我ら、アルカディアにもありき
―― 幻視された共同体としての『THE iDOLM@STER』を巡って ――





THE iDOLM@STERというコンテンツがある。
  最初に登場したのはアーケード用の通信筐体向けのゲームで、2005年のことだった。この種のゲームは台詞や歌の収録に膨大な時間がかかるので、プロジェクトそのものが動き始めたのはそれよりもさらにずっと前だと考えていいだろう。

  そう考えると、大変に息の長いコンテンツである。通常ゲームとしての『THE iDOLM@STER』は広義にはギャルゲーと呼ばれるジャンルに属するが、はやり廃りの激しいこの世界にあって、マーケティングミスによって一時期人気が落ち込んだことはあったにせよ、ほぼ右肩上がりに人気を伸ばしてきたというのは異例と言っていいと思う。そして同作品は昨年には原作をベースにしたアニメ化が実現したことでさらに人気上昇に拍車がかかったこと、そして6月には横浜アリーナで二日間のライブを満員御礼(しかも全国各地でのLV付き)で終えたということは、これをお読みの方であればほとんどご存じのことであろう。今回の「独り言」は、この『THE iDOLM@STER』について少しばかり語ってみようと思う。

  とは言っても、『THE iDOLM@STER』について語ろうとする時、私は何を出発点にしていいのか、正直なところ戸惑う。それはこのコンテンツがゲームをコアとしつつも極めて多様なメディア展開をしているからでもあるが、やはりこの7年(あるいは10年)という時間がもたらした記憶の積み重ねが、単一のアスペクトという態度を困難にさせるからではないだろうか。
  勿論、この記憶の積み重ねは、私だけのものでは全くない。現場で携わってきた制作サイドの人々の思い、コリオ素材の提供も当初はないままイベントでの振り付けを考え、各種番組では恥も外聞もかなぐり捨てて『THE iDOLM@STER』というコンテンツを維持しようとしてきた声優陣、そして数多くの現実的困難にも関わらずこのコンテンツに愛(と時間とお金)を注いできた数え切れないほどの「プロデューサー」達の時間や記憶、そして思いがそこに明らかに存在しているからこそ、私はこのコンテンツについて、適切と言いうる視座を持っての態度の構成について、著しい困難を感じずにはいられないのだ。

  けれども恐らくは、この困難さを生んでいるこれらの時間と記憶と思いの重層性こそが、この地点において『THE iDOLM@STER』がようやく成し遂げた境涯を構成する最大の核心なのではないかと、私は思う。即ち、単なる虚構として出発した『THE iDOLM@STER』は、そこに人々の思いが託されることによって、しかもそれが一時的な熱狂で完結するものではなく、いくつかの困難な時期も含んだそれなりに長い時間の蓄積という試練を経ることで、現実の桎梏を突破する場としての力を、共通のヴィジョンとして獲得するに到ったのだ。

  では、突破するべき対象としての現実の桎梏とは何か。それは、現実の全てを支えるもの、あるいはグラムシ的な用語法を援用するならば、ヘゲモニーという現実の一切の価値、そしてそれを事実という形で裏打ちする出来事の一切であると言っていいだろう。即ち、我々個人個人について、そのようなヴィジョンを単なる虚構であると言下に否定し、また『THE iDOLM@STER』が成し遂げてきた物語がただのフィクションであると示唆するような、現実的な諸力の一切について、かの時間と記憶の積み重ねはかくのごとき倨傲と居直りとは別の世界、そして別の未来を提示することによって、新たな共同体の構築という次元をついには具現化したのである。

  それは、即ち何を意味するのか。それは、現実という語において我々が断念してきたものの一切を、少なくとも人倫という水準では断念してきたものの一切を、再度その可能性においてリアリティあるものとして『THE iDOLM@STER』が我々に示し得たということではないかと思う。人間は成長しうるのだということ、個人は即ち個人として尊厳されなければならないということ、そしてその基盤には連帯が必要だし、それは成し遂げられるのだということ、という理想について、『THE iDOLM@STER』は単にゲームシステムや物語において1つのお題目として提示したのではない。むしろ、それを巡って成長してきた全てが、このような理想がリアリティを獲得しうるものであるということを、作り手、担い手、そして受け手の全ての人々が何らかの仕方で共有し、維持構築に参画してきたのである。

  『THE iDOLM@STER』がアニメーション化の過程において、多くのスタッフや関係者から単なる経済的関係を超えた愛情を注がれたコンテンツであるとの指摘が数多くなされてきたのは、恐らくそこに理由がある。即ち、『THE iDOLM@STER』は、単に物語内に完結することなく、全ての人をいわば巻き込むことで上記の理想を、経験的事実として全ての人に再度贈り戻してくれる、極めて互酬的な存在に成長してきたのである。これは単にその規模の拡大にファンのコミュニティが貢献したということではない。コンテンツそのものの成長という過程に、それに関わる全ての人の記憶と行動が折り込まれ、それが結果として質的な成長をも同時に成し遂げた点に、『THE iDOLM@STER』の特異性がある。そして、アニメーション版の『THE iDOLM@STER』は、マスメディアとしての特性を生かすことで、そして「作り手、担い手、そして受け手の全ての人々が」積み重ねてきたこのコンテンツの成長の記憶を再度本作品の各ヒロイン等の成長、尊厳、連帯の物語に表象させ直すことで、この「事実」がまさしく全ての人にとって共有されるべき場であることを提示したのである。

  この意味において、アニメ版本作品で語られる各ヒロインの成長の物語は、『THE iDOLM@STER』というコンテンツの成長の物語であると同時に、これに関わってきた全ての人々が時には臓腑を刺し貫くような逆境に耐えながら積み重ねてきた想いと成長の物語であり、そして私たち自身が傷だらけになりながら、現実という覇権に往々にして屈従を強いられつつも成し遂げてきた成長、尊厳、連帯の理念の具現化という物語でもある。私たちは「副業」(本作品ではファンの現実での職業は「副業」と称される)に代表される社会的属性が異なっていたとしても、この作品を通じてこれらの理念を共有する限り、この場に参与し、その世界の絶えざる構築と成長に携わっていることを意味するのである。だからこそ、アニメ版の本作品においては、声優陣が過去にラジオ番組でやらかしたネタや、ニコニコ動画などのユーザーコミュニティにおいて定着した素材等が明示的・黙示的を問わず豊富に使用されている。例えば、第21話の如月千早のアカペラからのオケインの場面は桃邪気P(故人)の有名なMAD(http://www.nicovideo.jp/watch/sm1036128)を連想させるし、「包装事故」や「無尽合体キサラギ」など、第15話のワルノリしまくりな場面はその代表例である。

  これらが意味するのは、『THE iDOLM@STER』がコンテンツの内部で自足的に完結するものではなく、何度も繰り返すようにそれに関わる全ての人々にとって相互的な関係を意味する、しかも実際の現実生活においては、その根底において希求されつつも経済の覇権において殆ど挫滅させられている諸理念にリアルを与えてくれる、即ち少なくともそれは顕現する可能性が我々の関わりによっては存在しうるということを示唆してくれる場であるということだ。もっと突っ込んだ言い方を、語弊を全く恐れずに言うならば、『THE iDOLM@STER』は今やコンテンツというパッケージ化されたマニア向け産業の対象ではなく、既に希望としての可能性を示す一つの共同体に、しかもその存立という現実態においては明確なレゾン・デタを備えた共同体になっているのである。ライブ会場やイベント会場などで全くの見ず知らずのプロデューサー・プロデュンヌ諸氏があたかも旧知の仲であるかのように言葉を交わし、(イベント用)名刺を交換し、そしてライブを盛り上げ、あるいはオフ会などで酒を酌み交わすのは、彼ら、そして私たちがこの理念を「今、ここ」に出来した、具体性のあるものとして共有しているからに他ならない。ここでは、『THE iDOLM@STER』が理念として懐胎しているいくつかの理想が、それぞれの人々に共有される1つのテーゼとして存在しているのであり、これを共有することというシンプルな動機が明示黙示とを問わず我々には理解されているからこそ、この共同体は、ある種の脆さを抱えることは前提にしつつも、新人プロデューサー・プロデュンヌを迎え入れることの出来る開かれたものであり続けているのだ。

  だが、そこでこれらの理念が何故共有されるのか、あるいは希求されるのか。それはそれぞれのヒロインに対するファン的な動機付けだけでは、無論ない。根底には、私たち自身が彼女らに仮託してその実現を夢見る、人格主義的関係性に対する願望があるのだと、私は思う。我々は、『THE iDOLM@STER』のヒロイン達が、そしてそれに関わる人たちが、さらには『THE iDOLM@STER』という共同体が成長し、理念を具現化させていくというこの物語を通じて、例えばリオタールのいうところの「大きな物語」が完全に破綻し、我々の人間としての希望が挫滅させられつつあるこの世界において、その尊厳、忘れ去られてしまっていたはずの尊厳を回復し、非-場所であったユートピアとその理想が、圧倒的な不可能性のゆえにその可能性を我々に再度確信させてくれる物語とその虚構を超えたリアリティを希求していたのだ。

  そう、換言するならば、程度の差は無論あるとしても、一人の人間として、私たちは、この閉塞した世界においても成長できると信じたいし、個人としてのふさわしい尊厳を得たいし、何よりも連帯することでそれらを実現したいのだ。現実がどんなに困難であろうと、未来がどんなに絶望的な閉塞感に塗り固められていたとしても、そして過去がどんなに悲しく忌まわしいものであったとしても、私たちは、連帯し、互いを互いとして尊重するよき友人でありたいし、そしてそのような共同性があってこそ私たちは過去を乗り越え、現在を共有し、未来を形作っていくことがようやく可能になるのだ。だからこそ、まさにこの願いゆえに、『THE iDOLM@STER』の成長は単なる経済規模の拡大という意味を超えて、願いが理念を受肉化させるという質的な成長をも意味したのだし、この人格主義的関係性に立脚した連帯という意味において、アニメ版『THE iDOLM@STER』の終盤、センターポジションを務める天海春香に託されたのがこの理念の受肉化であったことは、決して彼女自身に対する個別的な意味づけに終始するものではない。むしろ、『THE iDOLM@STER』という共同体において、最も核となる理念、即ち連帯の理念が現実の競争至上主義的な市場の論理、経済の覇権の下ではどれほど困難であるのかを、再度私たちの日常的現実を暗示する形で、そしてそれをどのように超克、あるいは穏やかな言い方を採用するのであれば、そのような世界においていかにして希望を抱いていくのかというあり方が、一人のヒロインの苦悶に仮託する形で描かれていたのだ。この意味においても、彼女が最後に笑顔で、「みんなといっしょに」という幾分平易化された形で私たちに提示するこの理念は、本作品を通じて私たちが最も希求し、『THE iDOLM@STER』を通じて現実化の契機と可能性を垣間見ていた理念の1つでもあったのではないだろうか。往々にしてそれを鼻でせせら笑い、世の中はそんなに甘いものではないと断じることが「大人」の証明であるかのように解されてしまう、この悲しき虹のような「みんなといっしょに」という境涯の。

  そしてあの日、6月23/24日、この理念は極めて美しい、美しいとしか形容しようのない、1つのありうべき現実の形姿をまとったと私は思う。それは我々の短くも長い人生においては、エフェメラのごとき一瞬の奇跡でしかなかったかもしれない。しかし、『THE iDOLM@STER』に関わる全ての人々が――あの場所に関わることがなくなってしまった人々も含めて――積み重ねてきた時間や想い、そして『THE iDOLM@STER』自体がそのヒロイン達を含めて遂げてきた成長という事実が、1つの場所に集まった一日当たり1万超の人々の集合を単なる孤立した個人の集合ではなく、1つの共同体を構成する、それぞれがそれぞれについて欠くべからざる存在者として関わり合う共同体という水準へと飛翔させたのだし、我々はこの共同体こそが虚構と現実という腐敗した二項対立から遥かに遠いところに我々の希望を運んでくれる、紛れもなく美しい世界だということを幻視したのだ。我々はあの場所に関わるにおいて、単なる孤独な群衆の一アトムとして、単なる定量的な存在者の集合として存在したのではない。『THE iDOLM@STER』が動かすことの出来ないリアリティと共に理念として我々に提示した共同性、連帯という理想を共同体として、かつそれぞれの内的事実として具現化し、共有した者達として、あの場所に関わり、存在し、涙を流したのだ。「私」達は『THE iDOLM@STER』を通じ、1つの理想とその具現という過程と事実を共有する「私たち」になり得ることが出来たのだし、それは事実成し遂げられたのだ。あの日、私たちは、理想が現臨することを、知り、分かち合ったのだ。

  けれども、時間は残酷にも、全てを連れ去っていくものだ。かくしていずれかの未来、我々の元には捨てることも忘れることも出来ない寂しさだけが残ることになるだろう。がらんどうのステージには最早誰もおらず、立錐の余地もなく埋め尽くされたアリーナも廃墟のように眠りにつく時がいつか来るだろう。我々はその中で夢を見ることも出来ず、静かに時の中で悲しみの目覚めを繰り返すだけになるだろう。だが、その悪疫と滅びと喪の時にあって、例えその中で我々の生、少なくとも私自身の生が音を立てることもなく潰えるとしても、『THE iDOLM@STER』に垣間見たこの希望を胸に、私はこう呟きたいと思う。



  「我ら、アルカディアにもありき」(Et in Arcadia nos)、と。




「独り言」一覧へ