2010年06月
さだいじん は きゅうりょうが すこしだけ あがった!  (2010.06.28)

さだいじん は きゅうりょうが すこしだけ あがった!

さだいじん は じゅうみんぜい が たくさん あがった!

さだいじん は てどり が へった!

つうこん の いちげき!

さだいじん は しんでしまった!



おお さだいじん しんでしまうとはなさけない…。

そなたに もっと たくさん しごとと ざんぎょうを あたえよう。

では ゆけ! さだいじんよ!

(ρ_;)


AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G EDを使ってみた  (2010.06.25)

というわけで本日は友人のかわごえ薬局氏とダラダラ遊びつつ、24-70mmF2.8の試し撮りを行ってきた。

本体背面の液晶では中々分かりにくいのだが、自宅に戻りディスプレイで確認してみると、その写りの良さが余りにも歴然としているのに驚く。そりゃDX18-200mmVRはその万能性からしてまごう事なき傑作レンズだが、葉脈などを写すとやはり解像力の甘さが気になる。その点24-70mmF2.8は、ヌケの良さは単焦点に迫る物があると同時に、解像力の高さは等倍で見ると驚くべき物がある。今回の撮影では三脚を持参するまでのことはしなかったが、しっかりと固定してキッチリした写真を低感度で撮影したら素晴らしい描写力を持っていると思う。
無論、言うまでもなく不満がないわけではない。広角端での樽型の歪みは気にするなという方が無理だし、開放時のビネッティングはAPS-Cサイズの撮像素子でも結構目立つ。いずれもソフトウェア的に修正できるので、大した問題ではないのだが。

というわけで作例。
1枚目
線路の部分が二線ボケになっていない点に注目。

2枚目
凛子林檎の肌理や葉の質感まで描写できている点がすごい。

3枚目
夜の風景。ISO560の準高感度で撮影しているが、ヌケがいいので植木の色が濁っていない。

今日は18-200VRと35mmF2と24-70mmF2.8の3本を持って行ったので、カメラと合わせると3キロ近い荷物を背負っていった格好になり、正直かなりつらかった。

小生の技術のことはさておくとしても、確かに評価されているだけのことはあるな、というのが正直な感想だ。


AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G EDを買った  (2010.06.24)

色々なことで精神的に最近結構病んでいるし、ボーナスも30日に支給されるらしいので、心機一転乾坤一擲の再起動を期して、AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G ED(http://www.nikon-image.com/products/lens/af/fx/zoom/af-s_24-70mmf28g_ed.htm)を買った。前々から欲しいと思っていた金環レンズ(注)の一つで、値段もほぼ底値に近づいてきたので、後先考えずに購入した次第。貧乏ユーザーの小生もついに大三元レンズのうち一本を手にすることができたと思うと、感慨もひとしおだ。ちなみにこれに合わせケンコーのZeta(http://www.kenko-tokina.co.jp/imaging/filter/zeta/4961607335253.html)を同時に購入し、前玉保護用に装着。

注:ニコンのレンズはキヤノンやミノルタ-ソニー系と異なり、型番で上位グレードと普及グレードを識別することができないのだが、鏡胴部に金環があしらってあるのが上位レンズの印である。(キヤノンのLレンズは赤いリングがあしらってあるため、別名「赤ハチマキ」と呼ばれる)


で、まず外箱の写真。焦点距離の割にでかい箱です。「N」の字がまぶしい。


箱を開けると、レンズ用のセミソフトケースが入ってます。付けっぱなしにして使うことがメインになるので、余り使い道はなかったりしますが、あったらあったで嬉しい物です。


で、フードを付けるとこのくらいの大きさ。F2.8通しのレンズはさすがにでかい。重量も900gあるので、D300につけると合計で大体2kg。体を鍛えないとニッコール兄貴には会えません。


愛機D300につけたところ。フードは外してますが、フードを付けたらもっとゴツくなります。

作例は今度出かけたときに沢山撮ってくる予定なので、それをアップします。


東京イエローページというのがあってね  (2010.06.19)

時には昔の話をしよう。

初めて聴いたときから随分と時間が経っているのに、何かの拍子にふと思い出してしまう歌がある。それがどういういきさつなのかはよく分からないけれども、その歌の歌詞や旋律は記憶の底にしっかりと残っていて、思い出すともなく口をついて歌い出してしまうことがあるものだ。

昨晩も、例によって例の如くつまらない仕事を終えた後、近所の酒場でひとりの晩酌を済ませて帰途の路上を歩いていた。そのとき、特に意図したわけではないのに、ある歌の一節を口ずさんでいることに気がついた。それはこんな歌だ。

みんなひとり ひとみしり さびしがりや
してあげたいこともあったけど 失くしてから気付くの
つないだ手は離さなきゃ 翔び立てない
今はじまる 迷子になった 天使たちのLESSONね
これを読んでおられる方で、この歌のタイトルが一発が分かる方はほとんどいないだろう。一応正解を引用すると、こんな歌だ。



今から20年も前の歌である。しかも典型的なアイドル歌謡である。知っている方がおかしい。

「みんなひとり ひとみしり さびしがりや」という一見矛盾する歌詞に凝縮される人間の孤独を扱ったこの歌は、この矛盾をリアルな自己意識として表現することが求められるため、歌い手を選ぶ。
その意味で、これを歌っていた小川範子というアイドルは、その儚さと陰のある個性(いわゆる「お菓子系」雑誌でモデルをやっていたことを暴露されるなどの悲運があったという)故に、この歌が持っていた中心的主題、つまり「ひとみしりangel」という語に象徴されるある人々は、他者への恐怖と孤独がもたらす宿命的な別離の反復のうちに、迷子であることを運命づけられていることを受忍するしかなく、その絶望の連続はせいぜいがレッスンとして昇華される程度だという救いようのなさを、抽象的な運命論ではなく、彼女自身の幸薄げな表情が象徴する一つの世界に受肉化させ得たのだと思う。この歌を初めて聴いた当時私はまだ高校1年生で、しかも中高一貫の男子校に放り込まれていたため、この歌が提起する現実は理解するべくもない。だが、それでも、「みんなひとり ひとみしり さびしがりや」というフレーズが放つ悲しみとこの世界そのものに対する消しがたい恐怖は、その後の惨めな人生を予告するものとして私の胸に響いた。


全くの余談ではあるが、この歌を歌っていた小川範子には、一度だけ大学の階段ですれ違ったことがある。私のようなマニアでなければ分からないほど当時の彼女は地味かつ華奢で、数年後大名行列をやって登校姿をメディアに撮影させた某アイドルとは全く別物の、等身大の人間の姿がそこにはあったように思う。そして、そのような彼女だからこそ、かの歌は、歌以上のアウラを伴ってこの疲れ果てた中年男の記憶に沈殿していたのだろう。


めずらしく連日の日記  (2010.06.17)


留学中、論文のチェックをしてくれた知人が、また病を得て入院したという。入院の報を受けてすぐにお見舞いもかねて病気快癒のお守りを送ったのだが、幸い事なきを得たようだ。

彼の知遇を得たのは、もう10年以上前のことになる。独語と古代ラテン語とエルザス語にも堪能な彼は、文学や芸術への造詣も深く、ワイン関連も含めて私にとっての師匠の一人と言ってもいい。2年半ほど前、さる出来事のせいで失意の底どころの状態ではなかった私の危機について、手紙の文体からだけ(文面ではそれについては敢えて触れなかった)で見抜いた炯眼の持ち主である彼からは、多くのことを学んだように思うし、昨年の暮れパリで彼と昼食を共にした折にも、旧交を温めると共に再びいくつかのことを教えられた。

たとえば、多くの人の中にあって救いがたいほどの孤独を感じたときこそ自らに向き合うことで超越的なものの崇高さを再度見いだすいい機会であるということ。
たとえば、この世界の中には腹の立つこと、つまらないことは余りにも多いけれども、美しいものや偉大なものに接することで、私たちの精神はそうした事柄から離れて一人立つことの位置をもう一度確認することができるのだということ。
そして、人間同士は埋めがたい差異を持っているが故に、時として絶望を味わうことにもなるけれども、その差異を積極的に認め合うことのうちに豊かな連帯の萌芽があるのだということ。

長いとも短いとも言えない今までの人生を振り返ってみるに、照れることなく「私の人生は多くの部分を彼(彼女)に負っている」と言い切れる人はさほど多くない。恐らくこれは不幸なことだと今では悔やまずにはいられないが、それでも彼はそのように断言することができる人間の一人だ。スノッブだとか嫌味だとか陰口を叩かれることも多々あるが、それでも今の私があるのは彼のお陰だ。

医者でもないのだから、私が彼にできることは正直ほとんどない。だが、それでも私が生き続けている間は、せめて彼に恩返しの意味も込めて、彼の健康を願いつつ、対話を積み重ねていくことができればと思う。


カンチェリを聴きつつ  (2010.06.16)


人を罵倒することを挨拶の代わりだと勘違いしているような種類の人々が存在する。彼らは一見社交的ではあり、表層的には陽気ではあるのだが、そうした行動が暴露する人間としてのその程度の低さは、彼らとの交流はあくまで形式的なものに留めるべきだということを教える。人を罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置いてはいけないし、彼らの厚顔無恥が消えてなくなることはないのだから、それを願うとか矯正しようというのはそもそも求めてもいけないことなのだろう。
つまりだ。意味がないことに心を動かすべきではないのだろう。意志そのものを放棄することに価値を見いだすという点では、それはストア派的というよりもショーペンハウアーの観念的な厭世論に近いのかもしれない。だが、一方でニーチェ的な高圧的な嘔吐感を常に感じながら重い朝をやり過ごさねばならないのは、どうしたらよいものだろう。


Shure SRH840を買った  (2010.06.11)


通勤等移動時の音楽のお供として、ヘッドフォンはATH-PRO700をここ3年くらい使っていたのだが、ハウジング部分近くのヒンジが経年劣化と普段からの雑な取り扱い故に割れて壊れてしまった。とても修理で対応できるレベルのものではないし、ヘッドバンド部分がだいぶボロボロになってきたので、ここは思い切って新しいヘッドフォンを購入することにした。

今月はベッドのマットレスを注文したり、その他酒代も結構な金額になっていて収支がかなり苦しい状態なので、beyerdynamic DT880とかAudiotechnica ATH-AD2000のような準ハイエンドヘッドフォンにはとても手が出ない。前者は開放型なんで電車の中で使うのはそもそもNGですが。
そんな中で色々と比較検討を繰り返して、ShureのSRH840を買うことにした。購入先はいつもの如くAmazon.co.jp、価格は約18,000円。注文した翌々日には落手。しかし箱が大きいね。

で、夜間10時間程度エージングも含めて放置した後、私がいつも使うCowon D2TVにて聴いてみた。
第一印象は、高音部の賑やかさは33KHzまでの再生レンジを誇るATH-PRO700にやや劣るものの、声部の解像感は驚くほど高いということだ。特にマーラーやストラヴィンスキーの曲を聴いてみると、それぞれのパートがどういう音を鳴らしているのかがかなり確実に聞き取れる。これはすごい。しかもそれでいて解像度優先で全体のフォルムを崩すようなことにはなっておらず、立体感をしっかり保持したまま解像している。
また、低音部は本機の方がインピーダンスが若干高いためもあってか、やや安定感が高く、クラシックなどでは和声の変化を追いやすい。ただ、ロックとかJ-POPなどの場合では聴き疲れる可能性もあるだろう。
その他、DJ向けヘッドフォンでは余り重視されない、ホールの残響や静音部での音量の減衰もしっかりと聞き取ることができ、トータルとしては弦楽器などは艶のある音色を繊細さとともに堪能することができる。

唯一問題なのは右側のドライバーユニット向けのケーブルが外側に露出している点で、鞄に収納するときは丁寧に袋にしまってやらないと断線の危険性がある点だ。これは普段から丁寧に扱う習慣を付ける他はない。

まとめると、2万円以下の中級価格帯のヘッドフォンとしては非常に出来がいい。これがゼンハイザーみたいなメーカーだったら4〜5万円くらいの値段は付けていたかもしれないと思うと、Shureの英断には拍手を送りたい。ただし、ここまでの性能になってくると、128Kbps程度のMP3だと音源によってはかなりアラが目立ってくる。実際、今から10年以上前のエンコーダでMP3化した128Kbpsの某アニソンを聴いてみたら、高音域でのボーカルの立体感の喪失(特にリバーブを強めに効かせた音源だとひどい)や、ストリングスの旋律が圧縮のせいで妙に線が細くなっているのが明確に分かる。そんな訳なのでこのヘッドフォンを使って圧縮音楽を聴くのであれば、容量の許す限り高ビットレートでのエンコードを行うか、可能であればFlacのような可逆圧縮フォーマットを使った方が幸せになれると思う。


許されない 心の中に咲いた花よ  (2010.06.09)


ここ数ヶ月の日記の内容が泥炭の如く重苦しいのは、この日記をお読み頂いている方ならとっくにお気づきだと思う。実際度々体調を崩したりもしているのだが、この歳になってようやくと言うべきか、或いは再びというべきだろうか、自らを構成する様々な精神的な要素の救いがたい多くの問題に、今更苦しんだりもしている。

多くの人々が自明のものとしてその獲得過程を疑問視することすらない、即ち人間であれば当然生得的に備わっていると見なしているいくつかの感情は、実際には非常に特権的なものでもある。その感情、或いは情動は、何らかの失敗によって獲得できなかった人間にとっては、それらを克服するために途方もない努力が要求されることになる。そして、その努力の過程そのものがコンプレックスとして更に溝を生むことにもなる。実際、私はこの歳になっても人を信用することができないし、そのため安定的な関係を他者と構築することがほとんどできない。それを直せと言われることも少なくないが、治そうとしてもなかなか治せるものではなく、無理にそれを取り繕おうとするとかつて苦しんだノイローゼが顔を覗かせる。そんなわけだから、太宰の『饗応婦人』の強迫的なもてなしぶりは恐ろしいほどに自らを代弁している。

しかし、その一方で私はアドルノの「身体的契機」に関する話を思い出す。身体化された世界との違和感は、それ自体としてアドルノが言うところの否定弁証法的思考の契機となり得る、というものだ。
多分、それは正しいと思う。勿論それは相互を隔絶する形で自らを特権化するものではない。それは単なるルサンチマンというものだ。だが、自らが欲してやまないものは自らの生がそもそも既に失敗に終わっている以上決して手にすることができないのだということが全ての瞬間に渡って反復され心に刻みつけられるのだとしたら、心は不可能なことが自明な完成された静かな世界を夢想することは退行の一言で片付けられるべきものではないように思うし、おそらくはそうした世界の不可能な可能性を期待することに価値を見いだす人間同士が自らが選び取る以前に世界が敵対的であったという経験を共有するという奇跡のような邂逅が介在しなければ、私も含めたある種の人間はコミュニケーションなるものを否定し続けるだろうと思うのだ。そしてそれは詰まるところコミュニケーションなるものがそもそも私にとっては現実的には不可能であることを示唆している。

飲み会で人の不幸を肴にして笑い転げるような人たちと関わるのは正直疲れてきている。せめて、人生において限られている僅かばかりの時間の中では、せめてできる限り美しいことに心を向けていたい。


「教えて君」の増加が意味するもの  (2010.06.05)


月曜日は大阪某所で、音楽学博士様のナカムリャコフ氏と飲んだ。
バーにて氏はしきりにグラッパやマールを所望されていたのだが、残念ながら無かった模様。小生は疲労激しきにつき、フローズン・ダイキリを某『海流の中の島々』よろしく飲んでいた。
LCCに成り下がったスタアラ系国内線を使って帰った機内では、300円分のプレゼントが当たったのでシークワーサーの飲み物と引き替えた。そこそこおいしい。

閑話休題。
Mixiに限らず、ネットの掲示板に類するものをつらつらと眺めていると、厚顔無恥すぎて怒りを通り越してもはや笑ってしまうレベルの「教えて君」に出くわすことが少なくない。少し調べれば分かるような事柄でも「教えてください」を連呼するものだから、私などは冷やかしと煽りを兼ねて「調べて答えを見つけてもあなたはそれが答えであることすら気づかないでしょう」とか書き込んでやると案の定逆ギレして暴れ出したりして何とも言えず心温まる光景が繰り広げられることになるのだが、このような光景が増加しているような感覚を抱くにつれ、知識の所有と運用という環境がここ15年くらいで大きく変容したのではないかという印象を強めている。

かつて、ネットなど一般人向けには影も形もなかった時代、知らないことを解決するためには、膨大な知識量を誇る専門家に訊いて回るか、図書館にこもって辞書類と格闘するくらいしか方法がなかった。適切なデータソースを知っていること、それ自体が専門家として要求される能力の一部であり、一般人には「知っている」か「知らない」の二つの階層が存在するのみだったのだ。だからこそ「訊くは一時の恥、知らぬは一生の恥」だったのだ。

ところが、Googleのようにすべての情報をフラットな空間で統一的に検索するソースを提供するサービスが一般化してくると、獲得された知識そのものの陳腐化が加速される一方で、知識の運用に当たってはもう一つのスキルが新たに一般化し、要求されることになる。それが、かつては専門家の領分に独占されていた「検索する」という能力なのである。

ここに来て、一般人の知的能力の区分は「知っている/知らない」の2区分から、「知っている/適切な答えを検索して探すことができる/知らないし、検索することもできない」という3区分へと拡大することになる。単なる「知らない人」で済まされていた「教えて君」は、検索能力の欠如という新たな無能さを露呈することによって、知的階層においては自らが最下層に属するという事実に直面することになってしまったのだ。彼らが単に愚かであることを通り越して滑稽にすら見えることがあるのは、このようなヒエラルキーの登場によるところが大きいと私は思う。

検索という技術が登場することによって、確かに獲得された端的な知識そのものの価値は以前に比べて大きく下がったように一見感じられる。だが、そうであるが故に、適切な知識の運用にあたっては、自ら適切な情報を獲得するという能動的な技術が要求されているし、深層においては検索によって獲得された情報の真偽を判別するだけの更に高度な知識を暗に要求されていることになる。

だから、「教えて君」のがあちこちで増加することは、単なる「ゆとり教育」の失敗と言ったつまらないクリシェで解決される問題ではない。ネットに接続するためのデバイスに対するリテラシーの確立の失敗、あいるは携帯電話に依存しすぎたこの社会の情報化の本当の貧しさといったものにも、目を向けるべきであるように私は思う。


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