2007年07月
「犀の角の如く独り歩め」  (2007.07.30)

相談、コミュニケーション。

「相談」することを奨励する声は強い。業務における「ホウレンソウ」なんかその典型だ。
確かに、チームプレーが肝要となる際、連絡を密にすることは大切だ。デスマーチを避けたければトラブルが災害になる前に手だてを講じる必要があるのは明らかだから。

だが、極めて内面的な問題を「相談」することは果たして必要だろうかと考えることがよくある。極めて感情的なトラブルに起因する問題を誰か第三者に「相談」する場合、それは往々にして単なる同調圧力の醸成のプロセスにしかならないからだ。即ち、「私は誰それと誰それに意見を聞いた。みんな私の意見に同調してくれた。だからそれに反対する貴様は間違っている」という、見事なでっち上げ三段論法が、完膚無きまでに他方を打ちひしぐ。

事実、私はこういう同調圧力を笠に着ることが極めて不得手だ。そもそもが同調圧力など必要ないと考えているのだからその根本性格からしてまあ集団による圧力行使など無縁なのだろう。

だからこそこういう同調圧力を「普通は〜だ」という一般化して述べ立てるような人間の水準の低さにはここ数年食傷気味でもある。「正しい」ことと「多数派の意見である」ということを無自覚的にイコールで結びつけたがるこのような付和雷同の精神は、それ自体としてクズであると私は思う。どうしようもない連中の意見をやたら引用してきたところで、それが一体何だというのだ? そういうものを引っ張ってくるということを通じてその人間は自らの思考力の無さを、頭の空っぽさを証明しているだけではないのか?

私は自分が絶対正しいというような肥大しまくりの自我を有しているわけではない。むしろ生まれてこの方全て間違いだったという絶望や挫折感や無力感に襲われることは頻々とある。だが、だからこそ、多数者の暴力を無邪気に自分への同調圧力に転換してそれを無邪気に、そしてしたり顔で私を矯正しようとするような性根の腐った人間にはこちらから絶縁状を突きつけてやりたいとすら思う。

私が恐らく無限の遠さの中で連帯しうるのは、いかなる馴れ合いからも身を引き離して孤独の道を進むことを、思考の自由の代償として引き受けた、かの呪われた人々だけであろうと思う。


平坦な戦場で 僕らが生き延びることを  (2007.07.25)

やめてしまうのは実は簡単なことなんだ

問題はどれだけその困難を耐えようかと歯を食いしばることだったね

多くの放棄と断念の羅列

そういう時には人の欠点ばかり見えるものだ

石畳を足は覚えているかい

伸ばした手が虚空にぶら下がること


Sombre dimanche  (2007.07.22)

どうも鬱のようだ。

朝方、あるいは午前中は完全に活動不能に近い。夜は11時前には寝てしまっているので、睡眠不足ということはない。で、ようやく夕方ある程度活動ができるようになるが、8時を過ぎる頃には元の木阿弥。そして憂鬱な朝が……ということの繰り返しだ。

食欲が出るのは夕方のみ。有難いことではあるが体重が減少傾向にある。文字情報は全く頭に入らない。咀嚼しようとすると絶大な苦労が必要になる。それだけで疲労しきってしまって歩く体力すらないという状態だ。

こういうときには、無前提に近い自己受容の言葉を聞くとそれだけで涙が出てしまう。単なる表層的な励ましに過ぎないとしても、そういう言葉が同調圧力の構成というような腹黒い打算抜きにありうるのだ、ということを感じることほど救いになることはない。

入院するかな。


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