2011年08月
オーケストラへの参加と構造的対立とその他色々  (2011.08.31)


土曜日は参加しているオケの今回演奏会総括会と次期体制に向けての話し合い&飲み会。例によって例の如く痛飲してしまって「モード反転、裏コード ザ・ビースト!」(しかしこのネーミングはさすがにイタい)にまたしても突入したあげくボロボロになってしまいました。鯨飲するのはストレスの裏返しでしょうかねえ……。

さて、今回は初めて都内のアマオケに参加させて頂いている訳ですが、この経験を通じて正直驚いたのは、
・都内には文字通り掃いて捨てるほどのアマオケがある
・そして大半のアマオケで弦楽器奏者が足りない
・結果として「アマチュアエキストラ」という、チケットノルマを負担しないよく分からない賛助団員が結構いる
ということでした。私が某都内の学生オケにいたときには、弦楽器奏者は一部のパートを除いて基本的に余りまくっていて、私のいたパートでは「嫌ならいつでも辞めちまえ」的な言葉が罷り通っておりました。まー、結果として色々思うところあって私はその言葉を額面通り受け取って2年の終わりでとっとと退団して地元の市民オケに参加していたのですが、その市民オケでも弦楽器奏者は慢性的な不足ではあるけれどもプロ(≒音大卒)のエキストラを補うなりして演奏会に臨んでおり、アマチュアエキストラという存在はついぞ知る事がありませんでした。

で、問題はこのアマチュアエキストラという存在です。端から見れば確かに演奏会とか練習に何の金銭的負担もなく参加する彼らは、決して気分のいいものではないことは確かです。しかも場合によっては自らの立場を越権して団の運営に口を挟んでくる人もいると聞きます。真面目にそのオケに参加している人にとってはいい加減にせいや、と思うことには十分理由があります。

しかしその一方、これだけアマオケが陸続と生まれ続けていることの背景には、管楽器のいわゆる「シート争い」の問題があります。管楽器奏者はそのキャリアの履歴としてはオケの他にブラバンから流入してくるケースも数多くあり、フルートやクラリネットなどはプレーヤーの数に事欠きません。にもかかわらず、一曲で彼らに対して割り当てられるシートの数は多い場合でも1パート当たり4席程度。標準的な構成でも14人程度、超大編成の曲では1パート当たり30人くらいのシートがある弦楽器と比べると、圧倒的に過当競争の世界な訳です。しかも学生オケと違って、一般的な市民オケというのはメンバーの入れ替わりがあまり起きません。一度固定メンバーが形成されてしまうと、特に管楽器は参加の余地がなくなってしまうのです。いわゆる「締め切り」というやつです。

結果、演奏の場を求めるも現在参加している団体では望み薄となると、新団体を設立して自分達のシートを確保してしまおうという動きが出てきます。これがアマオケ大量発生の構造的理由の一つです。

それを一部の弦楽器奏者の人たちは、「管のエゴ」と捉えることがあるようです。即ち、「管のエゴでオケ立ち上げてんだから、こっちは付き合ってやってるんだ」という論法です。特に弦楽器のアマチュアエキストラの人々は、こういう構図があることを見通した上で、組織運営において生じる各種の義務を回避しつつ、自分が好む音楽活動のみを楽しむ、という構図になります。そしてこうなってしまうと、弦と管の間のモチベーションの違いというのは修復しがたいものになり、場合によってはそれが感情的な対立を生むことにもなります。

特にその辺りの問題は、団員の募集の問題もあり、新しく立ち上げた団体では顕著になる恐れが高いわけですが、相互が自己中心的な態度でいる限りこの種の問題は解消しようがなく、オーケストラとは何かというより高い水準からの認識の議論がなければ、最終的には財政的な面も含む現実的なトラブルによりその運営は破綻することになると私は考えます。実際、今回私が参加したオケではその種の詰めの甘さに起因する財政的トラブルが最後の最後までこじれており、諸々の緊急回避的な策を講じることでようやく事なきを得た、という経緯があることはこの文章を読んでおられる方なら何人かはご存じのことでしょう。

私自身は、指揮者の先生からご指名を受けるほどリズム感覚も音程もボロボロなヴァイオリン弾きの一人ですが、確かにいわゆるアマチュアエキストラの人々が唱える主張も理解できないではありませんし、管の人々の音楽に対する痛烈な参加意思というのも理解できます。私自身、かつて大学オケにいたとき、私のパート(2ndVn)は下級生はほとんど全曲降り番で、しかもそのくせに演奏会ごとに1.5万円程度のチケットノルマがあったという苦々しい記憶があるからです。ハタから見ればこんなバカバカしい話はありません。

ですが、オーケストラとは何かを考えたとき、それは一つの組織であり、大げさにいえば共同体であると私は考えます。そこに構成員として参加するのであれば、程度の差はあれ各員は何らかの責任を担うべきだし、それは単に演奏のことだけではあり得ません。組織というものが現実の集団である以上、そこには煩瑣な諸々の手続きやお金の動き、そしてそれらを皆に納得させるための説明責任が付きまといます。それらをつまるところ自分が楽しく演奏したいからという表層的な動機で全て拒絶するのは、自分がマイノリティだからといって無条件な保護を求めるような、ある種の利権集団と基本的には変わるところがないように私には思えます。アーレントが古代ローマの社会の分析において示したように、組織集団において何らかの権利を持ちたいのであれば、それは責任を担うことと同義な筈です。そして自分だけが義務なき権利だけを欲するのであれば、それは即ち「子供である」=「話してはならない」といわれても仕方ないのではないでしょうか。

音楽とは素晴らしいものだと私は思います。そしてそれをみんなで作っていくことの喜びは、何物にも代え難いと言えます。だからこそ、負うべき責任=応答性を引き受けず、あちこちをフラフラと好きにやるだけの人については、私は自分の社会的未熟を棚に上げつつも極めて強い不信と悲しみを抱かずにはいられないのです。


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