2006年04月
気が滅入るな  (2006.04.30)

諸般の事情でここしばらく精神状態が余り良くないのはこの日記を読んでいる方には一目瞭然だとは思うが、こういう状態の時にどうしようもなく水準の低いものや陳腐な憎悪に満ちたものを目にすると余計に疲れてしまう。

何も悩みのない瞬間が欲しい。もういい加減色々疲れた。


えーと  (2006.04.27)

今日はサントリーホールに読響の定演を聴きに行った。バルシャイ指揮によるマーラーの10番(バルシャイ補筆番)。

うーん、なんと言ったらいいんだろうか。クック版とは明らかに違う曲だと思った方が良かったようだ。シロフォンとかがスケルツォ楽章で鳴っていてうっかりするとショスタコーヴィチの4番みたいな喧噪感が独特だったと思う。でも終楽章のフルートのソロはクック版のような静謐感全開の構成の方が、マーラーが完成させないままこの世に置いていったスケッチから漂う哀惜がより明確に伝わるように思う。

弦は第1楽章のアダージョではアンサンブルが崩壊寸前でとてもじゃないがこりゃ危ないぞと思っていたらとりあえず第3楽章のプルガトリオで一応持ち直し、フィナーレではある程度そつなくまとめてくれていた。問題なのは管楽器群で、まあ何つーか補筆した本人が振っているのにそりゃないだろというイージーミスが少々目立ったですよ。グランカッサの強さはザードロばりとは言わないまでももう少しパワフルな叩き方の方が「巨人」を思い起こさせる印象が際だったのではないだろうか。それとも座っている場所が悪かったのか。

まあ、一言で言えばパユはやっぱり滅茶苦茶うまいし、BPOは凄いオケだということです。

一応バルシャイ補筆版のCDも買ってきたので、聞き込んで後日詳しく書けたらと思います。


はわわわわわわわわわ  (2006.04.24)

元麻布春男の週刊PCホットライン(4/24付)

うわー、ひどい。ここまでボロボロな記事を見たのは久しぶりだ。

至る所でアレゲっぷりを露呈しているので突っ込みを入れる気すら失せるのだが、敢えていくつか指摘すると、

長期的に見ればCCDサイズは高画素化を図りつつ、少しづつ小さくなっていくことがトレンドとなっている。
あわわわわわわ……
一眼レフとコンパクトデジカメのCCDの話をゴッチャにしてませんか?
コンパクトデジカメでも1/1.8型8MピクセルCCDはC/N比が下がってノイズ塗れになってパープルフリンジが出てとてもじゃないが優秀なレンズを使わないとまともな絵にならない(実際このCCDを使っていて画質の評判がいいのはPowerShotS80とGR DIGITAL位のものだ:しかも後者は単焦点)ということでレンズ性能がかなりシビアな最近の手ブレ補正付きコンパクトデジカメでは2/3型6MピクセルCCDなんかが使われることが多いというのに、何考えてんだ?
つかこの人、CCDの基本原理であるところの光電効果が理解できていないのじゃなかろうか。

 その一方で、カメラ側(特にその利用者側)には、常にフルサイズ待望論がある。その根拠となっているのは、35mmフィルム用の一眼レフカメラ用のレンズ資産の活用ということだろう。

ばかやろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
原理的にはCCDあるいはCMOSの受光面積が大きければ大きいほどダイナミックレンジが広くなって結果としてノイズが少なくかつ解像感のあるしかも色が広々とした高画質な出力を得られるだろうがバカチン!でも645判とかハッセルの66判みたいな巨大な機械になるとイメージサークルがでかくなってレンズは高騰するし被写界深度は限りなく浅くなって素人には金額的にも技術的にも手が出せないほどの代物になるのだが、基本的にはフルサイズ撮像素子待望論があるのは、よりクオリティの高い画像を得たいというただそれだけの欲求があるからに過ぎない。そもそも現在デジタル一眼レフを所有しているユーザーでレンズ資産ともいうべきものを抱えている人間がどれだけいるのだ?

しかしいわゆるPC系ライターにもこんな人がいるんですね。びっくり。


ヘタレかもしれないけれど  (2006.04.22)


何を今更退嬰的な、と言われてしまうかもしれませんが、電車に乗ってどこか旅行に行ったりする時、私は時々ブルッフのスコットランド幻想曲(ハイフェッツ盤)をBGMにしたりします。特に自然の豊かな所へ半ば逃避するように旅に出たりする時は、懐のiAudioには大体この曲を入れてから出かけます。

私が特に好きなのは第一楽章で、「年老いたロブ・モリス (Auld Rob Morris)」の旋律を独奏ヴァイオリンがSulGで朗々と歌い上げる箇所は、聴くだけでスコットランドの美しい山河や森(行ったことないけど)が網膜に浮かび上がります。勿論その後の高音部も彼の地の冷たくも湿潤な風が肌を切るように感じ、まさに鳥肌を追体験せずにはいられないわけです。

そんなメロディを聴きながら、車窓からの風景を眺めていると、浄福感の余り涙腺が緩みそうになったりすることも多々あるわけですが、それ故に旅先の山紫水明は私にとってこの曲と結構根深く結びついていたりもします。美しい風景に出会うことは特にこんな地に住んでいては多くはないのだけれども、この曲が思い出せさてくれる多くの印象は、そういった意味で、厭世的ではありつつもある種の安らぎに満ちた郷愁を掻き立てずにはおかないわけです。


またひとつ  (2006.04.21)

マミヤ、光学機器事業から撤退

去年の秋にはブロニカが消滅したし、中判カメラはもう絶滅寸前なのね……
PIE2006ではマミヤは一応ZDを展示していたけど、写真館も壊滅的な状況の昨今、130万円じゃそりゃ売れんわな……

で、マミヤといえば昔のオリムピックな訳で、ガキにも手の届く値段でリールやら釣り竿やら色々出していたのだけれど、こちらも既に撤退していた模様。

何だかやりきれない。


黄砂対策の金がないので助けてください

空母と次世代原潜作んのとスホーイをドカドカ買うのを止めれば対策費なんか簡単に捻出できると思うのだが。


足が痛い  (2006.04.16)

スポーツクラブにてトレーニングが続く。平泳ぎで全然前に進めないんですけどこれはどういう事ですか(;´Д`)(答:フォームがまだできていない)

『エセー』5巻。素朴派の説教が時折顔を出すこともあるが、この巻での恋愛と性を巡る話は(この本が)16世紀に書かれたことを考えればビックリの内容である。多分に差別的な考え方もないではないが、単なる閨房学に陥らず、また性の乱れを嘆く御仁が逃げ込みがちな無茶苦茶な禁欲主義を礼賛するでもなくおおっぴらに性愛を論じるモンテーニュのおやじっぷりは立派である。


精神のドラゴンボール  (2006.04.09)

存在するのは個物だけだし、部分は全体に先行するわけだが、時として我々は目の前の現実こそが統計的な事実に先行すると考えがちだ。例えば、日本における最終学歴の水準と出自の所得水準との間には明確な強い相関が存在するし、米国では人種と所得及び学歴に関して殆ど累進的とも言うべき相関が見られるが、判断主体が身を置いている環境によっては当然の如く例外だらけということが発生しうる。この場合は(統計が手法的にも標本数の上からも問題がないと仮定するなら)どっちが正しいとかそういうことは本質的な問題ではなくて、与件をどう捉えるのかという判断主体の態度が問題になるのは論じるまでもない話だ。少なくとも、このようなケースでは、自分の認識した与件がそれ自体として正しいのかの検証を抜きにした単なる主観の印象の羅列はそれ自体としては無価値の域を出ない。
それでも「全体がどうであろうが、僕の周りではこうだった」と述べ立てることは恐らくは本人にはそれなりの価値があって、余りにも悲惨なことであることが想像するに難くないケースでは同情もいくらかは恵んで貰えるだろうとは思う。
そんな訳なので同情して欲しい場合はなるべく悲惨な愚痴を書くのが常套手段ではあるのだが、某大学のミニコミ誌が学費値上げ問題に関して「貧乏自慢」としてそのやり方に疑義を呈したことからも分かる通り、余り積極的に推奨されるやり方ではないと思う。公共広告機構のCM(栗山千明が出ているヤツは個人的にはツボにはまった笑)ではないのだから、過度に貧乏自慢や性的困窮の独白を繰り返すことは却ってその人自体の経済的能力や人間的魅力に対する疑義を浮上させてしまう。「給料日目前で財布に500円しかなかったので今日の昼ご飯はインスタントラーメン」程度では笑い話のネタにもなろうが、不惑の山を越えた辺りの人間にアパートの隣室の人間の悪口を聞かされたりすると、当方としては嘆息する他ない。いい年こいて愚痴を必要以上にこぼすのはみっともない。

まあそんなことを言ってもこの日記自体が限りなく愚痴に近いことをダラダラ書いていたりもするので、「まず罪なき者から石を投げよ」となるわけですが。


塵から生まれた  (2006.04.05)

アマゾンの割引チケットが溜まっていたので、マーラー:交響曲第2番「復活」(バーンスタイン指揮)を落手して聴く。今までは「復活」と言えばワルターやクレンペラーの比較的テンポの速い演奏に慣れていたので、第一楽章のコントラバスの旋律には過剰な重々しさを拭いきれないでいたのだが、終楽章の復活の賛歌は素晴らしいの一言に尽きる。特に、

Sterben werd ich, um zu leben!
    (私は死ぬだろう、再び生きんが為に!)
Auferstehn, ja auferstehn wirst du,
    (甦るのだ、そう、汝は甦るのだ)
mein Herz, in einem Nu!
    (我が魂よ、今こそ直ちに!)
Was du geschlagen,
zu Gott wird es dich tragen!
    (汝の打ち破りしものが、汝を神の御許へと運んでゆくだろう!)

のくだりは鳥肌が立つ。死すべき魂とその復活を祝福するカリヨン。大空へと、或いは無限の歓喜へと死すらを遙かに越えて飛翔する魂。この録音はライブ盤だそうなのだが、こんな壮絶な演奏を生で聴いたら失神するかもしれない。でも一度聴いてみたかったな。

ハ短調の交響曲といえばベートーヴェンの5番やブラームスの1番とかショスタコーヴィチの4番もハ短調だ。主題に生の苦悩や懊悩、あるいは不条理に対する絶望や憂愁と、その救済を意識した(と私は思う)これらの作品群がいずれもハ短調であるのは興味深い。さすがにショスタコは救済とはほど遠いエンドレスな悩みに沈潜していくが。


案の定飲んだ  (2006.04.01)


そんなわけで、やはり金曜日は花見だったわけです。
飲み屋はどこも満員で、まともな店を探すのに少しく苦労したり。

で、続きですが、社会の醜悪な面をさも自分が世知に長けているかのように説いて回る自称「オトナ」な人間に、最近は少しからず私は辟易しています。陰惨な事態、或いは忌むべき様々の事柄を語るのは、それ自体が目的となっては――より正確に言えば、自分が物知りであることを、とりあえず年齢相当の経験は積んでいるのだということを人様に分かって貰いたいがためにそのようなことばかり独白して回るのは、それ自体として極めて哀れなことではないかと感じるわけです。

幸福なことばかり語れ、理想論ばかり語れ、とは思いません。それは却ってその人の精神の貧困を示すだけでしょう。内実なき理想、自省なき幸福は軽佻浮薄の域を全く出ないからです。そんなことはそれこそショーペンハウアーの言うように酔っぱらっていれば可能なことです。ですが、それを戒める事で形式的な優位に立とうというある種の怨恨が垣間見える社会露悪的な物言いは、同様に内面性の欠如を露呈してしまうように私には思われます。真の不幸、或いは悲惨はそのような事しか語ることができないその人の精神風景にあることがひしひしと感じられるからです。語られる内容に先行して、この人は日頃どのような世界に身を置いていて、どのような人間とどのような形で接しているのだろう(或いは接することができていないのだろう)と想像するとき、私はそれらの言説に抜きがたく存在する悪意や敵意以前の悲しさを刺すような痛みと共に想像せずにはいられません。

だから、蓮の寓話の如く、そこには同時に人間の精神の可能性、或いは凄味といったものに対する眼差しが常に存在していなければならないと思うのです。人間、或いは社会の現状は極めて悲惨なものであることには相違ありません。デモに参加するだけで小児左翼の烙印を押したがるような救いがたい人々が少なからず存在するこの社会に対して私自身吐き気を感じることは殆ど毎日のようにあります。ですが、日々において、他方人間の精神或いは知性の偉大さや底知れぬ力強さを感じる機会を持つごとに、私はこの二つの乖離こそがむしろ精神の意義なのではないのかとも考えています。


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