2006年08月
密着しないでお兄さん  (2006.08.30)

仕事帰りに某家電量販店で携帯電話を見ていたのだけれど、密着セールスのうざいことうざいこと。

きれえなお姉ちゃんならともかく、ガリガリオタク(しかも空気読む余裕無し)な店員さんが売ろう売ろうとセールスしてくると、じっくりホットモックをいじる体力も気力も失せます。

まー、月末締め日が目の前でノルマ達成に懸命なのは分かるんですが、キビチーです。


なんかKOKIAに似てるけどね  (2006.08.27)

YouTubeにてThe love song of Haruhi suzumiyaなるMadビデオを発見して見入った。どうしても見たい人は自分で探してくれ。

本来、私は『涼宮ハルヒの〜』シリーズは余り好きにはなれない。余りにも狙いすぎたキャラクター造形や世界構築が見え透いてしまって、そこに意味を見出そうという意欲をがっさりそぎ落としてくれるからだ。また、ウルトラ強気全開な涼宮ハルヒの決めポーズ(指を投げてこちらをキッと見据えているやつ)自体がそれだけで気が滅入る代物のように感じられる。

だが、このMADビデオは、恐らくは(アニメ版の)涼宮ハルヒの世界観をベースにしつつも、それが醸し出していたドタバタ感への果てしない憧憬とそこに住まうことを許された人々への愛情に満ちている。若いことそれだけで十分すぎるほどの特権であった、人生の特定の時期に生の歓喜と充実、そして希望に満ちた日常を臆することなく享受できることに対する痛々しいほどの喪失感を伴っているだけに、かの時代から遠くへ流れてきてしまった自分の空虚感に奥華子の歌声と『涼宮ハルヒの憂鬱』における学校生活の各場面が強く浸みるのだ。

歳をとったなあ、と思う。あの頃のような、といってもそんなことを感じたことは殆どないのだが、豊かな不確実性に身を委ねられるだけの情熱があったあの頃を、少し思い出してみたくなった。


ミエットは幸せになるべきであった  (2006.08.26)

とりあえず読んでみたのでレビュー。

ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」は本書『ルーゴン家の誕生』からスタートする。第二帝政期に興隆の端を発するルーゴン家がいかにしてのし上がっていったのかという話を軸に、もう一方の家系マッカール家出身のシルヴェールが南仏動乱に参加して結局は憲兵に捕まって銃殺されて脳漿を墓場にぶちまけるという話が展開されている。で、今も南仏、特にプロヴァンス〜コート・ダジュール地方は国民戦線(FN)なる極右政党にとってはおいしい票田であったりもするのだが、ピエール・ルーゴン夫妻が主宰する(正確には主宰するように焚き付けられるのだが)南仏プラッサン市という田舎町の黄色いサロン@ルーゴン邸に集う保守反動のブルジョワ連中の話題の水準の低さや思考方法の陋劣ぶりは自然主義の面目躍如という感じで実にリアルかつおぞましさをかなり正確に伝えてくれている。また、もう一方のマッカール家の流れの連中は別の意味で破綻の極みにあって、有名な『ナナ』の主人公アンナ・クーポーはこの流れに属するのだが、本書ではアントワーヌ・マッカールのヒモっぷりが見事という他ない。でも、こういう話が出版当時突飛な絵空事と叩かれなかったということは、こんな人間は下層階級を訪ねればゴロゴロしていたということなのだろう。

それはさておき、本書で光るのは少女ミエットの余りにも可哀相な生き様と死に様である。彼女はシルヴェールの恋人なのだが、まず生い立ちが不幸。父ちゃんが殺人犯の嫌疑を掛けられて牢獄にぶち込まれ、一応叔母の所に引き取られるのだがその叔母がぽっくり死んでしまい義父とその息子ジュスタンに徹底的に酷使されていじめ抜かれる。ええ、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネリーの話でも私はグッと来てしまったわけですが、分かり切ってても私はこういう出自のヒロインの話に弱いです。もう同情度170%です。で、彼女は頭のいかれたアデライード・フークばあさんと暮らしていた(母親は肺結核で死に、父親は悲嘆の余り自殺していたので)大工見習いのシルヴェールと恋に落ちるわけです。出会った当時まだ13歳だったミエットとほんの少し年上に過ぎなかったシルヴェールの逢い引きのシーンは、悲惨なという形容が陳腐すぎるくらいの残酷な日々のなかで、自分を理解し共に生きていこうとする生命を見出したときの二人の痛々しいくらいの瑞々しい喜びが胸を打つのです。それでもってシルヴェールと出奔して山の中で二人で将来の希望を語り合う場面。その後赤い旗を掲げて人々の先頭に立つもあっさりと撃ち殺されてしまい、パスカル博士とシルヴェールの見守る中で息を引き取る場面。もうこれでもかこれでもかとミエットの幸薄さが読む者の精神を揺さぶりにかかります。そしてその後生きる希望を失ったシルヴェールもあっけなく捕縛され、かつて自分が片眼を潰した憲兵によって殺される。
確かに頭はあんま良くなかったけれど純粋で将来への希望があったシルヴェールと、彼に自分の人生の喜びの一切を託そうとしていたミエット。二人は幸せにならなきゃいけないのに何でだ!という怒りが、ルーゴン夫妻、特にフェリシテの腹黒いマキャベリズムやピエールの愚鈍な虚栄心たっぷりの俗物ぶり、そしてアントワーヌ・マッカールのダメ人間ぶりに対して沸き起こります。

けれどもこの話は、実は150年も昔の社会を舞台にしている。にもかかわらずその実相というか生々しさがここまで伝わって来るというのは、さすがゾラというべきだろう。


だから風呂入れって事だよ  (2006.08.17)

私の現在の勤務地は秋葉原に比較的近いところにあるため、昼休みがある程度取れそうなときには秋葉原クロスフィールドとかに出かけて昼食をとったりするのだが、先週末にコミックマーケット、そして今週末にはワンダーフェスティバルが控えているこの時期は、秋葉原の中央通りは特に終末感漂う御仁との遭遇率が高い。今日などは駅近くにあるauショップに用事で出かけたのだが、まあ改札近辺での目撃数の多いことには驚くばかりであった。JRの駅員さんも大変だよなあ。

公共空間におよそふさわしくない服装と体臭と行動の全てを兼ね備えた彼らの存在は、本来ならば指弾されて然るべき類のものであると私は思う。汗まみれでヨレヨレのシャツ(あるいはTシャツ)、数メートル先からでもその存在が特定できてしまう猛烈な汗臭い(しかも入浴していないためその破壊力は猛烈である)、店頭展示を見るために他の通行人に体当たりしても詫びの一言も言わない他者性の喪失、エロゲーの紙袋を恥じらいもなく手提げてメイド喫茶に入っていく厚顔無恥。しかも休日の歩行者天国では路上パフォーマンスをしている女性の写真を躊躇うことなくローアングルから撮影する連中も多い。最早秋葉原という街はこのように他者の恐怖を全く意識することなく、自らの世界とこの街の公共空間を同一視してしまう「幸福」な人種が屯する、極めて異様なフィールドと化しつつある。

特に、昨年以来の秋葉原に対するある種の作られた(流行は大概広告屋によって作られるものだが)流行は、従来蔑視の対象とされてきたこれらの階層の人間があたかも新世紀のキープレイヤーであるかのようなイメージを、彼ら自身に植え付けるに至ってしまった。そもそもが言うまでもなくオタクなるものの軽佻浮薄な一連の持ち上げ方は、マスマーケティングが悉く失敗しつつある現状において、何でもかんでもそれこそブタのエサのような作品(それがどのようなものかはここでは敢えては言わない)やグッズですら無批判に無闇矢鱈と買い漁る連中をフィーバーのように焚き付けてその予備軍までも動員してとりあえずガンガン買い物させて収益伸ばしましょうよという頭の徹底的に腐った、多変量解析とかクラスター分析が大好きな広告屋とマーケティング屋の浅知恵に過ぎないのは昼寝好きの小生でも分かる話であった。だがそれに輪を掛けて商品化された感情コントローラーによって麻薬中毒患者のように萌え萌えとニヤつくことしかできなくなった層は、当然感情の形成過程と人格それ自体がこれら広告屋とマーケティング屋のこさえた紛い物のがらくたによって成り立っているため、それを甘美に認めてくれる(ように思われる)プロパガンダにいとも簡単に引っかかり、球体の自己意識をさらにまん丸にさせていく。この地平ではどこまで行っても出てくるのは「自分」であり、紙袋の中にはキンキン声の裸の美少女が「お兄ちゃん」と呼びかけつつ彼らを待っているという寸法なのだ。

まあいいだろう。彼らから徹底的に搾り取れるうちは、勝手に搾り取ればいい。Made in Chinaのフィギュアをウヘラウヘラして買い求めるのは私ではない。だが、広告屋諸君、流行はいつか終わるものであることは知悉しているはずだ。その時、秋葉原というこの街に取り残されるであろう彼らとその害悪、そしてそれらが引き起こす荒廃の光景を、想像したことがあるのだろうか。


すんげー陳腐  (2006.08.08)

「第九」の終楽章をバックに、大地が真っ二つに裂けて人類が滅亡する夢を見た。

寝ていたのはほんの数分のことだったので、恐ろしいと言えば恐ろしい。


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