2008年08月
携帯電話のマーケティング的暗愚  (2008.08.31)

先日、W43H II(http://k-tai.hitachi.jp/w43h2/index.html)を水没させて壊してしまった。久しぶりに晴れたので洗濯しようと思って服と一緒に洗濯機へ。しまったと思った時にはW43H IIはただの金属とプラスチックの塊になっていたとさ。

仕方ないので昼休みにauショップに寄ってW62Hの黒(http://www.au.kddi.com/seihin/ichiran/cdma1x_win/w62h/)を買った。幸い水没したW43H IIのSIMカードとmicroSDカードは生きていたので番号はそのまま。アドレス帳は昔使っていたW21SA(http://www.sanyo-keitai.com/au/w21sa/index.shtml)から移動できたので最悪の事態はとりあえず回避できたものの、動画を見たりテレビを見たりでヘビーに使い倒していた機種ではあったので、精神的ショックは大きい。帰宅後早速アドレス帳とか必要なデータを全部ファイルサーバにバックアップした。

標準状態の携帯電話はメニューが邪魔くさいフラッシュ仕様だったり待ち受け画面に使いもしないニュースフラッシュやら検索ガジェットやらゴチャゴチャとうるさいため、それらを全部消すか一番シンプルなものにする。次いでメモリを食い潰しているデコメ素材とか体験版ゲームとか「24」の第一話とかを片っ端から削除。ほとんどクリーンインストールみたいな状態にしてようやく自分用の環境構築ができる。これってどこのF社製デスクトップパソコンですか?

ここまでひと苦労してからようやく、PCと接続してのデータ移動開始。手持ちのBluetoothアダプタでは相互接続できなかった(公式サイトでFAQで調べたところ、動作確認機器も示さずに「W62HはすべてのBluetooth機器との接続動作を確認したものではありません。」(http://k-tai.hitachi.jp/faq/w62h/qa21.html)の一言だったのはどういう事だろうね?)のはさておくとして、auの携帯電話が世代を追うごとにユーザーのカスタマイズ要求を無視し、キャリア側のエゴのみに基づいたUIに堕落していることが明確に分かる。例えばメニュー画面のデフォルトのカーソル位置が「テレビ」(W43Hは確か音楽プレーヤーだった)ってどういう事ですか?

改悪はそれに留まらない。以前の機種は自分で作製した動画を再生する場合、アスペクト比を無視しても画面一杯に表示する機能が付いていた。携帯動画変換君を使ってDVD等の動画をリッピングして携帯に転送する時、転送動画のサイズはQVGA限定だったので、このような機能はアスペクト比16:9の動画を見る時大変重宝したのだ。ところがW62Hはそのような拡大処理はおろか、動画のシーク機能も付いていない。(追記:一応シーク機能は付いているが、シークバーが表示されないなど大変に使いづらい)

ここから読み取れるのは、現在のモデルにおける動画再生機能はあくまで(有料で)ダウンロードしてきた数分程度の短いクリップを再生するためのものであって、ユーザー側が自作した動画を見ることなどできる限り排除してしまいたいというキャリア側の思惑だ。ビデオカメラとかDVDレコーダーとかのAV機器は携帯を再生デバイスにして何とか活用フィールドを広げられないかと各社とも苦闘しているのに、こういう囲い込みは正直言ってバカじゃないのかと思う。これはコピーワンスというエゴ剥き出しのDRMを敷いたせいで結局は自滅した放送事業者の暗愚を想起させずにはおかない。

その他にも待ち受け画面のオープンエミーロ(フリップを開くたびに表示される壁紙が変わる機能)がなくなっていたり、Webサイトブラウジング時のキーアサインの変更など細かい点でのユーザビリティの後退が目立つ。エンジニア側から見るとどうもいずれもKCP+の搭載でファームウェアの移行がダメダメになっているからというのもあるらしいのだが、そんなくだらない事情はエンドユーザーには関係のない話だ。

以前からauの携帯電話は着うたが自作できない(偽装する方法はあるがマニア向け)ことや、BREWなどを載せているせいで自作アプリの自由度が著しく低く、ユーザーが自分の携帯電話をカスタマイズすることをハナから考えておらず課金コンテンツで小銭をかっぱらうことしか頭にないとはよく叩かれていたことだが、ここまでカスタマイズ性がボロボロになってしかも収益に関するビジネスモデルがユーザビリティの低下と結びついているという構造的愚昧が露呈してしまうような機種展開ばかりしているようでは、正直今度はdocomoのスマートフォンでも買ってMNPしてしまおうかとすら思う。


Vanitas, Veritas  (2008.08.29)

CEATEC JAPAN2008のサイトに左大臣の講演予告が載りました。
左大臣の本名を知っている人はレッツ探索! でもここにはURLとかは書かないでね。

CEATECからの正式講演依頼書によると、どうも食券と1000円分の交通費(オレンジカード!)が出るらしい。講演を依頼してきた某所からのギャラは多分ゼロの模様。うえええええ。自分の宣伝と思ってやってきます。


(無題)  (2008.08.27)

自分の持ち物で、他人に使われてもかまわないものランキング
http://ranking.goo.ne.jp/ranking/999/rental_item/

上の記事では別に「愛用している」とは書いておらず、何気なく使っているものが大半であるという前提でアンケートを行っている模様ですが、それはそうとしても自分が愛用しているものを人に使われるのはたとえそれがデジタル機器であってもいい気持ちはしません。正直言って私は自分のモバイルPCですら他人に触られることに強い抵抗を感じます。それは恐らく私がかな入力主義者で、人に自分のマシンをいじらせると必ずといっていいほどローマ字入力に変更されたまま戻ってくることにも由来したりするのでしょうが、そんな理由もあって私は自分のものを滅多に人に使わせません。

自分の愛用しているものとは、自分にとっては単なる道具ではありません。私の嫌いなハイデガーの表現に倣うことになってしまいますが、それは自分がこの世界と有機的に繋がっていることを導いてくれるある種のパートナーでもあります。使っている当人の技術的水準がいかにまずいものであろうとも、それがもたらしてくれる感触や行為は、この世界の内で自分が何らかの形で生きているという実感を確保していく時の紐帯でもあるのです。それは道具の形を借りた自己の一部でもあります。そんなものにこだわっているお前は我執の固まりだという批判は当然甘んじて受けなければならないとしても。

そんなわけで、人の道具をいきなり断りもなくいじり出すような人に出会うと、自分の生存根拠を脅かされるようで、正直精神的に非常に疲弊します。先日も会社のエレベーターの中で、他部署の部長に自分のデジタルオーディオプレーヤー(iAudio D2TV)とヘッドフォンを「またマニアックなもの使いやがって」という台詞と共にいきなりいじられた時には腹が立つ前に恐怖を覚えました。彼は自称写真好きの割には知っている写真家と言えばロバート・キャパ程度だったり、「現代音楽ってあのドカーンとかギャーとかうるさくて訳わかんないのだろ」という物言いを普段から平然とするような野蛮な人間ではあるのですが、そういう不愉快を通り越すような経験をしてしまうと、様々な意味で人と会うことそのものが非常に辛くなります。

辛いといってられるうちはまだ健康なのかもしれませんが。


「この指とまれ!」退会  (2008.08.23)

先日、「この指とまれ!」から「『この指とまれ!』からの大切なお知らせです。 」なるタイトルのメールが届いた。

「この指とまれ!」は過去に一度ヤクザに乗っ取られる不祥事を起こしており、経営状態もあんまり芳しくない(2007年には別会社に事業を譲渡)ようで、ついにサービス停止かねー、と思ってメールを開いてみたところ、




Webサイト屋(http://www.netpreneur.co.jp/)のスパムメールでした。




しかも上記のwebサイト屋はフラッシュだらけで、代替文字リンクもない。広告ページ(http://www.netpreneur.co.jp/collaboration/)はコピペ対策なのか全部画像ファイルで文字は一つもないという凄まじい無茶苦茶さ加減。こういう出鱈目なデザインしてるとジェイコブ・ニールセンに名指しで吊し上げられるから気をつけた方がいいと思うよ。

で、ちょいと調べてみたら上記のWebサイト屋はこれからは指とまのメディアレップとして色々やっていくつもりらしい。つまりはこれからもドカドカ不要なスパムメールが送られてくるということは容易に想像されるわけだ。大手サイトによる顧客囲い込みの流れが明確になってる昨今、メディアレップ事業はこの先先細り確実なのに……


まあ、そんなこともあって、こういうスパム広告を平然と送りつけてくるゆびとまにはもう個人情報を預ける意味がなくなったので、退会しました。バイバイ。


美の概念の媒介性について  (2008.08.19)

そういえばこの前の日曜日は上野の国立博物館平成館に「対決−巨匠たちの日本美術」展(http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=5315)を観に行った。行こう行こうと思っていたらいつの間にか最終日になっていたので慌てて行ってきた次第。

いやー、混んでました。確かに宗達と光琳の「風神雷神図屏風」とかここ数年いきなり人気の出てきた伊藤若冲の「仙人掌群鶏図襖」(鶏を正面から描いてしまう辺りが面白い)とか、国宝とか重要文化財級のものが大量に出展されていたので、混雑は致し方のないところなのでしょう。

実際展示内容も非常に充実しており、曽我蕭白の猛烈に描きこまれた唐獅子図は間近で見ると眩暈がしそうな迫力であり、別エリアにあった応挙の面相筆で丹念に描かれた「猛虎図屏風」と比べて明らかに個性というべきか意識の違いが明確になってきます。

で、最後に横山大観と富岡鉄斎が「対決」させられていた訳なのですが、漢詩はともかく絵は小学生の夏休みの宿題みたいな(失礼)鉄斎と、西洋の「芸術」の概念を前にして従来の日本画の概念を維持することの錯誤を悟り、その中で伝統を昇華させようとした大観の対比に主催者の意図を感じることができたようにも思います。今から見ると大観の「雲中富士図屏風」はフジヤマジャパーンな感覚は拭えず、個人的には「生々流転」に腰が抜けるほどのショックを受けたことがあったりするのですが、あくまで生活における装飾的色彩の濃かった江戸時代までの美術から、自立的存在としての芸術という、絵画等を巡る明治時代の状況の中で、従来の従属的装飾性から身を振り解こうとした大観の苦闘のあとがそこから垣間見えたりして、逆にそれ故に江戸時代までの絵師や文人の有していた美に対する意識と我々の時代のそれとの隔絶を意識せずにはいられなかったわけでした。即ち、美というものが自立的、少なくとも個別の対象から切り離されたイデア的なものとして、そして(否定的な態度であれ)それに関わる行為として我々は今日芸術というものを認識するわけですが、そのような超越的な「仮象」が共有されていない社会においては、個々の創作行為が、何を意識してなされたのかを、宗教美術を別にすると、内在的に考えるのは極めて困難でもあるのです。確かに個々の絵や彫刻は猛烈に上手なわけですが、それを屏風等に描いていく時、創作者の意識を主導していたのは何であるのか、それが私には未だはっきりとは分からないのです。そこに芸術なるものが持つポストモダン的な裂け目がある、といったら綺麗にまとめすぎですね。

というわけで、今度時間がある時には「フェルメール展〜光の天才画家とデルフトの巨匠たち〜」を観に行ってくる予定です。混んでるだろうなあ。


『ドラムストラック』&ロテスリー・レカンに行ってきた  (2008.08.17)

昨日は『ドラムストラック』(http://gingeki.jp/special/drumstruck.html)を聴きに、天王洲アイルの銀河劇場に行ってきた。

羽田空港に行く際にはモノレールで通過するものの、天王洲アイルなる場所に行くのは実は初めてだったりする。1992年のオープン当初はバブルの残り香がまだ漂っていて、デートスポットやらなんやらのトレンディな(笑)スポットとして東京walkerとかの雑誌に取り上げられてそれを横目で舌ウチひとつ((C)電気グルーヴ)な苦々しい過去そして現在と未来ではあるのだが、ジェンベ(ジャンベ)をみんなでポコポコ叩きながら参加という形態に少しく興味をそそられたので行ってきたという次第。

で、開場時間よりもずっと早く着いてしまったので、シーフォートスクウェアにあるポートウォーク(ウッドデッキの散歩道)をウロウロと散策。機能性一辺倒な建造物群がやさぐれ心を抹消してくれて落ち着く。新橋汐留再開発地区にある腐れポストモダン風味のオフィスビル群はそれ自体が自らを捨象した消費社会に阿諛追従の限りを尽くしていて見ているだけでサルトルもびっくりの嘔吐を催さずにいられないが、数式だけで成り立っているようなこのエリアの倉庫などを見ていると自分の精神など所詮この世界にとってはどうでもいいものだということを再認識できるので実に有難い。

ドラムストラックの公演は実に楽しいものだった。左大臣がもう凄まじいリズム音痴だということは公然の秘密だが、それでもジェンベを叩きまくるというのは実に愉快だ。曲目の構成自体は非常にオーソドックスなものだが、それでも最後の曲のトランスぶりは楽しい。16ビートでジェンベを叩いていた時に石井真木の『日本太鼓とオーケストラのためのモノプリズム』の後半部分を思い出していたのはここだけの話だ。まあ、あんな感じだったわけですよ。変拍子はなかったけどね。

で、隣の第一ホテル東京シーフォートのレストランでアフターコンサートのお茶をしたあと、東銀座のロテスリー・レカン(http://www.lecringinza.co.jp/rotisserie/)にて夕食。左大臣が食したのは以下の通り。

食前酒にはペルノーを暑気払いでサクッと飲む+アミューズグール(冬瓜に色々)
前菜:穴子の備長炭焼きとフリットのサラダ
利尻の焼うにのガレット添え
メイン:国産牛ロースのグリエ 赤ワインとマデラの香るソース
チーズプレート
デザート:グレープフルーツのスフレグラッセ
ワインはニュイサンジョルジュの2004年。1999年のが飲みたかったのだけれど……

で、感想。
前菜:栄養価の面からもリッチな内容ですが、特においしかったのは穴子の備長炭焼き。有り体に言えばいわゆるヌーヴェル・キュイジーヌ風ではあるのだが、脂っぽくない穴子+酸味と甘味がいいレベルで組み合わさったソースは◎。焼き雲丹のガレットは雲丹の香りが弱く、口に入れた時の喜びに乏しく、再考を求めたい。作り置きにそこまで文句言っちゃいけないけど。

メイン:「焼肉屋レカン」の名に恥じない非常にいい出来。マデラ酒の香りが嫌味にならず、肉の旨味を引き出していて、かつ脂の味に依存しないまっとうな出来。シンシア種のジャガイモを使ったガルニチュードは甘味が濃く、素晴らしいバランス。

デザート:これは手抜きだろう。グレープフルーツのあしらい方が「コスト」の3文字を意識させずにはおかない。本当はタルトを食いたかったのだけれど、なかったみたい。そういうところで原価を下げるのは仕方のないところだし、ガチで気合いの入ったデザート食べたければ本店行けよ(ちなみに本店は酒を飲むとお一人様4.5万円コースになるのでとてもじゃないが普段から行ける店ではない)ということになるのだろう。

本日食したコースはチーズを除くと5800円+サービス料10%。銀座という立地を考えれば、正直びっくりするくらいのコストパフォーマンスだと思う。オリーブをあしらったプロヴァンス風の皿ははっきり言って安っぽいとか個々の要素に不満はないわけではないが、給仕のレベルはこのレベルの店としては十分すぎるほどのものだし、たまに友人達と軽い贅沢気分に浸るのにはいい店だと思う。


Toujou ieu canterai souta li tieu tounella la tieu mar d'azur!  (2008.08.16)

さすがに色々と多くのプロジェクトを抱え込んで更にこれから前任者から引き継ぎ業務も発生するという中で、もういい加減いろんなことにうんざりしたので、今年も年末に旅に出ることにした。今度の旅先はフランス、パリから徐々に南下するルートを取る予定。とりあえず治安の悪くて寒いところから暖かいところに逃げるという塩梅。

具体的なルートはこれから選定に入るが、基本的には知った土地ばかりなので、飲んで歌って飲んで食べて飲んで……な旅にしたいと思う。

ちなみにタイトルの引用元はこちら↓。ニサール語の響きが楽しめます。
http://jp.youtube.com/watch?v=pP3Yod5cH2k


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