2007年10月
不可能なものの可能性  (2007.10.31)

アドルノ『マーラー 音楽観相学』を先日読了。

「マーラーの音楽は、子供の頃の記憶の痕跡の中にユートピアをしっかりと持っている。その痕跡はあたかも、ただそれだけのために人生は生きる価値があるのだというかのようである。けれどもこの幸福が失われたものであり、失われたものとして初めて幸福となること、その幸福とはかつて決してそうではなかったものであること、そういった意識が彼にとっては同じほどに真実としてそこにある」(p.185)
アドルノ流のユートピア的契機の概念をわざわざ持ち出すまでもなく、マーラーの後期の交響曲(7番以降、但し8番を除く)には幸福への断念とショーペンハウアー的とは行かないまでも生への意思の挫折が捉えることのできない幻影のようにこだましていることは誰しもが感じ取ることができるように私は思う。ただし、マーラーの厭世観に満ちたこれら後期交響曲が帯びる色彩が明らかに例えば『冬の旅』におけるような、失われた過去を見つめる話者の絶望と質を異にするのは、後者の苦悩や絶望がシューベルト個人の境涯に基づくものであったのに対し、マーラーの交響曲の意識はラヴェルの、あるいはシュペングラーのそれと軌を一にしているという点にある。即ち、マーラーの多幸感溢れる和声の各所(例えば第9番の第1楽章導入部など)には、際限のない大量殺戮と破壊へと盲目な自己破壊の雄叫びを上げる直前の、近代それ自体への絶望と哀惜が同時に明滅している。これがショスタコーヴィチの例えば交響曲第8番になると近代の英知それ自体が人類を破滅へと容赦なく追いやる暴力なのだという弾劾が何の躊躇いもなく、しかしそこからの救済も示さぬまま淡々と描写されるわけだが、マーラーの場合は破滅を予感しつつその不安に理性が侵蝕されていくことの恐怖が倍加されることで死に対する意味を同時に二重化する。個人的なものであると同時に現在としての歴史的なものであるこの概念は、徹底的な無であると同時に破滅の彼方に循環してくる破砕したユートピアの幻影でもある。だからこそマーラーの後期交響曲群は今の私の精神状態の反映でもあるように思われるのだ。喜びは全て虚偽的なものに過ぎず、一時しのぎを通過したあとでは全て瓦解する世界意識に対する慰め以上のものにはならない。矛盾しあうものどうしが拒絶する和解や全体性という疑似餌の正しさが我々、あるいは私を打ちひしぐ醜悪な正しさによって維持され、しかもそれ自体が自らを養うために屍の山を築いているこの光景を目の当たりにするに及んで、恐らくは9番の終楽章はそれらも含めた全ての終焉を「非-場」としてのユートピアの不可能な可能性として響和させる。最早どこにも出口も救済も、あるいは意味すらないのは分かっているのだ。だが、「隊列からはずれた人々、踏みつけにされた人々だけが、又見捨てられた前哨兵や美しいトランペットの音で埋葬されたもの、哀れな鼓笛兵、全く自由ではない人々こそが、マーラーにとっては自由を体現している」(p.215)ならば、その響きから何かを聴き取ることにも何がしかの契機があるのだと、考えることは決して全面的な間違いではないと思いたい。


AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)届いた  (2007.10.28)

今日の午前、AF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6Gが届いた。注文して入金して手元にブツが届くまでわずか3日。発売直後は入荷まで3ヶ月待ち位は当たり前という旧ソ連の国営商店なみの在庫状況だったことを考えると、ずいぶんと早い納品にびっくり。入金確認前に前倒しで発送していただいた三星カメラには大感謝。メールでの応対もいいし値段も安いしとりあえずある程度の延長保証もあるし、通販ショップとしてはかなり満足のいくレベルです。値引き交渉をすると露骨に人を見下した態度をとるビックカメラ某大手カメラ店はその辺反省しなさい。

で、早速部屋とか庭とかを試写してみたのだけれど、絞り開放では少々描写の甘さが目立つが、F5.6〜F7.1程度まで絞り込めば遠くの本の背表紙とか木々の枝の先端までカッチリと描写する解像力は素晴らしい。当然絞ればシャッタースピードが遅くなって手ブレが発生するのだが、そこはVRIIのパワーで補正できる。色々使ってみた感じでは左大臣のスキルではテレ端(35mm換算300mm)でも1/60秒までは問題なく写る。ワイド端なら1/6秒くらいまでは頑張れる。ハラショー。

今までは単焦点レンズ至上主義だったのですが、旅行用ならこれ一本で事足りると思えるレンズです。あとはD300を買って、私自身の撮影能力を上げるだけです。それが一番キモなわけですが。

で、レンズとかの撮影機材を収納していたドライボックスが一杯になってきました。D300の到着に備えて、防湿庫を検討するべきか。ああ、お金が……


さてレンズだけ注文  (2007.10.27)

D300の発売日が中々決まらないので、AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18〜200mm F3.5〜5.6G(IF)三星カメラにて購入してしまいました。佐川急便の追跡では明日には届きそうな気配なので、今からワクワクテカテカいたしております。


NOVA潰れた  (2007.10.26)


以前から某NOVAの講師の質の低さや予約の取れなさはすこぶる有名だったので、会社更生法申請のニュースを聞いても別段驚かなかったり。受講料を払い込んでしまった方はお気の毒としか言い様がありませんが。
大昔の日記で書いたことがあるのですが、所謂「外国人講師」の質は地方の大学も含めて余り褒められたものではないというのが実態であるようです。応用言語学を専門に学んだ講師など滅多にお目にかかれないのは言うまでもなく、中にはソシュールとかサピアとかチョムスキーの名前すら知らないような愉快な御仁も私の知る限り結構沢山います。チャールズ・ジェンキンス氏は南部訛りが余りにも凄まじかったために平壌外国語大学の講師をクビになってしまったことからも分かるように、階級や出身地による格差は発音や語彙に重大な影響を与えているわけですが、それを矯正した上で教壇に立たせる研修システムを備えた語学学校などごくわずかしかない(大学にはもちろんそんなものはない)。そしてそういう語学学校は授業料が猛烈に高いので、社命でもなければとても通えないです。

そんなわけなので、語学学校に通うにしても、外国人講師の教育レベルが総じて言えば陳腐なものを以て良しとしている現状があるのならば、別段「ネイティブ」にこだわる必要はないとも思います。音韻体系や文法体系が各種抱合語のように極めて複雑で市販の教材ではとても習得できそうにない言語、あるいは韻文などの極めて微妙なニュアンスを内在的に理解することが求められる場面や文体に一定のプロトコルが求められ、動詞や形容詞等の使用に一定の規則があるような学術論文の作成に当たっては確かにネイティブスピーカーの指導は意義深くもありますが、それも相手が一定水準以上の知的訓練を受けた場合に限られます。日頃読むものといえば実話誌とスポーツ新聞で休日はパチンコ三昧で口を開けばぶっきらぼうでぞんざいなしゃべり方というような輩はそもそもロゴスと無縁であることを想起すればその理由は自明のものであるように思います。内田樹か誰かがどっかで書いていたと思いますが、バカなネイティブスピーカーにこちらが媚びへつらう必要は全くないのです。ですからフランス語を勉強したい妙齢のお嬢さんは私宛てにプロフィルつきのメール下さい(笑)。きわめて(ここ重要)懇切丁寧にご指導いたします(笑)。


ああ、疲れた。イタリア語ちょっと勉強してから寝ます。


ヘッドフォンが壊れた  (2007.10.25)

今使用しているパイオニア製のSE-Monitor10Rが内部断線を起こしかけているらしく、修理して屋内専用にすることにした。
というわけで通勤時に音楽を聴くためのヘッドフォンが入り用になったので、某オーディオ屋で色々と物色。JBLのReference 510には音質も含めて非常に惹かれたのだが、ケーブルが細いタイプなので通勤で使えば断線してあっさり壊してしまう可能性が極めて高いので断念。可搬性も含めてそこそこお値打ち感の高いAudio-TechnicaのATH-PRO700を購入。低音は芯があるいい音を鳴らすが、高音部の艶はややおとなしめ。今テストでマーラーの交響曲第9番(バーンスタイン/BPO盤)を聴いているが、弦の音はもう少し色気があってもいいとは思う。エージングすれば変わるとは思うが。
逆にシンセを使った所謂J-POP系の曲は音のエッジがキッチリ立つ分、表現力が高いと感じられる。特にドンシャリの典型のようなI've系の歌ならその傾向が顕著。逆にアコースティックな歌だとピアノやギターにボーカルが潜ることもたまにあるので、音場の再現性としては値段相応。もう少し立位感があってもいいかな。でもそうすると2〜4万円の世界になっちゃうんだよね……
これからエージングして行くわけですが、まあ1万円台のヘッドフォンとしては結構聴かせるものではないかと思いました。


静かに、わだかまりなく一人称複数で話すこと  (2007.10.23)

オートバックスに行ったついでに立ち寄ったヴィレッジヴァンガードでもアゴタ・クリストフの本を買い込む私は病気でしょうか。(答:本屋に寄るな)

ここ数日精神的な疲労が相当量蓄積していて思考が停滞気味だ。イメージとして概念を操作しようとしてもその工程の全てが崩壊する砂岩のように手からこぼれ落ちてしまう。経験上、こういう時には集中力を猛烈に要する極めて抽象性の高い問題に徹底的に没入するのが最良の対処法なのだが、微妙に忙しい生活がそれを許さない。残念だ。


静かな平原で一人小石を積み重ねる夢を見る。空は柔和な優美さを湛えて青く、遠くの湖面より吹き寄せる静かな風が緑を揺らし時間を誰を急かすのでもないような速度で駆け抜けてゆく。
遠くに何を見でもなく、私は一人で小石を積み重ねている。そのうちのいくつかは白く平らで、日差しを受けて仄かに暖かい。いつから小石を積み重ねているのかは覚えていない。ただ、時折崩れる時の控えめな低音が風と共に耳をくすぐる。

ここはどこなのだろう。何をしているのだろう。
何も分からない。けれども、掌に感じる重みと太陽の名残は、その石ころが自分の魂の代替物であるかのような錯覚を時折与えてくれるらしい。


色々な意味で疲れた。静かに、もう眠りたい。


イヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤッッッッッッッッッッッッホホホホゥ!!!!!!!!!!!!  (2007.10.21)


ええと、車を買うことになるかもしれないという話は以前書いたと思うんですが、

プリウス買うことにしました。色々付けたら税金込みで300万円になってしまいました。
一部はローン扱い。イャャャャャャャャャヤヤヤヤヤヤッッッッッッッッッホゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!!!!!!(涙)一ヶ月の支払金額が凄いことになってますが書類は今ディーラーの所にあるので見せられません。

イャャャャャャャャャヤヤヤヤヤヤッッッッッッッッッホゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!!!!!!ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!(一部違う)


ギニョル  (2007.10.20)

今日は土曜なので午後はフランス語の講座。
大学は創立記念日だかなんだかで色々旗指物の準備をしていた。

今週は精神的疲労が結構激しかったせいか、どうも聴き取り・会話共に調子が今ひとつだった。道中イタリア語の参考書を読みながら行ったので、その段階で既に疲弊してしまっていたのかもしれない。

いずれにしても、ここ2年ほどでのフランス語能力の低下はかなり悲惨なものだと改めて痛感する。いざ作文を書こうとしても、いくつかの言葉でアングリシズムをやってしまったり動詞の活用間違いなど基礎的な部分でのミスも多かったりして、辛い。

そんなわけで、CANAL+(http://www.canalplus.fr/)のサイトでタダで見られるLes Guignolsを見る。人形を使って政治や社会のニュースをパロディにする結構有名な番組なのだが、昨今は当然の如くセシリア&ニコラ・サルコジの離婚問題を取り上げていた。セシリアが買い物マニア(しかも高級ブランドばかり)なのは結構有名で、大統領の交際費を使って買い物三昧をしていたことが夏頃にカナール・アンシェネ紙にすっぱ抜かれたこともあるようなアレゲな人なのだが、その茶化しぶりが中々に素晴らしい。ちなみにコメンテーターとして登場させられる有名人のイジり方も結構酷いので楽しめる。

まー、ギニョールは初音ミク叩きに精を出すようなクズの溜まり場である日本のテレビ局、特に民放には到底できない番組でもあるので、是非一度ご覧あれ。


シャトー・オーブリオンを飲ませろ  (2007.10.14)

飲み会。
人の噂話と陰口と給料と株とテレビドラマのことしかあなたがたには話題はないのですか。テレビドラマは殆ど見ないし、人様の悪口にも関心は別にないので、後半は一人で酒をあおってニコニコしてたわけですが。

ああ、くだらない。本を読むか勉強していたほうがいいや。

折角食事をしながら話をするのだから、文学とか音楽とか美術の話をしたいものですが、バルトークの話をしようとしただけでヲタクの烙印をガッツリ押されてしまうので、まあ無理な話なのでしょうね。

そういうこともあり、土曜の仏語の時間がありがたく感じられるわけですよ。


「理解できない」  (2007.10.13)

石川智晶『アンインストール』をアマゾンより落手して聴く。ボーカルの石川智晶は梶浦由記とのユニットだったSee-Sawの頃から透明感溢れる声質と安定した音程で個人的には高く評価していたし、特に『Dream Field』所収のラストナンバー「indio」は浄福感溢れるアルペジオと、多くのものを捨て去って秘めやかに成立する健やかさと孤独な旋律が言い知れず美しいのだが、今回も某「ぼくらの」とは余り関係なく買ってみた。そもそもこの曲が同アニメの主題歌とは買うまで知らなかったりする。もしかするとアルバムも買うかもしれない。

色々な感想はあちこちで書かれているだろうからここでは割愛するとして、こんな歌詞が途中で出てくる。

この星の無数の塵の一つだと
今の僕には理解できない
「理解できない」という言葉が妙に耳に引っかかる。
ここでの詩の意味は非常に簡単だ。今まさにこのように唯一無二の存在として自意識を持っている自分が、その他大勢の中の一つの単位即ち数量的に物象化された対象として処理され、「処分」されていくことは到底承服しがたい、ということだ。それは2番の
僕の代わりがいないのなら
普通に流れてたあの日常を
この手で終わらせたくなる
なにも悪いことじゃない
という自暴自棄の絶叫が裏書きしている。にもかかわらず、「理解できない」という懊悩を語り手は吐露するのだ。つまり「理解できない」対象の根本は、このように自分が処理されてしまうということのうちにはない。そこで浮上する問題がその性質からして理解することを拒否するようなあり方を「僕」に強いるが故に、理解できないのだ。

この日記は論文の練習場ではないので、なぜ理解できないのか、それを逐一ハイデガーの哲学講義のように解説することはここでは避ける。だが、この詩がここで例えば「この星の塵の一つだと/そんなのは僕は絶対に嫌だ。僕は世界で一つだけの花だオンリーワンだ」というありがちなプロテスト調あるいは無力さを主観性の生ぬるいオブラートで包んでごまかすような表現に終始していたならば、日々「処理」されてゆく我々にこのような問題意識を突きつけることはなかったように思うのだ。そして、「承服できない」ではなく「理解できない」という言葉が喚起する「理解できない」という認識状態への招待は、今一度形而上学的な思索への道を、交換可能な知識の彼方にうっすらと指し示すように私には思える。

私は何を理解していないのだろうか、私とは誰かを私は理解しているのか、と。


足がだるい  (2007.10.10)

昼休みに散歩がてら秋葉原の石丸ソフト館に行ってきたら足が疲れた。

何を買ってきたかって?もちろん電車のDVDですよ。(こればっか)


閑話休題。
ネットで予約したホテルに確認のメールを出したら全部すぐ返事が来たよ。ちょっと感動。ワールドワイドウェブ。


自称「ブログ」を殲滅せよ  (2007.10.09)

何か特定のニュース関連の関連記事を探してググると、こんな「ブログ」によく出くわす。

http://www.hoge.com/news/xxx0000/123456789.html
阪神がワールドシリーズ出場

日本シリーズを全て二ケタ得点差の4勝0敗で飾った阪神タイガースが、ワールドシリーズに出場することになった。

本年レギュラーシーズンを.859の高勝率で優勝した阪神は、事実上の「宇宙一」を決めるため、ACミランが優勝した今年のワールドシリーズのエキストラマッチに出場することが決まった。
(左大臣註:記事はテキトーです)

バースがいれば絶対勝てそうですよね。
いわゆる一つの記事が圧倒的多数を占めて一言二言コメントがチョコチョコと申し訳程度に付けてある、アレです。

引用の主と従の関係において著作権法を盛大に侵犯しているのはさておくとしても、こんなゴミみたいなものを書いて「ブログ」を気取る人間の神経が正直言って私には全く理解できない。アフィリエイト目的であるとしてももう少しまともな文章を書かないとPVは望むことなどできないだろう。しかも、そういう輩に限って、「この記事が面白いと思ったらWeb拍手お願いします」とかフヌけたことを書いている。


記事を書いてるのは貴様ではなくて引用記事の筆者だ


かつて「個人ニュースサイト」が流行ったときも、確かにニュースサイトからの引用は頻繁に行われた。だが、少なくとも有名どころの個人ニュースサイトではそれら引用記事に対して批評なりさらに付加的情報を提供するという形で、それぞれの筆者としてのオリジナリティを出していた。

だが、今日検索サイトから雑魚のように引っかかるこれらの自称「ブログ」は単なるニュースの引用に終始しているのみで、知能を使ったような痕跡などまるで見られない。面白いニュースを紹介したいのであれば大見出しとURLを示してやれば済む話だし、テレビのニュースでも報道されるような有名な話に全く無価値なコメントを一言付けるなどというのはまるで無意味であり「ブロガー」の頭の悪さを自ら曝しだしているだけだ。


仮に、こういう記事を引用してなんちゃって批評家然とした態度を気取りたいのなら、もう少し批評を書く訓練をしてからの方がいいだろう。少なくとも、関連記事を検索する邪魔をしないで欲しい。


そして  (2007.10.08)

車を買い替えることになりそうだ。
ううむ、また貧乏になるなこりゃ……


いやー  (2007.10.07)

案の定、今日はひどい疲労でした。
昼まで寝てましたよ。でも学ぶというのはいいものですわ。


復活の午後  (2007.10.06)

先日、とある用件で大学時代の仏語の恩師に連絡を取ったところ、土曜の自由講義への出席を奨められた。恩師は今年の4月に定年を迎え、悠々自適の生活を送っているらしいのだが、土曜の午後はかつて教えていた大学の教室を使ってディスカッションと自由作文の講義を行っているという。

行くべきか行かざるべきか逡巡したのは事実だ。日頃色々文献にそれなりに接することで能力のメンテナンスは行ってはいるが、正直なところ特に留学中に比べて私のフランス語の能力は著しく低下している。議論とか作文になると多分壊滅的な状況になることは逃れようがない。何よりもここ数日の疲労が休んでしまえと悪魔の囁きをする。

だが、思い出したのだ。恩師がまだ定年を迎える前、研究室でインスタントのコーヒーを啜りつつお喋りをしたあの日々のことを。初めて「特別上級」というハイブラウな講義に出た時、余りのレベルの高さに面食らって内容を殆ど理解できなかったショックを。今は閉鎖されてしまった屋上のプレハブ教室で受けた厳しいながらも愉悦に満ちた、そして日本語を一時ではあるものの忘れることができたあの授業の日々を。


途中都電に乗り換え大学へと向かった。久しぶりに訪れた学生街はかつてとは比べものにならないほど近代的な化粧直しが進んでいたが、そこかしこに残る陋巷の香りは時間の流れと共に流れていないものがあることを慰めと共に教えてくれる。図書館の碑文、傾いた雀荘、弁当を注文する学生の声。変わらぬものと変わりゆくものどもの狭間で、少しずつ衰えていく自らの存在を振り返り、指定された教室のある建物へと歩みを進める。同一の風景は必ずしも同一のものではもちろんなく、複数の系列に重ね合わされることで初めて新たな意味を獲得する。無意味に見えたはずのかの風景は、今その風景をもう一度載せることで経験の位相も含めてその色彩を変える。今意識の対象となっているこの感覚は過去から連なる無数の無価値だったはずの諸経験と再び接合され、現在を過去へと結びつけると同時に過去を現在へと浮上させ、平行しつつまばらに破綻する数々の他者性と世界のゆくえについての夢想を泳がせる。

教室。初めて行く建物だったので迷ったのはさておくとして、学部1年の時にとった「翻訳演習」の先生と再会する。先生の授業に出たのはもうかれこれ15年前になる。語学教育センターの方に仏語入試入学者である旨伝えたら勧められたのがこの講座だったのだ。文法面でかなり厳しい講義は適当を絵に描いたような性格の私には大変きつかったが、接続法の由来とかを復習がてら徹底的に叩き込まれたのはあとになって文献講読に資すること大であった。
15年ぶりに会った先生は当時の面影を残してはいたものの、やはり歳月は人を変えるものだ。仮面舞踏会ではないかと錯覚するほどの変化ではもちろんないが、一瞬誰か判じかねるほどの変化を流れる歳月は人間に刻み込む。そしてフランス語を巡る昨今の状況は我々の表情にひとしなみに衰亡する存在に特有の余裕ある変ニ長調の穏やかな黄昏を付け加えている。

その後講義に参加してきた人々のうち、何人かはかつてあのプレハブ教室で出会ったことのある人々であった。土曜の午後である。若い学生など一人もいない。記号論やポスト構造主義が意味を輝かせてきた時代を通り抜けてきた参加者には、共通してフランス語という言語を分かちあうことの穏やかな悲しみと喜びが満ちている。皆、ヘゲモニーに嬉々として同調するのではなく、異文化を獲得するような流行りのスタンプラリーを駆け足で進めるのでもない。ただ、それぞれが積み重ねてきた学ぶことの苦しみと喜びの意味を、今もう一度さらに積み重ねることで深く回帰させるのだ。

3時間通しの講義は疲労すること甚だしいと共に、一時的にではあれ日本語を忘れることの喜びを思い出させてくれた。ゆっくりと、けれども着実に多くを積み重ねていかなければならない。多くは過ぎ去り、失われていくものではあるけれども、あの沈殿した物言わぬ日々が現前する瞬間を数多く見出していかねばならないのだろう……時の中で。


The Rake's progress作戦:前哨戦報告――努力する者は希望を語るが、怠ける者は不満を語る。(井上靖)  (2007.10.05)

そんなわけで日々イタリア語を学んでいます。ここ数日は二日酔いもあって少しく停滞気味ですが。第一群・第二群規則活用動詞の暗記とか苦しいですよ、ええ。
しかし不思議なことにこうして苦労しているとなぜか旅先の風景を夢見ることが増えてくるのです。単語の書き取りとかシコシコやってると殆ど幻覚のようにイタリアの風景が瞼に浮かびます。幸い妄想の素材は各種世界遺産のDVDがウジャウジャあるので事欠きません(笑)。無論それはつまりステレオタイプってわけですが、それは今後の展開でもってお許し頂く他はないでしょう。

こう苦しい中勉強をいざやってみると、日々の腹立たしいことが色々と紛れていくのが分かります。つい先日も上司と怒鳴りあいの衝突を引き起こしてかなり気まずい状況なのですが(幸いなことに上司は先日からスペインに旅行に行ってしまった)、まあ接続法とか条件法の書き取りなぞを繰り返しているとそんなことも忘れられます。いや、酒で流してしまうケースも多いですが。

れぽーとつくりながらびーるをのんでいた
さだいじんさんまたのんでるっていったら
はいまたのんでますっていった
……それはいいとして、色々な議論をしていて共通の見解に至るのは、目的意識を持ちつつ日々の艱難をものともせず色々と苦闘している人 ―― 特に社会的困難の打破を連帯を通じて実現しようとしている、独我論の陥穽と安楽に停留しない、かの人々 ―― の視点というのは、あくまで希望を前提にしているということです。結果それが思うように運ばないことで怒りや不満や苦悩が生じるわけですが、それは過程において必然的に生じる、ある意味で不可避的な試練であると解釈することも可能なわけです。

無論、その褒賞の完全な実現可能性は、連帯が常に裏切られる「忘恩」の他者性によって脅かされている以上、極めて危ういものではあるのでしょう。だからこそ、まさにその苦悩が努力に対して必然的につきまとうものであるが故に、それを必然として尚も希望を語る人々に対して私は強い羨望と自らのダメダメさを痛感します。そして不満ばかりをつい語ってしまう惰弱な精神が自らの裡に拭い去りがたい形で巣食っている事実にも直面せずにはおれません。

自らの弱さから目を背けてその保護ばかり求める人間はついつい不満をこぼしがちになります。それに対する安易な譲歩と表層的な理解は実のところ愚かさを愚かさとして認容してしまうがために一時しのぎのものにしかならず、最終的にはより重大な損害を周囲は被ることにもなります。そんなことまで想像力も知恵も回らない連中を相手にできる人に私は敬意と限りない同情を感じずにはいられません。

言うまでもなく私自身がその種の惰弱な大衆なわけですから、当然の如くもう私にも逃げるべき場所はないのです。


疲労がひどい  (2007.10.02)

なんか一日中身体がだるい。疲労だ。
勉強のペースも落ちているので、体制の立て直しが急務。まずい。


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