするわけにも行かず、日頃の生活では何の役にも立たない話題をストックしておかねばならない。

従って、ある水準以上での食事という経験は、話題の要請という事態を通じて、文化と教養への視座を持つことを強制する機会となる。強制というと響きが悪いが、成長するということはそのような知的側面も含むのではないかと私は思う。本朝では人間的成長というととかく周囲への気配りやら労働環境における特定の行動様式への服従を意味することが多いが、そんなことに拘泥しているからホワイトカラー連中の生産性がボロボロなままなのではないかとも邪推したくもなったりするのだ。ま、飯を食う時の話のネタの話についてもコードといえばコードなのだけれどね。

さて、明日からまた仕事だ。憂鬱。

追記。
http://www.tunnel-company.com/report/replist.cgi にて、日記のアクセスログが読めます。
ググル経由でのアクセスの多いこと多いこと。


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