2011年05月
常態への回帰  (2011.05.29)

オーケストラの演奏会も一段落し、仕事のピークも何とか突破しつつある(ただし来週いっぱいはそれなりに大変)模様なので、生活パターンを状態に戻すべく行動を始めた。とは言っても別に大したことではない、フィットネス通いと読書の習慣を少しずつ元に戻そうとしているだけだ。

そんなわけで、今日は夜に近所のフィットネスクラブに行ってきた。顔を出すのは3週間ぶりぐらいで実に会費がもったいない。都内のクラブではないのでそんなに高いわけではないのだが。

靴などを保管しているロッカーの更新費用を払い、久しぶりのトレーニングに汗を流す。今日はペクトラルやラットマシン、ショルダープレスなどの上半身中心のトレーニングだったのだが、明らかに筋力が落ちているのが分かる。また、有酸素運動も負荷レベルを一段階程度落とさないと規定の時間をこなすことができない。かなりまずい。

一通りのトレーニングを終え、風呂を経て計量。

……。2キロほど太ってる……。

というわけで明日から有酸素運動中心のプログラムでガッツリ身体を絞ります。
身体を鍛えなくちゃ兄貴には会えないのです。


演奏会の話  (2011.05.23)


5/22(日)はオーケストラの演奏会だった。オーケストラに参加するのは大学院生時代以来なので、大体10年以上のブランクがあった計算になる。その間、たまに楽器のメンテも兼ねてスケールを練習するとか、ほとんど思いつきで知人とアンサンブルをやった程度の経験はあるが、本格的に音楽に取り組むという意味では非常に長い空白の期間があったことは事実だ。そんなこともあり、特にブラームスの交響曲第3番の難所では「音楽」になる以前のすさまじいミスを大量生産し、他パートの某氏からは一回ミスするごとに罰金刑を科せば団の財政も潤うとかそういう厳しい揶揄も頂戴した。聴きに来て頂いた皆様、並びに団員の皆様、本当にごめんなさい。

本番三ヶ月前から参加したという割には、最終的には団の運営にはかなり首を突っ込むことになった。前に在籍していた市民オケでも似たようなケースがあり、どうも体制の立て直しみたいな話にアンガージュマンを余儀なくされるのがお決まりになりつつあるような気がしないでもないが、今回は見知らぬ人も多い中、正直かなり強引なやり方も一部では採用せざるを得なかったので、反発を覚えた人も少なくなかったと思う。この点は反省すると同時に、団員の方々にはご寛恕を請いたいと思う。

そんな内部の話は別にいいし、演奏会の音楽的な完成度については賢明な沈黙を守ることにしよう。過ぎたことは忘れるのが一番だ(笑)。
けれども、シューベルトの「未完成」の第2楽章やブラームスの交響曲第三番の第3楽章、あるいは同第4楽章、ホルンのコラールが入るあたりで、何か懐かしい感覚にとらわれたことは付言しなければならない。それはこの曲の演奏経験に固有の記憶の回想ではなく、一度、恐らくかなり昔に味わったあの楽興の瞬間の無私的な無関心ではなかったろうかと思う。音楽そのものが個々人を、オーケストラを、そしてホール全体を支配するかのようなあの感覚は、技術の巧拙を超えて(無論技術水準は高い方がその確率は高まるのだが)舞い降りるものだ。
曲が終わり、タクトが降ろされたとき、そこに現出したのは紛れもなくそのような光景であったと私は信じたい。およそ10年の時を超えて、このような喜びがあれば恐らく人生のある部分は生きるに値するものだと思い起こさせてくれた昨日の演奏会は、大変に貴重なものだったし、何かしら、形容あるいは言語化できない何物かが私の中で甦ったような気さえするのだ。

このような経験を持つことを可能にし、芸術の持つ高みと喜びを再び私に教えてくれることになったFacebook並びにMixiの知人には、心からの感謝をまずは申し上げたい。そして、「福島第一原発よりひどかった」(ご本人談)状況を立て直してくれた、指揮者の石川先生並びにトレーナー陣の皆様、及び昨日までの長い道のりと時間を共有させてくれたオーケストラの仲間たちにも、満腔の敬意とお礼を申し上げると共に、またこのような奇跡の瞬間を共にできたら、と思わずにはいられない。本当にありがとうございました。

音楽って、いいものです。素晴らしいものです。
ありがとう。ありがとう。


見えるものの先にあるもの  (2011.05.11)

ゴールデンウィークは祝日とはほとんど関係なく出勤して仕事をしていた。とは言っても、お客さんと会う用事もないし、もちろん不意の来客もないので気楽な格好で一人でコーヒーを飲みながらレポートを書いたりしていた。

そんな中、オサマ・ビン=ラディンが米軍の特殊部隊によって殺されたというニュースに接した。イスラマバード近郊の高級住宅地に豪邸を建てて「隠れ」住んでいたらしいところを急襲されたとかいう話なのは、これを読んでいる人なら皆さんご存じのことだろうと思う。

だが、陰謀論といった意味ではなく、私は今でも彼が本当に実在する人間なのか、実感が持てないでいる。彼の演説が収められた動画にしても、実はネバダ州かどこかの砂漠で適当にセットをつくって撮影しただけのものではないのかという疑念がいつも頭をよぎるのだ。そして彼は水葬され、その遺体も公開されていないとなると、どこからどこまでが本当なのか、私には実感が湧かない。

もちろん、ニューヨークの世界貿易センタービルなどが911のテロで崩壊、あるいは甚大な被害を受けたというのは知っている。そして個人的にもその辺りの話には少々関わりがないではないのでそれが虚偽だとは思わないし、それが当時のブッシュ政権によって行われたある種のフレームアップだというばかげた陰謀論に荷担するつもりも全くない。だが、それでもこれらのテロとビン=ラディンなる人物との間の連合を明確なものとしてイメージすることができずにいる。早い話が、その非実在性という点において、ビン=ラディンと、一部で有名な「アリゾナの老人」は、私にとって大差ないのだ。

これだけを取り上げるなら、これはお前の心気症の症状の一つあるいは想像力の欠如だろうと指摘して万事完了とするのはそれほど難しいことではないだろう。だが、視覚情報のみによって形成される認識は、世界観についてどれほどのリアリティをもたらすというのだろう。そもそも、リアルであるとは、あるいは現実とはいったい何なのか。ビン=ラディン殺害のニュースを通じて覚える眩暈によって私が想起するのは、それらの問いなのだ。

昔懐かしい観念論的独我論であれば、現実とは構造化された無意識を含む主観が表象する幻影としての現象の一種であるとその定義をおさらいするのは哲学史を学んだ人間ならできるだろう。だが、もしそうであるなら、私にとっての世界の現実性はもっと素朴な実在性を伴って然るべきだろう。だが実際にはそうではない。現実あるいは事実という名の下に進行する数多くの事態が、私にとっての現実性とは連続していないのであり、ゆえに私は自己の主観の内世界性すら統握できない状態に今はある。自分の肉体や認識が拠って立つべき地平が、言語による、あるいは別の媒介による実体化が的確に行えない状態にあるのだ。

多分にそれはここ数ヶ月で「日常性」とか「生活世界」といった概念があっさりと崩れてしまったという事柄に基づくのかもしれない。私は今でも件の諸々の映像と私の日常を的確に連合させて認識を行うことができていないし、正常性バイアスを排しつつ自己の身体性や現実性を言語化することができない。世界はかくも疎遠なものになり、その一部を私自身が構成している(本来ならば、我々は世界につながっているのではなく、既にそれを形成しているのだ)のだという認識も曖昧なものになってきている。

それを取り戻すために、恐らく私はこうしてそれを皮膚に刻印するために、言葉でこのように書き付けているのだろうと思う。目に映る世界の認識と私の主観の乖離を繋ぐものは何か。超越的手法に安易に縋ることなく、それを考えるためには、もう少し時間と安静が必要なのかもしれない。


弦を張り替える  (2011.05.03)


5/22の演奏会がいよいよ迫ってきたわけだが、A線とD線のアルミ巻が一部はげてきた。元々がかなり以前に購入した弦でもあるので、せっかくだからついでに張り替えることにした。

弦の種類は、昔習っていた師匠の推奨を未だに踏襲していて、A線はOliv、DとGはEudoxaという仕様にしている。E線はGoldbrokatを推奨されていたのだが、1stVnで高音をドカドカ弾かなくてはいけなくなってきた段階でOlivのGoldsteelに切り替えた。この弦、派手な音色が魅力的で、しかも高ポジション域での音の変質があまりないので便利なのだが、弓の毛がダメになってくると音がひっくり返る現象が起き出す(そうは言ってもボウイングが正確ならそんなことはあまりないので基本的には小生の技術が低いのが問題)というクセがある。

今回もそんなわけで同種の弦にてA線とD線を張り替えたが、ガット弦は張ってからしばらくの間はガットが伸びるので調弦をこまめに行わないといけない。大体音が安定するまでには半月程度必要なので、今回のケースは結構ギリギリ。

確かにガット弦は音色のなめらかさや音のハリがスチール弦や安いナイロン弦とは全然違うので愛すべきものがあるのだが、音の安定に手こずるし、外れを引くといきなりバチンと切れてしまったりする。安くても一本数千円はするので張り替え直後に切れると結構メンタルダメージが厳しい。だから人によっては練習とかはドミナントを張った予備の楽器で済ませ、本番は事前にしっかりなじませたガット弦を張ったメインの楽器を使うケースもあるようだ。一応予備の楽器は私も一台所有しているが、イタリア産の高級楽器とかそんなものは持ってないので論外(今のメイン楽器はドイツ製のマスプロダクション品)。メンテナンスも全然してない。

で、どうにかならんのかねと色々調べていたところ、Olivとかを出しているPirastro社の新しい弦であるEvah Pirazziという弦の評判がいいらしい。結構バリバリ鳴る割には音色もスマートらしいので、いずれはこちらの弦も使ってみようかなと思う。

でも、その前にまずは新しい弓が欲しいなあ……。今の弓(杉藤楽弓社製)も値段の割には軽くてそれなりに使いやすいのだけれど。

しかし楽器というのは金を食う道楽だと思う。


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