2009年03月
モーツァルトはお好き?  (2009.03.29)


先日、E-E. Schmitt "Ma vie avec Mozart"(『モーツァルトと我が人生』)を読み終えた。この前の訪仏で本来訪ねる予定だった知人から貰ったものだ。本作品は主人公からモーツァルトに宛てて書かれた「手紙」の集成によるもので、読み手はモーツァルトの諸作品の演奏が収められた付録のCDを聴きつつ、手紙を読み進めていくことになる。『フィガロの結婚』のフランス語版スクリプトの作成の話が出てくることや、リヨンのサン・ジャン教会の話題が出てくるので、主人公=シュミットその人、と見なしてもいいかと思う。

手紙を通じて述べられる彼のモーツァルトに関する経験には、いくつかの恩寵的な場面が現れる。例えば、死の観念に取り憑かれた「私」が『フィガロ』のアリア「あの美しい想い出はどこに」を聴いて法悦の涙を滂沱と流す場面、ピアノ協奏曲第21番第2楽章のアンダンテを聴いて神の平安に満ちた世界を幻視する場面、そして『魔笛』のタミーノのアリアから音楽の形而上学的な意味を見出す場面、等。

私自身はいくつかの理由から一切の信仰を拒否しているので、本書で時折姿を見せる主観神学のようなキリスト教的感情を持つことはないという点で、シュミットその人の音楽的経験を共有(partager)することはできないかもしれない。しかし、例えばKv.467の緩徐楽章のF-durの乾いた、けれども健やかな美しさは、この世界には美しいと言い切るに値するものがあるということを教えてくれるように思う。また、下手の横好きでKv.216の第1・第2楽章を弾く時に心に満ちる驚嘆は、何らかの形で彼の作品を弾く機会に恵まれた人なら分かってもらえるものだ。何故このような完全なものを一人の人間が作りうるのか、形而下の美しさを捨象してもなお残るこの完璧な構成はどのような思考によって可能となるのか、といった恐怖に似た感情を彼あるいはその他の音楽を通じて抱いたことがないのだとしたら、それは何か大変に損なことをしていると私は思う。


先日の旅行では件の知人には残念ながら会うことはできなかった。それは彼が病を得ていたからなのだが、昨年春の手紙以来私の無聊を見抜いていた炯眼恐るべき彼は、本書を以て私へ「蠅取り壺からの出口」を示唆したのだろう。曰く、醜悪な観念に襲われ、囚われることは苦しみのみ多いこの地上の生において仕方のないことなのかもしれないが、美しいことの偉大さ(magnitudo)を知るものは、あるいは知るならば、醜悪なことの桎梏からは我々の魂は容易に飛翔しうるのではないか、それらのせいで苦しむには我々の人生は余りにも短い、ということを彼は例の皮肉混じりの調子で教えてくれているのではないかと思うのだ。


ストレッチャーに乗る  (2009.03.26)


先日、職場で倒れたらしい。「らしい」と書いたのは倒れた時の記憶が全くないからだ。エクセル相手に仕事をガタガタとやっていたところ、スイッチを切るように意識がなくなり、気がついたら救急車に乗せられて救命士にひっぱたかれつつ意識レベルを確認されていた模様。そのあとまた意識がなくなり、今度は血液検査やらCTスキャンやら色々やられて鎮静剤の点滴を打たれてストレッチャーに載せられたまま手当を受けていたっぽい。
とりあえずそのまま死亡という最悪――だと思うことにとりあえずはしよう――は避けられたものの、意識が混濁していたせいでそれぞれの光景の時系列あるいは論理的なつながりが全くないのが非常に不愉快だ。また、倒れた時にあちこち捻ったりぶつけたりしたせいで今でも体のあちこちが痛い。後日別の病院で受けている色々な精密検査も結構な費用がかかる(勤務内容に起因する事故ではないので労災はおりない)ので、酒代をケチらねばと思っていたのにこの前WBCの祝杯を挙げて散財したので尚更貧乏に拍車がかかる。

出先や職場で倒れた経験はこれは初めてではなく、過去にも何度か似たような経験をしている。失禁を伴うわけではないのが数少ない救いだが、忙しい状態が何週間、あるいは数ヶ月も続く場合の身体への恐怖は最終的にはチームの仲間に対する劣等感として帰結する。

正直、このような状態は苦痛以外の何物でもない。このような契機を表面化せずとも抱えている人は少なくないであろう事は統計上の事実としては理解しているつもりだ。だが、それが自分の身体的事実として意識に敵対的なものとして現れる事実に直面することを強いられるならば、「誰だって大なり小なりそんなものだ」という慰めは無理解の押し付けのようにしか私には思えない。つまりは問題の方向はくだらない慰めを消費することではなく、その敵対的性質にふさわしい居場所を与えてやることなのだとは思う。けれども、そこから派生してしまっている劣等意識や挫折感をどう救い出すのか、残念ながら今の私はそれを見いだせずにいる。


キャリブレーションへの麗しき道のり  (2009.03.22)


余り、というかほとんど知られていないことだが、実はディスプレイに表示される色は機種ごとはもちろん、廉価ディスプレイでは個体ごとに表示される色が微妙に異なる。そのため、それなりの正確さが求められる環境ではカラーキャリブレーションなる作業を行ってディスプレイごとの表示傾向の個体差を修正する作業が必要になる。これを称してカラーキャリブレーションと言うのだが、機械のような正確な目を持っている人間はそうそういるわけではないので、基本的にはカラーキャリブレーターという機械を使う。以前から手頃なキャリブレーターが欲しいなあとは考えていたのだが、ようやくAdobe RGB対応ディスプレイを購入したこともあり、予想外の支出が一段落した先日アマゾンさんに注文と相成った。MultiSync LCD2690WUXiに必須のハードウェアキャリブレーションソフトのSpectraNaviは非対応環境ゆえ使えなかった某先生が譲って下さるとのことで、安く上がった。

で、本日両方を落手したので早速キャリブレーションを行ってみた。いやー、SpectraNaviの使い方全然分からないですよこれじゃ。東芝のREGZAとかCOWONのiAudioシリーズとかの理解不能なマニュアルを乗り越えてきた私もかなり手こずりました。そりゃキャリブレーションなんて大昔に某研究所のサイトを作った時に(カラーユニバーサルデザインのため)モナコカラーを悪戦苦闘して使って以来なので、知識がない私が悪いと言えば悪いのだが。


とりあえず目標輝度50カンデラというかなり厳しめの要求に沿ってキャリブレーションしたのが上の通り。γカーブは暗所コントラストで多少ふらつきが見られますが、トラッキングのΔE値のアベレージは0.60と極めて優秀。D300で撮影した写真も色域がグッと安定した感があり、最近の撮像素子の優秀さを実感させられる。

今回購入したキャリブレーターはSpectraNaviも合わせると普通は5万円以上する代物であり、通常価格帯のコンパクトデジタルカメラとかが買えてしまう値段なのでその点のコストパフォーマンスは単なる趣味で手を出すには厳しい世界なのだが、その価値はあるのでデジタル一眼レフを持っている人は広色域ディスプレイと併せて購入を検討してもいいと思う。


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