2007年02月
私は去る、見ることもないままに。  (2007.02.25)

精神が疲弊している。いつものことと言えばいつものことだが、気が滅入っていて本を読む気力も起きない有様だ。

こういう精神状態の時――先日偶然にも中古屋でバーンスタイン/BPOの録音を格安で落手できたというのもあるのだが――、よく聴くのはマーラーの交響曲第9番だ。特に終楽章、49〜63小節目の生命の黄昏に満ちた弦の旋律はそれに先行するホルンの音色と相俟って、鉛のように重い精神を同質の原理で和らげてくれる。

この録音のレビューを読んでいると、葬式の時にかけてもらいたいといった意見をよく目にする。極めて多幸感に満ちた終末を奏でるこの曲を生の終わりの儀式に希望する気持ちは分からないでもないが、生の側に身を置いている人間にとって、この曲は余り居心地のいいものではないように思う。むしろ、『ソイレント・グリーン』で老人ソルが「ホーム」という名の公共安楽死施設で最期に「田園」を望むように、最早戻ることのできない彼岸を眺めやる人間にしかこの曲の光景は意味を持たない。完全に死の思想を身近なものとしてのみ把握している人々にしか、世界の終焉は魅力的に映らないのだ。一切の闘争や苦悩、不安や恐怖からの解放という永遠の平穏が暗示するその世界は、時として極めて魅力的である。

闘争や駆け引き、コミュニケーションや超自我の水準での行動の強要に対して、私は余りにも不安を強く感じすぎている。そして、その不安は消えることがない。ハイデガーは確かに現代人の精神の根本性格に不安を見抜いていたが、それは死に対する不安ではないのだ。むしろリルケが言うように私であることの究極の確認であると死が映る場合、そこに形成されているのは全く別の、意味の一切が解体されるが如き安堵ではなかったろうか。


機種変更しましたよ  (2007.02.17)

携帯変えました。

これまではW21SAを使っておりました。着うたが偽装できたりヘッダを加工することでminiSDに保存した動画が見られたりと色々と隠しフューチャー満載の機種ではありましたが、

・通話中にいきなりプツッと切れてしまうことが多くなった
・バッテリーが消耗して半日で残容量ほぼゼロになる(普段は会社で充電してます←コラ)
・miniSDを挿していると動作がもっさりしていてとてもイライラする
・落としたりして外装がダメになってきた

との理由で機種変更をだいぶ前から検討していたのですよ。そして先日色々調べてみたらW43HIIは貯まったポイントを使えば交換手数料だけで新しい物に変えられそうだということが分かったので、某家電量販店でW43HIIのアイスピンク(!)に機種変更してきたという次第です。ええ、大昔のクレージュとかサマンサタバサピンクですよ。文句あっか。

で、ついでに別の店で購入したmicroSD-1GBに、色々動画を変換して保存して見ております。世界の車窓からとか世界の車窓からとか世界の車窓からとか。
ちなみに、ワンセグ放送はニュース以外はつまらないので速攻で飽きました。電車の中で某アクオス携帯にて色々番組を見ているオヤジをよく見かけますが、あんなものをよく見られるなあというのが正直な感想ではありますよ。


だから腐れマカーはあっちいけとあれほど(略)  (2007.02.16)

「エキサイト」トップ画面を刷新へ−気鋭デザイナー起用も
http://www.shibukei.com/headline/4069/index.html(シブヤ経済新聞)

まあ、確かにここ数年のエキサイトのトップページの混乱ぶりは、大学のサークル情報ミニコミ誌がでっち上げたようなベンチャーテイスト溢れるグチャグチャなデザインで、何を整理秩序づけたいのかが全く分からなかったのは確かなんですが。

Webユーザビリティ研究の分野ではよく知られた人に、ジェイコブ・ニールセンという人がいる。人相も悪く口も悪いが、それなりにうなずける話も多い。こんな感じの話だ。↓
http://www.usability.gr.jp/alertbox/20040913.html

サーチエンジンをメインコンテンツに据えたポータルサイトでユーザーが何をするかといえばそれはとりもなおさず検索であり、求めるものは優秀な検索結果に他ならない。あとエキサイトといえば翻訳も結構使えるのでそのくらいか。
とするならそのユーザー体験の質をガシガシ上げるためにはどうすればいいのかを考えるべきでないのかい? 根腐れマカーが自己満足でこさえたような意味不明のインターフェースとサイトデザインは、検索結果を獲得するのとは全く関係のない、インターフェースに対する習熟という作業を強要されることになる。誰がこんなの使うか? Googleが当初Geekな連中の間で爆発的に広がったのは、極めてシンプルなデザインが無駄な労力を省くと共に、非常に的中精度の高い検索結果を表示してくれたからではなかったか。今はアルファベットで検索をかけると広告ページばかり引っかかってしまってロクな結果が得られなくなったが。

ヤフーとグーグルの間で雪隠詰めになる余り頭のいかれたコンサルに騙されたのかもしれないが、こんな事に資金をつぎ込むなら、翻訳エンジンの強化とか多言語対応とか日本語キーワードによる複数言語検索とかそういう方向に頭を使うべきではないかと思う。実際翻訳エンジンと連動したマルチ検索なんて面白そうだと思うのだが、サーバーには負担が厳しすぎるのかな。


シャトー・オーブリオン1989年(ウソ)  (2007.02.11)

ええと、金曜日は大学の同期の人々とまた飲み会でした。

今回は留学を終えて帰国した新メンバー(といっても元々同級生な訳ですが)の歓迎と新年会を兼ねての食事会でした。その人は春から非常勤講師だったりと、時間の流れは人を変えていくものです。うむ。

場所は左大臣勤務の会社の激近所のイタリアンレストランです。といってもフレンチもあったりなので、そういう感じの店、ということで。紹介すると予約がしづらくなるので具体的にどこの店なのかは教えません。うふふ。

ちなみにこの店には隠れワインメニューでマルセル・ラピエールのキュヴェやカンボンをストックしております。でも左大臣一行が結構飲んでしまったのでもう数えるほどしかありません(笑)。ちなみに値段も仕入れの倍ぐらいなので、非常に良心的な価格だと思います(普通のフレンチレストランでは、ワインは仕入れ価格の3〜4倍)。2003年のキュヴェは1万円くらいだったはず。ハラショー。

どうしても飲みたいぞコラという方は左大臣宛にメール下さい。飲みに行きましょう。

ちなみにその晩に飲んだ酒は以下の通り。一次会のみでの解散でした。といっても7時半スタートの11時半解散ですが。
食前酒:ビール、ポルトー、クバ・リブレ(カクテル)
食前その2:ブルーノ・パイヤール プルミエール・キュヴェ(シャンパーニュ)
メインワインその1:シャトー・カンボン・マルセル・ラピエール 2005(ブルゴーニュ,赤)
メインワインその2:トーブレック バロッサバレー ・ウッドカッター セミヨン種 2004(オーストラリア,白)
メインワインその3:ポムロール シャトー・セルタン・ドゥ・メイ 1992(ボルドー,赤)
食後酒:ヤルデン(イスラエル産デザートワイン)等、あとはグラッパ

左大臣以外は皆様美しい女性(ということにしておかないと生命の危険に関わりますので)だったので、左大臣はほとんど給仕役で実際あんま食えなかったわけですが、今度行ったときにはパスタ大盛りにして下さいYさん。


200円なんだし  (2007.02.07)

新宿などのターミナル駅のコンコースを歩いていると、ホームレスの人が手に雑誌を持って販売しているのに出くわすことがある。捨てられた漫画雑誌を回収して売っているのではなく、れっきとした新品の雑誌である。人によっては少しでも通行人の注意を惹こうと手作りのプラカード状のものを持って販売していることもある。

彼らが販売しているのは、「The big issue」という雑誌だ。一部200円。書店流通はしておらず、彼らからの手渡し販売が実質的に唯一の購入ルートである。そして、一部売れるごとに110円が販売者の利益になる。

この雑誌、ページ数は決して多くはないものの、内用はそれなりに充実しているように私は思う。雑誌の記事というのは見出しも含めてとかく扇情的になりがちなものだが、ビッグイシューの記事にはそのようなトーンはかなり希薄である。そして、とかく看過されがちな人種差別、あるいは障碍者差別の問題等について、誌面の制約のせいかやや表層的ではあるが、問題意識の糸口を与えてくれる内用が多いように思う。また、都市空間の中ではとかく排除の対象となりがちなホームレスの人々の「顔」を人生相談等のコーナーを通じて浮かび上がらせることで、社会的連帯の価値と意味について私が考えるための機会を与えてくれている。

販売者がいる場所については、http://www.bigissue.jp/ に詳しい。もし、これを読んでいるあなたが、偶然であるにせよビッグイシューが販売されているところを通りがかったとしたら、試しに一部買ってみて欲しい。一部200円である。内容に不満を感じたところで後悔するような金額ではないと思う。そして、面白いと、内容に共感するところがあるのなら、また機会を見つけて買って欲しい。

そういえば、ゲイムマン(http://www.tv-game.com/)もこの雑誌を支援している模様。私もレトロゲーム愛好者の一人だが、表3で彼の名前を見つけたときには思わずニヤリとしたのだった。


Au juste  (2007.02.04)

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20070111/258487/
「匿名は善か悪か」(日川佳三氏)

>こうしたパソコン通信型の個人認証IDやハンドル(ニックネーム)
>を批判するつもりは全くないが,記者は自分が誰なのかを明らか
>にしない匿名こそ,コミュニケーションの可能性が広がると感じている。

まずここから話を進めることにしよう。
記者が匿名性の側に軍配を上げるのは、コンテンツの評価が著者の名声と関連づけられ、要らぬハーロー効果で判断が鈍ることを危惧してのことである。それがあることは一概には否定しない。特にインチキ科学の世界では「博士」なる称号が多大な影響力を持つことはよく知られている。

だが、全てが匿名で表現されるとして、それの判断基準はいかなるものに求めることができるというのか。ハーバーマス的な意味での対話的理性に基づく議論あるいは言説が合意可能かつ立言可能な形式によって価値形成が可能になる場合、そこには言うまでもなく一定の明示的な基準が存在しなければならない。さもなくば、評価はただの評者の気まぐれであるとの批判と不信が常に成立するからである。そして、評価は他者との共有あるいは合意形成過程を経て初めて価値として客観性を帯びるものになる。つまり、評価が成立するためには評価基準の共有と、評価形成過程における対話的理性の存在が不可欠になるのである。
しかし実際にはそんなことは難しい。ゲーデルの議論を踏まえなくとも、近代における正しさの概念が外部に抑止力として「権威」を必要としたのはそのような理由によるものであり、実は極めて多くのケースにおいて正しさの概念の変遷はそのような権威の成立とそれに対する疑義の提出、それを経てからの「権威」の解体と再構築、というプロセスを経ていることは自明であろう。そしてこのような過程を「弁証法」というのはロバでもよく知っている話である。

だが、これらの過程がWebにおける言論に果たして不可欠のものとして備わっていると言えるだろうか。各種ブログの炎上の事例や「祭り」、あるいは星の数のような数量的評価に帰着してしまうような貧しい評価体制しか現状では支配的ではない言論の状況は、とりもなおさず評価の確立が質的契機を欠いた単なる量的なものに陥りやすいという欠陥を示してはいないだろうか。そして量的なものに著しく傾斜した表その者が「優劣」という素朴な観点から見た場合、果たして優れたものであるといえるのであろうか?

「匿名」の表現行為の礼賛はこの地点まで踏み込んで考察する必要があるように私は思う。権威という外部性を喪失した評価のシステムは、多分に主観の内部で完結する。それが独断とどう違うのかという認識が介在する余地は実際の所ほとんどない。なぜなら、発話者が全て匿名であるならば、表現内容を直接的に発話者と結びつけて主観の内部を俎上に載せることは実質的に不可能になるからだ。
かくして、Web上に溢れる評価や表現は、非常に主観的かつ皮膚感覚に依存したものになってしまう。ある種の空気を共有できない人間にとってはそれらは無価値なものであるかゴミ同然のものに映るだろうし、その場にどっぷり浸かった人間にとっては、それらの限りなくアルター・エゴに近い連中に向けてのみ通じるジャーゴンをやりとりしていればとりあえずの孤独はごまかせるという塩梅だ。むしろ、コミュニケーションにおける最も深刻な問題は、このようにして完全な言説空間の断絶と匿名性が結合してしまっていることで、コミュニケーションそのものが極めて脆弱なものに成り果てているという問題ではないのか。そうした深刻な現状を踏まえた上で、何故匿名性が確保されなければならないのか、そして匿名性の問題を「実名との使い分け」という個人の意識の問題にすり替えることなく考察するためにはどうするべきなのかを論じることなしには、結局は問題の意味を理解しているとは言えないように私には思える。


まいったよ  (2007.02.01)

スパムメールのデタラメなヘッダのせいでメーラーがエラーで落ちる障害に見舞われる。
FTPで潜ってとりあえずメールデータごと書き換えて事なきを得たけど、こういうのは本当に迷惑だ。


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