2009年05月
西麻布「Trattoria Tornavento」に行ってきた  (2009.05.30)

半年がかりの比較的規模の大きいプロジェクトがリリースしたので、金曜夜は打ち上げで西麻布の「Trattoria Tornavento」(http://www.tornavento.jp/)に4人で行ってきた。部門飲み会予算では当然こんな高級レストランに行けるはずもないので、社長直々の提案とポケットマネーによる奢りである。「こんだけ苦労したんだからあら皮(新橋にある日本一高いといわれるステーキ屋:普通に食すだけで酒代込みで一人10万はガチらしい)に連れてけ」と要請していたらこのクラスの店が実現の運びとなった。わーい。
事前情報によると、この店はピエモンテ州の料理が得意とのことなので、ピエモンテ料理中心のチョイスで行くことに。でもそんな事言われてもピエモンテの料理なんか知りません。BS日本テレビでやってる「小さな村の物語 イタリア」で見た料理とかを思い出しつつリストを拝読。ちなみに写真撮影は禁止らしいので今日は写真なしです。

いやー、西麻布なんか完全アウェーなんで全然地理が分かりませんでした。店に着くまでに見かけた天麩羅屋のメニューも英語だったりして、フランコフォン(嘘)の小生としては全く分かりません。さすがですねー(棒読み)。
ちなみにバブル期のイタメシブームを覚えている人にとっては、元「アクアパッツァ」があった場所と言えば分かりやすいかも。

で、左大臣が食したのは以下の通り。
Antipasto:ヴィテッロ・トンナート(仔牛の冷製ツナソース) 
Primo piatto:パニッシャのピエモンテ風(リゾット)
Secundo piatto:ハンガリー産鴨ムネ肉のロースト フォアグラ添え
Dolce:トローネ

酒は以下の通り。
Rocche di Manzoni Di Valention Brut Riserva '02
Marchesi Caruso (だったと思う)'05
Azelia Barolo San Rocco '04
あと、食後酒としてリモンチェッロ。

以下感想。
Antipasto:
早い話が塩漬けハムです。パルマとかの生ハムやサラミを愛して止まない左大臣としては少々物足りない感じもありましたが、一枚一枚は噛めば噛むほどコクが出てくるにも関わらず、全体として嫌味にならない塩味が良い。ただ、ツナソースはビネガーのせいなのか、人によっては甘味がかったるいかもしれない。但し、柑橘系の酸味を強くすると安っぽくなるので、この辺りは非常に難しいところだと思う。

Primo piatto:
リゾットですよ、リゾット(CV:音無小鳥)。2年前にフィレンツェの某レストランで「蜂蜜和えのリゾット・黒トリュフ添え」というリゾットを食べて感激して(但し値段は45ユーロもしやがった)以来、イタリア料理屋でまともなリゾットを食べる機会を求めていたのだが、この店のパニッシャは赤ワインベースで見た目の派手さこそないが、非常にしっかりした味付け(但しやや塩味が濃い)がうずら豆にしみこんでいて極めて美味。米も所謂アルデンテになっているので食感は良好。これはお勧めです。

Secundo piatto:
アイゴー、トカイワインを注文すべきだったか!(リストには載ってなかったけど)
……というのはさておくとして、ソースがビネガーの味を強く出している一方でフォアグラの風味をスポイルしていないのは高評価を与えていいと思う。鴨肉はナイフを入れるとすぐにほぐれるレベルまで軟らかくなっているので素晴らしい。ただ、鴨肉料理自体がメインのものとしてはかなりポピュラーなのものなので、リゾットのような感激が余り味わえないのは左大臣の食生活を直せということなのだろう。

Dolce:
トローネは以前イタリアに行ったときに帰りのフィウミチーノ空港のレストランで食した思い出深いデザート。出国検査を経た後だったので、「これでもうスリとか引ったくりとか心配しなくていいや」という安心がトローネの甘味を五臓六腑に浸潤させた幸福感は今でも忘れられない(スゲー後ろ向きな理由だ)。
で、この店のトローネはクリームが日本人向けにややあっさり仕立ててある。砂糖も控えめかな。所謂「できたてトローネ」なので固くなくて軟らかい。

個々の料理は非常に高い水準でまとまっており、文句なく人に勧められると思う。特に女性と二人っきりで行くべき店を探しておられる御仁には非常にいいと思う。ただ、大食いの左大臣としては敢えて言おう。「もっと食わせろ」。
それ以外は全く問題のない、素晴らしい店だったと思う。


麗しき論理崩壊のサンプル  (2009.05.26)


まずは、給与明細を他人にぶっちゃけたら……その先どうなる?(中村修治,Insight Now!)を読んで欲しい。余りの論理崩壊ぶりに何だかホノボノしてくる。ちなみに中村修治氏というのは青色LEDの開発者とは別人。

さて、この文章の基本的な論理構成を整理するとこういうことだ。
1. 竹原信一(文中では「市長」となっているが不信任決議案が再可決されたので今は「前市長」が正しい)氏が市長時代に阿久根市の職員の給与を公開した。

2. 2chで給与明細の晒しあいスレが2chで立ち、話題になった。

3. 格差社会化が進む中国でも「晒工資」という行為がネットで流行っている。

4. このように給与明細を見せ合うことは、社会の進化ではなく後退だ。また、このような行為は自分の給与を上げていく行為にはつながらない。

5. 全労協全国一般東京労働組合三多摩地域支部は給与明細をお互いに見せ合うことを推奨している。

6. 給与明細の見せ合いは社会主義である。

7. 明細の見せ合いに汲々とするようでは向上心や労働意欲が削がれるから変革の意欲なんか生まれない。

さて、ここで内容をまとめると、
A. 事実を述べているもの
1,2,3,5
B. 中村修二氏の主張
4,6,7

中村氏は給与明細の見せ合いがダメだと述べているので、4,6,7はいずれも給与明細を見せ合う事のトピックが並べられている2,3,5に対する批判と捉えられるべきだ。
従って、阿久根市の給与明細公開の話題は導入部にこそなるが、全文の約三割を割いてまで述べる内容のものではない。この点がこの文章のダメダメさの一つ。

ついで、残りの批判について整理すると、4及び7は同一の内容を繰り返している。即ち、「給与明細を見せ合う事は自分の給与を上げていくための意志涵養にはならないし、そうである以上格差社会の反復だ」ということだ。ここではその妥当性を検証しよう。

意味段落2,3で行われている給与明細の相互公開は、少なくとも中国のケースでは「時代の趨勢に適応することができた勝ち組と適応できなかった負け組が鮮明になった。この結果、両者の格差は急激に拡大し、“都市部と農村部”や“沿海部と内陸部”の所得格差にとどまらず、業種間でも給与格差が広がりつつある」(本文)ことに由来しているらしい。
つまり、ここで批判の対象になっているのは、経済開放によって生まれた格差社会そのものである。実際、それ以前は「従来の所得格差はそれほど大きなものではなく、給与明細を見なくとも、職業や職位、労働年数を考慮すれば、給与水準を推測することができた」(本文)そうだ。単なる給料の多寡が気になるなら、昔だって同様の行為があるはずであり、それが広範な拡がりを持つのは格差社会そのものが問題視されているからだ。
従って、給与晒しあいをする集団をA、中村氏をBとするならば相互の主張は以下のようになる。
A「格差社会化が進みすぎたせいで我々の給与はこんなにお互い違う」
B「それは格差社会の反復だ。だから間違いである」

古典論理学では、このような反駁のやり方を「循環論証」と言う。

で、さすがにこれがまずいと思ったのか、中村氏は労組の話を持ち出す。それが意味段落5で、それに対する反駁が6である。
基本的人権について中学校で一応勉強した方なら大体覚えているとは思うが、労働基準法において差別的取り扱いの禁止を定めている。能力や勤続年数による賃金の格差は適法と解釈されるが、同一の労働に関しては基本的には同一の賃金を支給するという原則がある。全労協のサイトに掲載されている話はこの原則が雇用者によって恣意的に反古あるいは運用されていないかをチェックすることを第一の目的にしている。
従って、全労協をA、中村氏をBとするならば相互の主張は以下のようになる。
A「同一労働同一賃金制度が適正に運用されているかどうか監視するために給与を晒し合いましょう」
B「それは社会主義だ。だから間違いである」

古典論理学では、このような反駁のやり方も「循環論証」と言う。

以上をまとめると、中村氏の論理構成はこうなる。
「給与の晒しあいは格差社会の反復だ。だから間違いである」→「なぜならば給与の晒しあいは社会主義だからだ」
論理的に等号で結ぶと、(格差社会の反復=社会主義)=「給与の晒しあい」となる。
社会主義あるいは共産主義は少なくともマルクスとエンゲルスの定義に従うのであれば格差社会を反復し続けることが社会主義にはならないはずだ。中村氏は『共産党宣言』とか『空想から科学へ』くらいは読んだのか?

個人的には、給与明細を見せ合うのは余り好きではない。だがそれは人を羨んだり逆にトラブルの元になる(実際そういうケースがあった)のが嫌だからに過ぎない。それでもやはり私は利益の公正な分配を要求するし、各種査定が極めて恣意的に運用されていると感じるのであれば、私は給与明細を同僚と見せ合う事を躊躇しない。以前ライブドアの堀江氏が「人の心はお金で買える」と言ったとか言わないとかでエラく叩かれたことがあったが、少なくとも労働という現場においては「心を金で買え」という堀江氏の主張は全く正しい。無論それは「公正さ」という理念に先導されての話だが。依怙贔屓は見るのもされるのも気持ちのいいものではない。

まあ、中村氏の論理構成力がアレだということは大変よく分かった。だが、そこまではよくある個人の能力の問題に過ぎない。
より真剣な問題として懸念されるべきは、このようなレベルの文章が「有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス 代表取締役」という彼の肩書きを伴って掲載された場合、それは彼の会社に対する評価も伴うのだということだ。
もちろん会社は個人そのものではない。しかし会社のトップがメディアに頻繁に露出するということは、その会社のカラーがそういうものなのだという認識をされるということを良かれ悪しかれ意味する。会長のムチャクチャな発言が元で某大手カメラメーカーが結構な経済的・社会的損失を被っている事などはその証左である。

従って、今回のこの記事を読んで中村氏の精神論至上主義的な論理破綻を見るに及び、彼が経営に携わる会社とはそういうものなのだと認識した人間も少なからずいるだろうと想像することは決して難しいことではない。筆者本人に対する評価の低下よりも、書き手が恐れるべきはむしろそういう損害ではないのだろうか。


根津「はん亭」に行ってきた  (2009.05.23)


金曜はキックオフも兼ねて、これからチームを組む皆さんと根津の「はん亭」(http://www.hantei.co.jp/)に行ってきた。来週は打ち上げにて恐らくイタリア料理を食することになるので、和食かつチーム全員の帰宅ルートから大きく逸脱しないエリアで……と探したところ該当したので予約。交通至便な新丸ビルの支店は予約が取れず本店に。

店は都の文化財にも指定されている古い家屋。明治時代に建てられたものだそうで、通りからかなり目立つ。駅からもそう遠くないので探す分にも非常に有難い。でも昔の建物なので階段が急なのには要注意。泥酔したら確実に転げ落ちます。そんなに酒の種類もないのでまずそういうことはないと思いますが。

串揚げ屋は基本的に揚げたものがどんどん出てくる方式だが、この店も同様。但し、座敷席なので3本揚がるごとにお膳に持ってきてくれる。個々の串はよく覚えていないので言及は避けるが、いずれも衣は薄くかつ軽く、油もギトギトしていない。個人的には所謂立ち飲み串揚げ屋の思いっきり身体に悪そうな油スメルも嫌いではないのだが、この辺りはさすが老舗というべきか。
印象に残っていたのは谷中生姜のしそ巻きと生麩。後者はゆず味噌が乗せてあり、ふわりとした食感とゆずの甘酸っぱさが絶妙。また、烏賊は不格好にならないように包丁を入れてある点がコストを感じさせます。

また、お通しはサーモンのマリネ、締めの冷製はジュンサイのジュレと微妙に洒落ている辺りが面白い。最後はごはん&赤出汁の味噌汁か岩海苔の茶漬けを選んで終わり。岩海苔大好きなんですが敢えてひねくれてご飯を選ぶ。ご飯は比較的固めに炊いてあり、漬物と合わせて揚げ物の油っぽさをスッキリさせてくれる。

で、お会計は一人当たりビールを1〜2本頼んで大体6〜8千円程度。サイトを見ると夜の予約は何だかんだと色々サーチャージを取るようだが、コストパフォーマンス自体は悪くないと思う。チームの皆様にも納得あるいは喜んでもらえたので、景気は悪いけれどプロジェクトの始まりと終わりにこういう飲み会はやはり必要だよね、と思った次第でした。


どこまでもつながり続けることの救いと恐怖  (2009.05.20)


先日、学部時代の知人がブログを開設していることを某氏から知らされた。某大の大学院に行った話までは人づてに聞いていたのだが、それ以降の音信についてはとんと知らなかったので、正直かなり驚いたというのが偽らざる所だろう。時の流れの速さ、そして歳月は人を変えるものだという当たり前の事実に思いを馳せる。そしてその間にすっかり堕落した自分の愚かさも。

このようなケースに限らず、猫も杓子もブログを書くという昨今の状況、及びMixi等のSNSのおかげで、古い友人や知人との再会を言祝ぐに至ったケースは結構ある。人付き合いがあまりない私ですらそうなのだから、知人友人の多い人々の場合なら尚更だろう。

それ自体は決して悪いことではないのだろうと思う。少なくとも私が暮らしている社会は人間の移動が激しい割には社会的紐帯が皆無に近いレベルで希薄なため、私個人も10年以上の付き合いがある知人は極めて少ない。これには関係を維持することの労力が極めて否定的な価値しかない場合はとっとと関係を謝絶してしまう私自身の非社交的な性格も多分に影響していることは承知しているが。つまらぬ付き合いをするなら本でも読むか勉強でもしてた方がマシだと考えてしまうのが余りよくない傾向であるのは理解しているつもりではあるのだが、これはもう宿痾のレベルに達していると言っていいと思う。

話がそれたが、長い間音信不通だった知人や友人と再会できるというのは楽しいものだし、そこまで行かなくてもブログ等で活躍している様子に触れることができるのは、それ自体としては興味深いことであろうと思う。

だが、このことは時として別の意味で恐怖でもあるように私は思う。今のドメインを取得してこのスタイルでの日記を掲載するようになってかなり経つが、このようにして特に閲覧制限なく日記を公開するということは、当然のことながら誰にでもこの日記が読めるということを意味する。即ち、「左大臣」が誰であるのか、その過去も含めて全て知っている人間も場合によってはこのサイトに辿り着くことができるということを意味している。現に、大昔某パソコン通信でフレームメーカーとして知られており、私も何回かフレームを起こした――その経緯については反省する要素が多々あるにはある――某氏(今でもとあるサイトの日記コーナーに生息しているらしい)は「はてなアンテナ」にてこのサイトを「イタい人」のカテゴリでウォッチしていた。私のドメインがhatena.ne.jpをリファラとするアクセスを全て遮断しているのにはそういう経緯があったりするのだが、過去を全て切り捨てた上でネット上で何かをものしようと試みるのであれば、それは即ち過去の亡霊に呪われる可能性を常に意識しなければならないという事でもあるように思う。この状況は一種のパノプティコンと言ってもいい。

オンライン上でのコミュニケーションフィールドはバーチャル/リアルのつまらない二項対立を越え、社会的なコミュニケーションの場としてすっかり定着したものになったが、ある人が過去を全て切り捨てた上で新しい生を開始しようと願うならば、実社会では犯罪でもない限りは物理的な距離によってある程度それを獲得することができる。だが距離上の障壁を基本的には否定してしまうネットの空間は、過去のアーカイブを人間の記憶に依存することなく引用しうる利便性と相俟って、みんなつながることで幸せになれるというありがちなキャッチコピーで瞞着できるようなものではないし、むしろ私はその監視的性格に恐れるべきではないかとすら思う。


ジオングじゃなくてジオタグ  (2009.05.12)


先日、ソニーのGPS-CS3B(http://www.sony.jp/gps/products/GPS-CS3K/)というGPSを購入して、散歩の時などに鞄にぶら下げて持ち歩いている。記録されたGPSデータはPCで取り込んでやると、地図上で軌跡が表示され、なかなか面白い。

本機の狙うところはそんなものではなく、GPS Image Trackerという添付のソフトを使えば、ほぼ同時刻に撮影されたデジカメの写真(基本JPEG)のExifにジオタグを埋め込んでくれる。そしてそれをGoogle Earthと照合するとどこで撮られた写真かが表示される。
無論、今までも旅先で大量に写真を撮った場合などは当然時間軸でもデータの整理は行っていたが、場所ベースでの撮影画像の整理はこれまでの整理方法では当然時間軸とは排他的な関係になるので、なかなか難しかった。それがジオタグの登場で複合的な整理・閲覧が可能になるというのは正直面白いし、カントがいうところの時間と空間という認識の基本形式に沿って写真も整理できるようになったのかと思うと感慨深い。

で、以下が写真に付加されたジオタグのサンプル。衛星をきちんと把捉していれば、高度情報や移動速度も記録されるのは(分かってはいたが)驚きである。
緯度(N/S) : N
緯度(数値) : 35゚ 1345.594 [DMS]
経度(E/W) : E
経度(数値) : 139゚ 822.278 [DMS]
高度基準 : 海抜基準
高度(数値) : 62208/10 メートル
GPS時間(UTC) : 03:20:51
測位につかった衛星情報 : 9,27,83,183,23,15,61,23,30,26,59,319,28,24,43,215,18,21,41,278,33,10,33,121,0,18,26,312,35,28,15,55,23,9,54,212,0
GPS受信機の状態 : A
GPSの測位方法 : 3
測位の信頼性 : 21/10
速度の単位 : K
速度(数値) : 7482/10
進行方向基準 : 真方位
進行方向(数値) : 254.30°
測地系 : WGS-84

ジオタグは写真のアーカイブ方法に新たな視座を導入してくれた反面、例えば自宅で撮った写真にうっかりジオタグを残したままネットにアップするとプライバシーのセルフ暴露になってしまうなどの問題はある。従って現状のままでジオタグの無条件的大量導入には諸手を挙げて大賛成というわけには行かないし、そもそもが対応ビューワーが余りにも少ない今の状況では単なるマニアのオモチャでしかないのだが、デジタルガジェットをいじっていて「未来」を感じてワクワクしたのは久しぶりであり、成熟化著しいデジタル家電の世界もまだまだ面白そうだと感じた次第でありました。


ショスタコーヴィチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を見た  (2009.05.03)


5/1(メーデーである!)は新国立劇場で上演されたショスタコーヴィチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(演出:リチャード・ジョーンズ / 指揮:ミハイル・シンケヴィチ / 東京交響楽団)を観に行った。都内某所で5時過ぎまでプレゼンを終えてからの移動だったので現地に到着したのは開演直前。

左大臣の席は購入時期が早かったこともあり、比較的前方の平土間席。それなりに良好な環境。

『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の詳しいあらすじ、及びそれを巡って起きた所謂「プラウダ批判」と交響曲第4番の初演中止、交響曲第5番の成立と改訂版『カテリーナ・イズマイロヴァ』の関連については適当に調べていただくとして、以下感想。


【第一幕】
ここでは田舎の因襲に満ちた封建的な習俗あるいは土壌がいかに救いがたいものかについて力点を置いた話が展開され、その上でカテリーナがセルゲイに身を任せるまでの話が描かれているが、DVD化されているヤンソンス盤に比べるとどぎつい性描写をかなり抑制した上でカテリーナが何故各種不満を募らせるに至ったのかを強調する傾向の演出。舞台セットは敢えて50年代のソ連(かな?)風味。冷蔵庫もあるし、白黒だけどテレビもあります。ちなみにこの幕では後半への伏線となるアイテムが多数登場するので、これから見る人はしっかり覚えておくと吉。

演奏はショスタコの若い頃の作品に典型的な不協和音を大胆に使った押し出しの強いメロディを強調する内容。音程面での破綻は見られず、非常に理知的なタクトさばき。
歌はボリス役のワレリー・アレクセイエフが大熱演。色惚けの田舎親爺の蒙昧ぶりを非常によく表現している。カテリーナ役のステファニー・フリーデのふて腐れた演技も見る者の同情的な意識をカテリーナに傾斜させる上で非常に効果的。で、所謂ポルノフォニーと呼ばれる場面はバンダ陣が大活躍。即物的なセックスの貧しさを強調したフレージングは聞いてて笑えます。

【第二幕】
本幕は浮気が露呈したセルゲイがボリスに鞭で打ち据えられることからいよいよ悲劇がスタートするのだが、カテリーナとセルゲイの「愛のアリア」の陳腐っぷりが聞いていて大変に面白い。
また、カテリーナの手で粥に殺鼠剤を盛られたボリスが悶絶した挙句死んだ後、カテリーナがとりあえず嘆くフリだけして喜びまくる場面はボリス・ゴドゥノフの「偽りの嘆き」のパロディですが、ここからも本作のボリス・イズマイロフが「簒奪者」ボリス・ゴドゥノフに擬せられていることが伺えるが、ここは合唱が非常に見事。所々に「森の歌」と似てるよねー、と思わせるところがあったのはただ単に作曲者が一緒だからだろうが、ボリスが死んだあとの場面のカテリーナの歌い方はカテリーナの隠れた喜びが伝わってきて実に楽しい。オーケストラは音量が大きすぎで、多少歌わせすぎているような気もしたが、それほど気になるレベルではないように思う。
また、ジノーヴィーが殺害される場面は、ここでは敢えて伏せるがかなりどぎつい演出であり、ちょっとやりすぎではないかと思った。レスコフの原作でも確かに燭台で殴って頭を割る描写はあるのだが……これから見る方は一応覚悟しといた方がいいです。

あんまり関係ないですが、ボリスが死ぬ場面で登場する司祭の生臭ぶりは某大学哲学科の某教員(しかも一応神学をやっていると自称してるあの人)にソックリ。

【第三幕】
いよいよセルゲイとカテリーナの結婚式。微妙にダサい服装でゴーゴーダンスを踊る参加者達が田舎宴会テイストを盛り上げます。バンダも警官の衣装などを着て舞台に登場して役者の一部となる辺りの演出は本作の混沌ぶりを象徴しているようで興味深いものがあります。

合唱「空に輝く太陽よりも美しいお方は?」は合唱が前面に出てきてカテリーナの罪深い喜びとセルゲイの白々しく浮薄な愛情を強調する印象大。座っていた席のせいもあり、結構うるさい感じもしましたが、こんなものでいいかのもしれません。
で、ジノーヴィーの遺体が発見される場面はかなりこれまた露悪的です。某「特殊清掃」のブログを思い出した私は同ブログの特掃隊長の偉さを再認識したですよ。

最後。セルゲイとカテリーナが逮捕される場面の演奏は交響曲第7番の「チチンプイプイ」の主題を先取りしつつ皮肉を更に強めた印象。狂乱に近い大混乱をうまく演奏できていたと思います。セルゲイが警官にボコボコにされる場面は第一幕でアクシーニャが暴行される場面を想起させるもので、因果応報と言うべきかもしれません。

【第四幕】
一転してどこにも救いのない極めて暗い話になります。
シベリア送りになった二人ですが、ここはカテリーナの不幸っぷりがここぞとばかりに徹底的に歌われます。ボリス役のワレリー・アレクセイは老いた囚人役として再登場し、シベリアへ送られる行程が生きに寂しく厳しいものであるのかをまず歌い上げ、カテリーナがこれから送るであろう悲惨な境遇への同情を誘う。

そして、セルゲイがソニェートカに心変わりし、自分が完全に捨てられたのだと悟った段階で歌う「森の奥の茂みに、湖がある」は痛切の極みのような旋律であり、完全にイッてしまったカテリーナの表情が悲しい。
歌詞の内容は崩壊してしまったカテリーナの内面そのものなのだが、ここはステファニー・フリーデに少し疲れが見えたように思う。静かに、けれども絶叫のトーンを残しつつこのアリアを歌い上げるのは大変に難しいのは分かっているが、休憩の間隔を調整するなどしてベストの歌唱を聴かせて欲しかった。

この歌の後、カテリーナが客席に背を向けて一人立ち、それを上からスポット照明でテラス演出はカテリーナの追い詰められた狂気と決意を象徴している。また、それをおちょくるソニェートカの演技も悪女ぶりを効かせていて非常に見ていて辛い。
最後、カテリーナがソニェートカを道連れにして入水自殺を図る場面は、敢えて抑制的な演出であり、覚悟を決めて石のような表情になったカテリーナと余りの驚きに呆然となったソニェートカの落差がこの物語の悲劇性を強調している。
終末に向かうメロディーも交響曲第4番第3楽章フィナーレを連想させるもので、集中力を最後まで切らさない優れた演奏。もちろん、望むならば弦楽セクションはもっと厳しい音色と音量管理をしてもいいとは思うが、ミハイル・シンケヴィチの指揮はきかせるべき所と強調すべき所はきちんと把握した上での、過度にドラマティックな表現には走らない、堅実なタクトさばきだったと評価していいのではないだろうか。


本作は往々にして性的要素を強調した演出がなされることが多い(手許にあるヤンソンス盤はかなりそれがどぎつい)ようなのだが、今回の演出はそれを敢えて戯画化して抑制的に描くことで、カテリーナの狂気を生んだものが何であったのかを強調し、結果として本作の舞台であった19世紀中頃のロシアの片田舎と今日の我々の生活圏との連続性を示唆する内容になっているように思う。即ち、因襲の価値観が全てであり、それを疑うことすらしない連中は今でも都市・田舎の別を問わずたくさんいるし、宗教家は所詮冠婚葬祭業の下請けがメインの仕事であり、結果人心の腐敗は留まるところを知らないという塩梅の状況のことだ。
だから、カテリーナがソニェートカを巻き添えにすることで入水自殺を図る場面は、単なる色恋沙汰の縺れの帰結という風にありがちなサスペンスドラマの結末だと解釈するだけでは足りないようにも思える。恐らくは、人の心を苛み、蝕んでいく事柄――即ちそれは我々を囲繞するもの全てである――への破滅的な抗議であったように、私には思える。全ての感情を捨てて石のようになってしまったエカテリーナの表情は即ち現状の絶望から逃避するために感情を捨て去ってしまったわれわれ自身の表情であり、彼女が客席に背を向けて他の虜囚を眺めやるように、我々は因習的価値によって充足している人々を適切な言葉もないまま眺めやりつつ、水底に沈むように足下からじわじわと消滅していくのだろうと思う。


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