2007年05月
それぞれを足して二で割るとこうなる  (2007.05.31)

http://news.livedoor.com/article/detail/2905959/
「もっと女性をほめよう!女性をほめるのは男性の仕事」

……マークス寿子を持ち出しているあたりで頭の悪さ全開ですな……
ラテン系の男が女性を褒めまくるのはヤリたい気持ちが動機の大半を占めてるわけで、つまりは褒められているということは性の対象として見下されているという暗黙の関係性があるのは明らかなんだけどね……
実際この記事の著者も「家に出入りする宅配業者や行き付けの店の男性店員など」という、経済的関係においては明らかに目下の人間を褒めているあたりが何ともニヤニヤなのですが、まあそれはいいとしましょう。

で、

http://www.h-yamaguchi.net/2007/05/post_e9b0.html
「『男性をほめるのは女性の仕事』と言ってみるテスト」

結論。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ。」(山本五十六)

これが素直にできれば人間関係なんか苦労しないんだけどね。


重なる  (2007.05.28)

朝から午後にかけて、ZARDの坂井泉水と松岡農水相の自殺の報に接する。

生命力が全般的に落ち、生きることに対しての意欲が限りなく低下しているこの時期にこのようなニュースに接するのは正直言って余計に気が滅入る。もしかすると自分はこういう風になるのかという予想も含めて色々な想像が頭を巡る。いやそりゃ勿論前者二人のような注目は集めないという点でもっと情けないとは思うが。

本を読む気力も最近はない、というべきかむしろ数字のデータや文字情報そのものが頭に入ってこない。
典型的な軽い抑鬱状態なのかもしれない。

かといってクリニックに行くだけの時間もないし、SSRIは効くまでに時間が掛かる。もし生きようという意思がまだ私に残っているのなら、このような処方を求めることも必要なのだろうが、残念ながらそんな気力すらない。

キーを叩いてダラダラと文章を書けるのは数少ない救いだが、それでもかなり危険な状態にあると自分でも思う。


久しぶりにテレビを見た  (2007.05.26)

週末は所用にて実家に戻って色々と作業。

久方ぶりの旧自室は、妙にがらんとしていて何かよそよそしさが漂っていた。
留学から帰国した折でもここまでの距離感は感じなかったと思う。何か、空間としてではなく、時間として隔たった世界に自分がいるかのような寂しさを感じた。こうして人は少しずつ故郷から遠ざかっていくのだろうし、故郷に対するイメージというのはこのようにして醸成されていくのかもしれない。時間が停止してしまったあの部屋に対する、取り返すことのできない意味の集積に対する哀惜と共に、人は少しずつ色々なものを忘れていく。

夕食をご馳走になり、久しぶりにテレビを見る(今の住まいにはまだテレビがない)。ミュージックフェアでは「さくらんぼうの実る頃」(Le temps de cerises)が歌われていた。

比較的よく知られている話だが、この歌はパリ・コミューンの想い出と共にフランスでは歌われる。パリ・コミューンの崩壊及び市民の虐殺が起きたのは1871年5月28日頃のことで、この歌は桜桃に言寄せて、コミューンの悲劇を思い出すために市民の間で歌われていた。土曜日に放送されたかの番組でこの歌が流れたのには恐らくはそんな理由もあるのだと思う。

パリ・コミューンの人々が最後に立てこもり、全員射殺されたのはパリ市20区のペール・ラシェーズ墓地の一角。彼らが殺された壁は今でも残り、弾痕が生々しく刻まれている。彼らが末期に臨んで仰いだ蒼穹を思うとき、私は自らの矮小さを恥じずにはいられない。果たして自分がしていることは正しいのだろうか、と。信念を持って、正しいと揺るぎない確信を持って悪に立ち向かっているか、と。


戻って参りました  (2007.05.23)

お久しぶりでございます。

リアル知り合いはみなMixiに書いている日記ばかり読んでくれているので、こちらはアクセス数が激減。
いかにリアル知り合いに依存したアクセス状況かがよく分かります。

まあ、そういうわけなので、ここの日記ではある程度楽に書きたいことも書けたりはするのですが。

引っ越しする、ということは先だって書いたとおりですが、未だにテレビ購入には至っていないので、過ぎていく夜更けは限りなく静かでかつ憂鬱ではあるものの、気楽でもあるという状況にはあります。家賃は高いので、色々と工夫しなければ悲惨なことになるのですが。飲み会とかDVD購入とかは御法度であります。


それにしても、自分は悪くないと居直る人たちと話をするのは何と苦痛なのでしょうか。
こちらの苦境〈そう!生まれてこの方楽に生存が維持できたことなどなかったのですが〉など全くお構いなしに、人々はその苦痛を、あるいは呪詛をぶつけてきます。
それに対してこちらが唯々諾々と従わない限りは、恐らく解決はないのです。相談とは多くの場合自己主張の正当化でしかなく、その醜悪なエゴはその気配を感じるだけで私は生きているのが厭になるのです。

ああ、生きているのが嫌なのです。最近色々考えるに付け、私は自分が生きている必要性を感じなくなりました。中二病とかそういう揶揄も当然あるのでしょうが、詰まらないこの肉体をただ生存させているだけであるのなら、それは無意味ではないかとの懐疑が、反復する毎日の意味とは即ちただゴミのようなこの生命を維持している、ただそれだけにしか存していないのならば、疑いもなくこの生そのものは無意味であり、無価値であり、むしろ否定されるべきだとの思考が頭を離れないのです。

何の役にも立たず、何にもなれないまま、私は朽ちていくのでしょう。


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