2006年12月
ドライブに連れてって  (2006.12.28)


メインのドライブの調子があんまりよくないようなので、一つ買ってきて増設。
結果こんな感じです。総容量約2TB。あひゃー。


とりあえずカフェ東京ブギ浜松町店のほうがいいや  (2006.12.25)

そういえば先日、会社の近所にある
farnham house(ファーナムハウス)http://www.farnham-house.com/index.htm なるメイドお菓子屋さんが珍しく開店していたのでちょいと覗いてみました。ついでに一番安いクッキシュー(150円)を買い求めてきました。
う〜ん、什器が凄い無骨感全開(カウンターから冷蔵庫やらオーブンが丸見え)なのにヒラヒラの服を着たおねえちゃんが「お帰りなさいませご主人様」とか言ってるのはどうも違和感があると思うよ。
で、味はそもそもがカスタードクリームまみれなので別段どうでもいいとして、テイクアウト商品で作り置きできるものなのに目の前で作っているのもちょいと×。まー、「メイドさんが努力してお菓子作ってるぜ萌え」とか思う御仁にはいいのでしょうが。
あー、あと隣でケーキとかを注文していた方は常連らしく、ええ、そんな感じでしたよ……


時の河を越えて  (2006.12.24)

ちょこっと日記でも触れていたように、昨晩(12/22)はMixiにて連絡が取れた小学校の時の同級生と都内某所にて忘年会同窓会をやりました。小生自身は小学校卒業と同時に都内の私立に進学して中3の春にはかなり離れたところに転居してしまったため、今回の再会は実にウン十年ぶりだったわけです。当然誰が誰だか分からなくなっている危惧はあったのですよ。

ところがいざ会ってみるとみんなテンション高すぎ! 時間の懸隔など全く関係なく、会った瞬間にそれと分かるのは人間の記憶力というか認識力って凄いなあと驚きました。特に参加者のひとりが持ってきてくださった小学校の卒業アルバムの効果は絶大! とにかく思い出話やら卒業文集の朗読(汗汗汗汗汗)やらで大いに盛り上がったのでした。

歳月は人を変えるものですが、特に女性陣の美しい変わりようにはその意味を実感した次第です。けれども、いざ話してみると幼少期に6年間も空間を同じくしていたことの意味は大きく、会話の内容と目の前の現在のいい意味での乖離には感慨も一入でした。

そして、このように再会を言祝ぐことは、自分が現在のみならず、過去のある時点にその場所に、多くの親しい人たちと時間を有していたのだということを記憶という曖昧なある種の虚構ではなく、人生を象る色彩の不可欠な燦めきとして極めて内実豊かな意味を再浮上させてくれるように思うのです。現在は現在として完結しているのではなく、多くの過去を伴うことで未来へとより充実したものになるのではないか、そしてこのような反芻は往々にして苦しいものではあるけれども、時として昨晩のような悦びに満ちた機会もまた実に楽し、と思うのでした。

勿論時間は全然足りませんでした。
できれば近いうちにまた同窓会をやりたいなとも思ってしまいました。その折には宜しくお願いします>参加者の皆様。


個人的な一押しはアンドレです。似顔絵も描けます(断言)  (2006.12.22)

『失われた時を求めて』(ちくま文庫版)8巻「囚われの女」読了。

長い長い長いです。今までも長い小説といえば『収容所群島』とか『ジャン・クリストフ』とか『カラマーゾフの兄弟』とか『三国志演義』とかまあそれなりに色々読んでは来ているけど、プルーストのこの小説の長大さは他に比較のしようがない。特にこの巻の厚さは文庫版で800ページ。しかも改行が滅多に出てこないプルースト独特の文体は読むものに眩暈を起こさせずにはおかないのだが、それに齧り付いて格闘していると徐々にその文章から時空を越えて織りなされる語り手の意識とそれと共に穏やかな崩壊を続けてゆく作品世界の有様が醸し出す悲しい色彩が読み手にある種の感慨を与えてくれる。特に「スワン家の方へ」ではあんなに元気であったスワンとベルゴットがこの巻の前半でついに死んでしまう。後者はフェルメールの「デルフトの眺望」を見に展覧会に出かけ、その絵の前で帰らぬ人となる。その折のベルゴットの意識の崩れ去る瞬間に彼が漏らす独白の優美な気高さは、つまりその形而上学的な静けさと絶望と同時に、肉体の拘束を破壊し尽くすほどの彼の芸術に対する思想は、少なくとも読むものの心を打たずにはおかないと思う。
そして当然この巻の主人公であるアルベルチーヌの死の影も見逃すことができないように私は思う。「花咲く乙女達のかげに」ではあんなに生命と躍動に溢れていたアルベルチーヌが、いざ話者との同棲を始めると美しくはあるものの生命感の全くない、漂う影のような存在になってしまう。それもこれもアルベルチーヌの同性愛に猜疑を抱いた話者が勝手に嫉妬を膨らませてあれやこれやのスパイをした挙げ句殆ど軟禁のような状態に彼女を留め置いてしまうからなのだが、眠っているアルベルチーヌの描写はこの上なく美しく、愛情に溢れているのもまた事実なのだ。愛する、そして美しい人が自らの傍らで安らかな寝息を立てているとき、人は皆このような穏やかな感情を抱くであろうという、清らかで浄福感漂うプルーストの筆致は見事という他ない。けれども結局そのような愛情も話者の一方的な嫉妬で破綻してしまうし、フランソワーズはフランソワーズでアルベルチーヌと冷戦を繰り広げていて、「花咲く乙女達のかげに」でアンドレとアルベルチーヌのカップル(!)にある種の羨望を覚えた左大臣としては話者もフランソワーズも少しは反省しろという苛立ちをどうしても隠せないのであった。それだけに巻の末尾でついにアルベルチーヌが出奔してしまうに及んで、勿論私は話者の苦悩を分かち合わないではないのだが、同時にアルベルチーヌがまた彼女の本性であるゴモラの道に邁進してくれる楽しい話を読ませろと胸高鳴らせずには居られないのであった。ゆりまんせー。


(無題)  (2006.12.18)

今週末には久しぶりに小学校時代の級友と忘年会をやる機会に恵まれるというのに、精神状態がかなり悪い。それもこれも人様とペースを調整して物事を行うだけの能力が根本的に私自身に欠落しているからなのだが。それなりに日々矯正するべく呻吟してはいるものの、目下のところ成長のきっかけは見いだせず、溜まるのはストレスばかりという有様だ。年賀状のデザインを練りつつ各種素材集に収められた美しい風景を眺めては溜息をつく時間だけが過ぎていく。

そんな中、アマゾンに注文していたフォーレのレクイエムのスコア(オイレンブルク版)が届いたので、代休を頂いた今日はスコアを眺めつつコルボ盤を聴いていた。
現代音楽フリークである私の趣味の偏向っぷりをよく知る人からすれば、何をまた退嬰的な、と嗤う向きもあるかもしれない。けれども、「怒りの日」を欠いた、当時としては異例づくしのこのレクイエムを聴くとき、就中終曲「楽園にて」の「Chorus Angelorum te suscipiat, et cum Lazaro quondam paupere, aeternam habeas requiem」(天使たちの合唱があなたを出迎え、かつては貧しかったラザロとともに、永遠の安息を得られますように)のくだりを聴くとき、その旋律に込められた穏やかで気品に満ちた美しさや静謐のそのものとも形容すべき至福感が、いずれは多くの悲しみや苦しみといったものが私の存在と共に跡形もなく消え去ってしまうのだという安らぎを以て心を満たしてくれるのだ。

確かに苦しいことや、悲しいこと、思うに任せぬ事、例えようもなく悲嘆に暮れることは日々余りにも数多く、特にややノイローゼ気味な最近はそれが激しいと自分でも思う。けれども、いずれは、そんなことはどうでもいいことになってしまうのだろう。彼らに、今はここにはもう居ない彼らにまみえることが叶うその時には、少なくともかくありたい。


どうしようもない人々に怒りは続くけれども  (2006.12.15)

「最もよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ」
(マルクス・アウレリウス『自省録』)


「哲学なんか勉強して何の役に立つの」とはよく訊かれた質問の一つだが、その答えは実に簡単で、「そういう質問をしなくて済むことです」というものだ。

まあ、そういうことであって、もっと修練を積んでそういう人間と関わらずに済むような世界を求める他はないのかもしれない。


そこのあなた  (2006.12.12)

人を奴隷かなんかだと勘違いをしていませんか。
自分の不手際を相手に押しつけて、しかもそれを正当化するために自分の所に呼びつけて楽しいですか。
自分たちは客だから相手にどんな要求をしても偉いのだと勘違いをしていませんか。
仕様を固めずに発注しておいて土壇場で自分たちの希望と違うからといって仕様変更を強要するのは何故ですか。
そんな要求を押し通せるほどの対価をあなた方は私達に支払っていますか。
自分たちのスケジュール管理が破綻していることを棚に上げて人のスケジュール管理を叩くのは何故ですか。
わずかの費用を惜しむがためにもっと大きなものを見失っていることに何故気づきませんか。
組織内の意思疎通が破綻していることが傍目にも分かるほど末期的な状況であると何故客観視できませんか。
自らの誤りを認める能力を何故あなたは持つことができませんか。
高圧的な態度でごり押しして相手を屈服させることが自分の能力の高さだと勘違いしていませんか。

あなた方のやり方に付き合うのは真っ平になりました。奴隷がご必要なら余所をお当たりなさい。


写真は関係ないですよ。  (2006.12.06)

どす黒く腹の立ったことはヒュプノスの館に片付けてくるとしますかね。

で、11月の末に、大学時代の同級生と飲みました。といっても専門に進んでからの友人たちは大半が行方不明(学部修了段階でまともに就職したのは半数に満たない)で連絡が取れるわけもなく、語学クラス(大学では外国語Aとして選択した言語によってクラスが編成された)時代の友人たちと久しぶりの再開を言祝いだわけです。元々フランス語を外国語Aとして選択する学生は7割くらいが女性ということもあり、その日集まったメンツも私以外の4人はみんな女性。まあ私なぞにお声がかかったのは人徳の賜物……ではなくてまあそれなりのルート(謎)からだったわけですが、まあ結構飲んだですよ。飲んだものの展開は以下の通り。

一次会(4名参加):ワイン2本(白と赤)+各人食前酒
二次会(5名参加):ウイスキー類を一人あたり3杯前後
三次会(5名参加、途中2名帰宅):分からないけどチューハイ類を合計11杯くらい

……こう数えると飲んだものの量は余り多くないのですが、徹夜で集団で飲み明かすということ自体が最近としては珍しいというか体力的に最早厳しくなりつつあることで年齢的な衰えを痛感せずにはいられなかったわけですが、ほぼ全員に共通して言えたのはまごう事なきパーフェクトな世の拗ね者ライクな態度でありました。
文学部で学んだことがある方は何となく分かるかもしれませんが、特に小生が在学していた某バカ大学の文学部の(特定の専修を除く)学生のグダグダ具合は特筆すべきものがありました。今ではすっかり管理スキーなプチブル大学に成り下がったのでしょうが、当時の文学部生は世のメインストリーム一直線な本部キャンパスと物理的に離れた文学部専用キャンパスという隔離された環境で、今から思えばそれなりに楽しい日々を皆謳歌していたように思います。私も授業はガンガン自主休講していたし、近所の喫茶店で半日ダラダラと読んだ本やら音楽の話をしたり、大学近所のゲーセンでバイトをしていた先輩(要するに留年生)のところでテクノドライブの練習をしたり、もっとひどくなると構内で焚き火をしたりしてました。さすがに用務員に怒られましたが。あと、ビールを買ってきて生協食堂のおかずをつまみにしてテラスで酒盛りをやったり、テスト用のアンチョコを作って安価で販売してその売り上げで朝まで飲んだり。

恐らく、そうした時間の世界に意味を見いだしてしまった人間は、何かがどこかで壊れてしまうのかもしれません。そしてそんな人たちと会うことがめっきり減った昨今では、その日のお酒は実に愉快で、かつ心和むものでありました。


今度はさかえ通りで飲みますか>皆さん


甘くとろけた真っ白なバニラが食べたかったそれだけ  (2006.12.05)

休んだのに休んだ気がしない一日。
本当に休めるのはいつになるやら。


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