2012年05月
「他者とは地獄である」  (2012.05.01)


やれやれ、引越しとは疲れるものです。

さて、最近とみにFacebookのユーザーが増えているのか、高校時代の同級生からFriendリクエストを頂くことが多くなった。まあ「そんな奴いたっけ?」というよりはマシではあるので覚えていて頂けること自体はありがたいが、そのあとに付随するコメントがどうもあまり気持ちのいいものではない。曰く、その多くが、「おー、生きていたとは!」みたいな絶滅危惧種の動物を国定公園の奥地で偶然発見したかのような物言いなわけだ。確かに私自身色々あってからは半分世捨て人みたいな体で生きているので、同窓会とかでキャッキャャウフフ(注:ちなみに出身高校は男子校です)な交友関係とは極めて縁遠い状況にありなおかつそういうグループとは距離を置くようにしてきたので致し方ないところもあるのだが、露骨に珍獣扱いされるとこちらとしては先方の他者観の水準については疑わざるをえない。
無論、サルトルの対他存在の話を引き合いに出すまでもなく、他者とは自我をモノにしてしまうという意味で、それは避けようのないものなのであることは認めなければならない。だが、旧交の現に復すを言祝ぐに於いては、もう少し人格的な観点からの言いようもあるのではないのか。どっかの頭のいかれたソーシャルゲームでスーパーレアカードを見つけた時のような快哉を叫ぶ彼らの態度を見ると、人格的視点というものがないのかいなという疑義の一つも呈したくなるのは私が頭のてっぺんから足の先まで人文系の学問分野の陶冶を(ダメな意味で)徹底的に受けたせいだろうか、やはり。
彼らの側からすれば、高校時代の私は人文系学部に進んだほぼ唯一の仏語選択者(後の文系の連中はみんな社会科学系に進んだ)でもあったので、そういうバイアスも含めて変人のレッテルを貼るには格好の好餌だったのだろう。まあ貼りたきゃ勝手にどうぞとは思うし、そのような認識態度における人格の物象化が翻って彼ら自身の人格性の水準を裏書きしているということについても云々しようとは思わないし、それに関わってどうこうできるほど人生は長くないが、せめて他者に関わる時くらいは言葉遣いに気をつけろ、なぜなら言葉はその人の心性を表象しているからだよ、とは忠告しても罰は当たらないだろう。


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