2009年02月
メシアン『時の終わりのための四重奏曲』を聴く  (2009.02.21)


今日は仕事帰りにトッパンホールにてメシアンのコンサートを聴きに行った。ちなみにトッパンホールのある辺りは徳永直の『太陽のない街』の舞台となった共同印刷のすぐ近所でもある。今はすっかり高そうなマンションが建ち並んでいるが、都バス上69系統に乗ってグルグル回ってると同小説に出てくる場所の多くを通るのでプロレタリア文学散歩にもお勧め……話がそれた。

本日のプログラムは以下の通り。
ドビュッシー:クラリネットのための第1狂詩曲
武満 徹:カトレーンII
メシアン:世の終わりのための四重奏曲

ポール・メイエ(Cl)
エリック・ル・サージュ(Pf)
矢部達哉(Vn)
向山佳絵子(Vc)

2008年はメシアン生誕100年ということで去年から今年にかけてはメシアン関係のコンサートが沢山あったのだが、忙しくて『鳥のカタログ』とか『幼な子イエスに注ぐ20の眼差し』の全曲演奏会に行けなかったのは痛恨の極みだった。ようやく今回は切符と時間が取れたので行ってきた次第。

さて、今日の演奏会だが、クラリネットのための第1狂詩曲とカトレーンIIは初めて聴く曲だったので感想は保留。ただ、ポール・メイエは上手。すごい上手。pppでのロングトーンの音が崩れないってどんな肺をしているのでしょうか。

というわけで、本日のメインの『時の終わりのための四重奏曲』(一般的には『世の終わりのための〜』だが、原題がQuatuor pour la fin du tempsなので黙示録的世界観も踏まえて『時の終わりの〜』と訳す方が個人的には正しいと思う)だが、ん〜…………。
前半の出来はよかったと思う。特にII.時の終わりを告げる天使のためのためのヴォカリーズ」は集中力も高かったし、アンサンブルの密度も好感が持てた。また、IV.間奏曲はVI.7つのトランペットのための狂乱の踊りで使われる主題がパート間でやりとりされるのだが、そのコミュニケーションもしっかり取れていてこりゃあいいぞと期待したんだが……
何だかおかしな感じになってきたのはV.イエスの永遠なることへの讃歌のあたりから。間奏曲が比較的速いテンポのため、この楽章のテンポがかなり引きずられていた模様。そのせいかハーモニクスでの細かいミスが耳にうるさい。また、最後のEをハーモニクス&pppで鳴らす辺りは音が崩れてちょっとガッカリ。次の楽章のことを考えるともっと官能的かつ法悦気味にやった方がいいんじゃないかなあ、と。

で、第6楽章は第7楽章と並んでこの曲の聴かせどころの一つなのだが、歌い方の微妙なズレが気になった。この楽章はほとんど全部ユニゾンになっているため、各奏者が完全にぴったりと呼吸を合わせて弾かないと途端に大事故になるのは知っていたと思う。にもかかわらず後半、全員が16分音符でギコギコギコギコと音階を駆け上がっていくところで微妙にアンサンブルがピンチだったのは悲しかった。

最終楽章。この部分だけは大音楽学者であらせられるセルゲイ・ナカムリャコフ氏(笑)と大昔合わせたことがあるので知っているのだが、この楽章は実は徹底的にノロノロノロノロノロノロと弾いてこそ味わいが増す。それは時間芸術である音楽を使って無時間性の世界を表現することが眼目という矛盾しまくりの要求を満たすために他ならないのだが、実際スコアには♪=約36(つまり普通の四分音符換算ではBPM18!)、つまり3秒で1拍というとんでもない遅さで弾くことが求められているし、手元にあるバレンボイムがパリ管の仲間達と録音したものだとこの楽章だけで8分を超える。しかし、今日の演奏だとこの楽章は6〜7分程度だったのではないかと思う。最後のハイEのフラジオレットでひたすら引っ張る箇所は、それこそトゥランガリーラ交響曲のフィナーレのように徹底的に判断力が麻痺するくらいまで弾き続けてこそこの楽章の指示である「極端に遅くまた柔和に、脱我的に」に合致すると思うのだが……

そんなわけで、ちょいとフラストレーションが溜まる演奏会でした。


BDR-S03J-BKを買った  (2009.02.20)


パイオニアが光学ドライブ事業を単独では継続しないかもしれないということで、また、今まで使っていたパイオニア製のDVR-109ではCDの読み込みができなくなり、DVDのライティングも今ひとつ不安定になってきたことから、秋葉原のArkにてBDR-S03J-BKを購入してきた。初期ロットなのか、本体箱には「国内生産」のシールが(一応付け加えておくと、パイオニアのPC向け光学ドライブは初期ロットだけ日本製で、大量生産状態に移行すると中国製になる)。お値段の方はSATAケーブルとかも含めて約35K円。カラーキャリブレーターの購入計画がどんどん遠ざかる……(涙)

で、既存のDVR-109を取り外してBDR-S03Jを取り付けたのだが、最初に繋いだSATA端子ではバンドルソフトがインストールできない。どうもパイオニア製のBDドライブを検出できないと弾かれる仕様らしい。デバイスマネージャではちゃんと表示されてるのに何てこった……と試行錯誤した結果、Gigabyteが拡張して増設したSATA端子ではダメで、AMDのチップセットにぶら下がっているSATA端子じゃないインストールできない模様。あれ?そんなことマニュアルには書いてありませんでしたが?

色々あちこちの評判を検索してみると、BDR-S03JはDVD-Rを焼くのには余り向いておらず、BD-R DLを焼いた時の状況は安定にはほど遠いようだが、本格的にBDを焼くのはメディア単価がもう少し下がってHD画質で録画できるビデオカメラかデジカメを購入してからになるだろうから、それまでは試験的に数枚焼く程度になるだろうと思う。その時までにはファームウェアがある程度熟成されるのを期待しよう。
また、ピックアップの劣化を最小限にするためにもDVR-S16JあたりのDVDドライブを購入して来る必要があるかもしれない。手元にはまだまだ森メディアのDVD-Rが何十枚もあるのだし。


パイオニアのPDPTVに思う  (2009.02.16)

各種報道の通り、パイオニアがPDPTV事業からの全面撤退を決めた。事実上撤退状態にあったBDレコーダーもこれにて終了だろう。
我が家には2年ほど前に購入した同社製のPDP-427HXという42インチのPDPTVがあるが、その画質の美しさは発売から2年を経た今日でも他社の上位モデルに引けを取らないどころか、階調の豊かさや色の「深さ」は多くの液晶テレビを凌駕している。「売れ筋」と言われる多くの液晶テレビがどちらかと言えば記憶色重視のけばけばしい画面作りを訴求する中で、ある種の静謐さを湛えたパイオニアのPDPTVの気品ある立場は、まさしく「孤高」という形容詞が似合うものだった。

だが残念ながら、パイオニアのテレビは全くと言っていいほど売れなかった。2002年頃はそれなりにシェア(とは言ってもマーケットの規模そのものが今の数十分の1だが)もあったのだが、商品ライフサイクルが成熟に向かう中で価格競争力を持たない同社のテレビは必然的に駆逐され、日本でも比較的ユーザーが多かった42インチモデルの生産を止めてからの惨状は目を覆わんばかりのものであった。何を血迷ったか日本では絶望的にユーザーの少ないホームシアター志向を強調したり、HDMIによるCEC機能の実装が遅れたりと商品戦略上の迷走も多く、素人ながら同社のテレビ事業のあり方には気を揉んでいた。今から考えればパイオニアが薄型テレビの販売戦略に持ち込んだのは高級オーディオ市場で採用されている超付加価値戦略だったのは明らかだが、「聴従のメディア」であるオーディオ機器と「欲望のメディア」であるヴィジュアル機器を同列のやり方で扱うことにそもそも無理があったのかもしれない。

だがパイオニアの「失敗」には、もう一つ学ぶべき事柄があるように私は思う。先般フランスに旅行した折、私は連絡用も兼ねてプリペイド型の携帯電話を一台購入した(ちなみに、フランスでは携帯の契約形態は大半がプリペイドである)。メールもカメラも別にいらないので、購入したのはエントリーモデルの最も廉価なLG製のものだった。玩具みたいな携帯電話だったが、通話をする分には問題なく、15分の無料通話がついて価格は19ユーロ(約2400円)。私が今日本で使っている携帯電話が本体価格だけでおよそ5万円するのに比べると、その価格差は圧倒的なものがある。

言うまでもなく、私が国内で使っている携帯電話はLG電子の安物携帯とは比べものにならないくらい豊富な機能を誇る。しかしその価格差は、ユーザーが携帯電話に何を求めているのかを考える時、5万円という価格については有効な説得力を持たない。多機能であること、高機能であることはユーザーのニーズにマッチする、あるいは今はマッチしていなくとも潜在ニーズを掘り起こしうるとキャリア側、あるいは開発側は考えているのかもしれないが、そうした認識がもたらしたのは日系メーカーの携帯電話市場における壊滅的敗北ではなかったか。そしてそれを日本国内テレビ市場でも繰り返したのが、パイオニアのテレビ事業ではなかったか。

「ものづくり」の復活が叫ばれて久しい。確かにデリバティブに代表される金融商品を右から左へと動かすだけで利益を溜め込むようなやり方は昨今の金融危機で事実上死んだ。しかし、だからといって、技術的に優れたものであるのならば消費者はいくらでも財布を開くかと言えば、答えは無論ノーである。「いいものは売れる」のは確かに真理ではあるが、「いいものならば何でも売れる」と思い込むのは技術屋の傲慢であり、思い上がりである。いいものは、現実性の裏付けがあって初めて一般人は納得してくれるのだ。そこをはき違えて無意味な高付加価値路線に突き進んだところで、普通の人間はついてきてくれるはずもない。

それでも私はパイオニアのテレビの抜きんでた圧倒的な画質を愛していた。知人友人が家に来て、その画質に驚嘆の声を漏らす度、私は何だかくすぐったいようなうれしさを感じたものだ。また、AdobeRGBの色域で撮影したデジタル一眼レフの写真をPDP-427HXで眺める時、その色合いの深さと豊かさに改めて感動したものだった。そして、この感動がより多くの人々に伝わればと願い、多くの人にKUROの購入を勧めていた。
だが、それも叶わぬ夢であった。現実的には、後に残ったのは会社が傾くほどの赤字の山だったかもしれない。しかし、他の何者も辿り着くことを許さない映像美の高みを敢えて目指し続けたパイオニアのPDPTVの技術者達の向こう見ずな野心と情熱に、今は敬意を捧げることにしたいと思う。


MMIには金を惜しむな  (2009.02.10)


先週火曜日にL567が修理から上がってきたので、梱包を解かずに会社に送り、デュアルディスプレイの片割れとして使っている。もう片方はPrincetonのTN液晶ディスプレイは同じsRGBモードにしても青かぶりがやたら激しくて写真を二画面表示にするととんでもない事になるのを除けば、一応SXGAの二画面はExcelのファイルを二枚並べて比較しつつ仕事をする際に大変便利。でも仕事の能率は仕事をしている当人のスペックが低いままなのであんま変わらないかも……

ただ、以前のS社製の目潰しディスプレイに比べると、明らかに目の疲労が少なく、目薬をさす頻度も大幅に減った。Excelの数表を凝視する時など、刺すような痛みを全く感じない。また、白い画面を表示した際に感じたまぶしさやギラギラ感が大幅に減り――というよりむしろほとんどゼロになった――、デスクワークをする時の憂鬱はある程度緩和されたように思う。応答速度が30msなので動画を見ていると酔いそうになるし、何よりもクソ上司が目の前にいるので根本的な問題は何も解決したわけではないが、さすが日立のSuper-IPS液晶採用のディスプレイだと思う。買った時は普通のディスプレイの倍近い7万円近くしたが。

今ではディスプレイ用の液晶の生産はテレビ用のパネルで償却が進んだラインを転用する事が多いこともあり、20インチ程度までならばTN液晶採用の激安ディスプレイなら3万円以下で手に入るようだ。UXGAを表示できるディスプレイそれ自体が高級品だった一昔前と比べると驚くほどの値下がりである。
だがその一方で、ディスプレイが及ぼすVDT障害の問題については恐ろしいほど看過されたままであるように思う。スペックで重視されるのは依然としてサイズ・価格・解像度の3点セットであり、それに応答速度がちょっと絡む程度だろう。特に企業での導入に当たってはほとんどの場合同一サイズであれば価格の安いものを導入する傾向は今でも変わらない。その結果、目潰しディスプレイのせいで視力低下や眼精疲労、頭痛に悩まされるユーザーは減るどころかディスプレイの高精細化で増える一方だ。

だがそれは明らかに間違っていると私は思う。経済性を錦の御旗にすることで、目潰しディスプレイに代表される人体に有害な環境をユーザーに強制する事は、最終的にはユーザーの疲弊という形で生産性の低下を招く。チャタリングを頻繁に起こす安物のキーボード、チルトホイールすらついていない2ボタンホイールのワイヤードマウス、そんなものを並べるだけで事足れりとするPC環境は拷問以外の何物でもない。目に優しいディスプレイ、無接点静電容量方式(それが無理ならメカニカルスイッチ方式)のキーボード、エルゴノミクスデザインのワイヤレスレーザーマウスを揃えたところで、いわゆる廉価マシン環境との費用差は5万円程度である。これを3年間使い続けるなら1年当たりの追加コストは僅かなものでしかない。むしろそれによって得られるユーザー体験の質と生産性の上昇は何物にも代え難い。特に長時間PCを使う環境にあるなら、この追加出費は十分ペイするものであるように思う。

ところが残念ながら、私の勤務する会社はそのようなコストを認めてくれる方向にはない。チャタリングがひどいDELLの付属キーボードなど使っていたら気が狂いそうだし、Excelのワークシートを切り替える時にタブを一々クリックするのは自分が何かの修行をしているかのような気持ちになる。そんなわけで私は自腹でキーボードやらマウスやらディスプレイやらプレゼンテーション用の機材(MX AirとかBluetoothヘッドセットとか)等を一切合切揃えているのだが、ほとんど自分専用マシンに近いカスタマイズを認めてくれるある種のだらしない寛容さは有難いと思うものの、最低限の環境だけあてがっておけばいいんだろう、という粗鹵狭隘なコスト意識にはもういい加減うんざりしているのも事実である。


ジェルジ・リゲティ『ル・グラン・マカーブル』を観に行った。  (2009.02.08)


本日は新国立劇場中ホールにて行われたジェルジ・リゲティの『ル・グラン・マカーブル』(東京室内歌劇場)の日本初演を観に行ってきた。この1年の間に観に行ったオペラはツィンマーマン『軍人たち』といいヤナーチェク『マクロプロス家の事』といい全て日本初演だったりします(笑)。さすがにバランスが悪いので『ねじの回転』とか『今日のニュース』とか『金閣寺』くらいは見た方がいいのかな(違)。

#今度の5月に観に行くショスタコーヴィチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はさすがに日本初演ではないけど。

今日の公演はソワレだったので、新宿のニコンプラザでカメラのメンテをしてもらって時間を潰した後、いざ新国立劇場へ。中ホールだったのでさすがに満員だろうと思ってはいたが、入口で「切符求む」のボードを掲げる人を見かけ、完売なのだと驚く。でも幕間でウロウロしたけど知り合いには会えず。来てなかったのかもしれないけどね。


で、全体的な感想ですが、この難曲をよくまあ聴けるレベルに仕上げたものだと感心しました。何よりもすばらしかったのは、個々の歌い手が本作品の初演に関して、持てるものを最大限に出していこうとす極めて真摯な「やる気」を強く感じた事だった。そして、にもかかわらず、この猥雑な作品をちゃんと猥雑な雰囲気を残したまま上演していた点にも大変好感が持てた。
そして、スクリプトの翻訳を行った長木誠司氏のプレトーク(某アンチ無調作曲家に対する露骨な批判も飛び出したがここでは伏せる)も面白く、値段以上に楽しめた。

以下各論。
第一場
アマンダとアマンドの百合セックス!おお、秘密ドールズだよ!(違)……はいいとして、大酒飲みピートがグチャグチャになりがちなクラスターの洪水を旨く整理していた。また、ネクロツァールはエギーユ・デラーズにソックリで微妙に笑ったが、グレゴリオ聖歌や『天国と地獄』の引用がかなり変形されて行われているのが笑いを誘う。
オケは金管隊の音色が彩度高めで耳についたが、アンサンブルは緻密で崩壊しているところも特になかった。また、パーカス隊による冒頭部のクラクションファンファーレは見事の一言。

第二場
アストラダモルスとメスカリーナのSMプレイ。アストラダモルスがメイドさんの格好をしていたのはさすがにやりすぎだ(笑)
メスカリーナは演技が非常に明確で気迫が感じられたものの、声量の点でアストラダモルスに少々劣るため、バランスを欠いた印象がある。但し、別にミスをしていたわけではないのでその点は仕方がないだろうと思う。
そんなわけで、ネクロツァールとメスカリーナのセックスの場面は声量バランスにやや問題があったのは否めないのだが、演技そのものは卑猥で楽しめる内容。

第三場
白大臣と黒大臣(左大臣はいません)の掛け合いが面白い。このあたりは翻訳の妙か。プレトークで長木氏が触れていたとおり、ダメ政治家が国を食い潰す一方で屍累々、しかも国は傾いているのにみんな繁栄していると勘違い、というのはまさにどこかの極東の三流国のようだ。
この場でまず褒められるべきはゲポポ役で見事なコロラトゥーラを歌い上げた森川氏と音があっちこっちに飛ぶメロディを歌いきったゴーゴー候役の池田氏だろう。声楽のことは私は詳しく知らないが、本場の歌唱はいずれも超絶技巧が要求されるものである事は私にも分かる。そんな難所を、しかも先行演奏がない日本初演という場で見事にこなした二人には称賛の言葉を送りたい。
演出面では、ベートーヴェンの「英雄」の主題(しかもかなり間抜けな形に変奏される)をバックにネクロツァールが宮型霊柩車に乗って現れる場面は爆笑の一言。厳かに登場しようとしてその結果大仰すぎて馬鹿を見るという演出は、時としてきまじめになりがちな現代音楽の受容を打ち解けたものにしてくれる。

第四場
ベロベロに酔っぱらいながらこの世の終わり作戦を敢行したネクロツァールだっだが、死んだ人々がみんななんだかんだと生き返ってきて、そのショックで本人が死ぬ。そして登場人物一同がとってつけたように酒を呷りながら人生の享楽を歌い上げる場面のシニカルさは実に見事。彼岸の世界での救済を否定し、かといって此岸の世界のありがたみを称賛するでもない、実はどこにも救いのない悲惨なエンディングなのだが、それを敢えてバカ騒ぎ風に歌いつつ、惚けたままの死を思わせる陰をしっかり残した解釈は見事だと思う。
本作品はオペラ・ブッファな内容をグランド・オペラ風に構成し、でもそのオチは極めて現代的、という極めてひねくれた作品である。演奏も決して平易ではないと思う。そんな難物に敢えて挑み、少なくとも十分内容を堪能できる水準で楽しませてくれた東京室内歌劇場の皆さんには、心から喝采を送りたいと思う。


エミール・ゾラ『金』を読んだ  (2009.02.05)


エミール・ゾラの『金』(http://www.amazon.co.jp/dp/4894343614)を読んだ。「ルーゴン・マッカール叢書」の第18巻に当たる本書では、19世紀のパリ、元地上げ屋(でも失敗して無一文、このあたりの話は第2巻『獲物の分け前』に詳しい)のアリスティド・サッカールが今度はユニヴァーサル銀行を立ち上げ、すったもんだの挙げ句また破産して国外逃亡するまでの話。

半ば公然と反ユダヤ主義を掲げ、教皇領を潰されかけていたローマ教皇をエルサレムに迎えるというロマンチックな金看板を掲げ、サッカールのユニヴァーサル銀行は今で言うところの時価総額をつり上げるために粉飾決算、政界情報を利用したインサイダー取引、消却なしの偽装自社株買い、メディアを買収しての世論の操作、企業統治とは完全に無縁の取締役会等、エンロンだってここまでやってなかっただろうというムチャクチャぶりを続ける。その結果ユニヴァーサル銀行の株価は実態とは全くかけ離れた異常な高値に達し、その過程で一攫千金を夢見る庶民達がなけなしの資産を投機につぎ込むようになる。

当然の如く実態から著しく乖離した高値は長続きせず、最終的にはユダヤ人資本家のグンデルマンが仕掛けた猛烈な空売りでユニヴァーサル銀行は破綻し、株価は大暴落し、紙屑同然となる。ユニヴァーサル銀行に暖衣飽食の夢を見た庶民達も一蓮托生の巻き添えを食い、後に残るは破産・自殺・逮捕といった叫喚地獄のみである。

これだけ見ると、サッカールが自分の虚栄心のために多くの人の人生をメチャクチャにしたとんでもない話に見えなくもない。しかし、本小説が凡百の金融小説とは一線を画すのは、サッカールの情熱、そして社会変革への意志を肯定的にも評価すると同時に、彼を突き動かしていた資本主義そのものについても、多面的な見方を採用している点である。即ち、停滞し、固陋なものを打破し新たな時代を作っていく巨大な、全ての人を巻き込んで行きつつ、新たな時代と新たな生命を生み出す経済の力、そしてそれを象徴するものとしてのサッカールの情熱が、本書では肯定的なものとしても捉えられているのである。そして彼が支援していた孤児院の子供達が、サッカールの善行に対して祈りを捧げる場面、そしてそれを目にして善良な小市民的感覚を払拭しきれないでいたカロリーヌが金銭の、そしてサッカールの力の本質の認識に至る場面はまさしく圧巻である。

昨今のリーマン破綻やライブドア事件、あるいは少し前のエンロン事件等々、株式市場を巡るこの種の話は尽きることがない。そんなわけで本小説を読み進めることは余りにも生々しくて気が滅入ることも少なくなかったのだが、読後の不思議な解放感、そして人間の底知れぬエネルギーの恐ろしさと魅力と気高さへの畏敬の念の再確認は、この小説が確かに読むに値するものであったと教えてくれるのだ。


風邪引いた  (2009.02.03)


風邪引いて会社休みました。37〜8度あったのでインフルエンザかと思って内科に行ったら検査されてその結果「多分風邪」とのこと。具合悪くなってそんな時間が経ってないので、抗体が検出されないらしい。

それはそうと、修理に出したL567が戻ってきました。修理費はタダ。
今のPCデスクにはL567を置くスペースがないことから、会社に持って行って使おうかなと思ってます。会社のPCのディスプレイはヤクザテレビメーカーSharpの大昔の15インチ(6年くらい使ってるらしい)で、非常に質が悪いため他部署の同僚は「目潰しディスプレイ」と悪態をつきつつフィルターを取り付けて使う有様。システム管理人にディスプレイの交換を求めたらストックがないとの理由で断られたので、防衛も含めて持ち込みます。
で、会社辞めたらどうすんのよ?ということが当然気になるわけですが、まあその時までには自室のパソコンデスクとかの環境をデュアルディスプレイにできるように片付けておこうかと。


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