2011年06月
二日連続  (2011.06.26)


金曜日も朝まで(=土曜の朝まで)飲み、土曜は夜の8時から飲み始め、これまた朝まで飲んでいた。鉄の胃袋と自負できる私の胃も少なからず、悲鳴を上げている。しばらくはお財布のためにも飲むのは控えます。

土曜の夜の飲み会は途中でバーに河岸を変えて、私も含めて残った3人で明け方まで過ごした。

酩酊により混濁する意識状態で、色々なことを話した。
お互い、みんなが若かったあの時代から流れ去っていった時間のことを。
形のないものに価値を認め、それを愛する、変わらない心のことを。
そしてお互いが変わったからこそ語り合える、それぞれが抱えていた、あるいはこれからも抱え続けるかもしれない、苦しみのことを。


解散して帰途についた車中、篠原美也子の「Like 17」の一節が頭をよぎる。
愚かなまま、遠くへ来てしまったと思う。


カタカナ発音の方がまだマシなのではないかとすら思う  (2011.06.17)

金曜日に痛飲して翌日二日酔いで潰れていなければ、土曜の午後は学部時代からの長いつきあいのある師匠が開催している仏語講座に出ているということはどこかで書いたと思う。

この講座、教室というか場所の貸し出しを師匠が籍を置いていた学部のツテでお願いしていることもあり、その学部の学生が時々出席している。というのも、この学部、4年間の間に最低1年間は交換留学協定のある外国の大学に留学することを義務づけており、仏語圏の大学に行くことを希望している学生が他の仏語教員の紹介でこの講座に来ているのだ。彼らの大半はこの夏から一ヶ月程度の語学研修を経て現地の大学で1年間の留学生活を送る予定だ。

彼らが在学している学部は講義が全て英語で行われているということもあり、英語のスキルは高い。私は英語では少なくともライティングはてんでダメな部類に入るので、彼らの英語スキルは私よりもずっと高いと見積もってほぼ間違いないだろう。その点ははっきり言ってうらやましい。

けれども、仏語での彼らの発音を聞いていると、正直頭が痛い。修辞や語彙も含めたライティング技術や、会話能力がそれなりの水準でしかないのは致し方のないことだし、私はそれを咎めようとは思わない。だが、フランス語やドイツ語などの英語以外の西欧系言語は、表記と発音については極めて明確な規則があり、一部の例外を除いてそれを一旦覚えてしまえば全く知らない言葉でも発音に困ることはない。発音規則についても若干難しいのはいわゆる巻き舌発音だけであり、他は鼻母音やウムラウトも含めて半日程度の練習で十分習得可能である。なぜなら語学の才能など全くない私がその位でいずれも発音できるようになったからだ(さすがに巻き舌は3ヶ月くらいかかったし、ドイツ語の巻き舌をフランス語流で発音したら修論の指導教授にボコボコに叱られたのは今ではいい想い出だ)。にもかかわらず、それを数ヶ月経ってもまともに覚えようとしないのは、正直言って理解に苦しむ。

無論、ここで私が指摘しているのは重箱の隅をつつくような発音の問題ではない。従って第一群規則活用動詞の直説法現在三人称複数の活用語尾を時折間違って発音してしまうとかそういう事は別に問題ではない。そんなこといったら私の英語の発音は仏語訛りが酷いので、南部訛りゆえに平壌の語学学校をクビになったジェンキンス氏並みに全くの問題外だろう。そうではなくて、極めて明確に指摘しうる、いくつかの発音の規則を全く覚えようとしないことが問題だと私は思う。
例を挙げよう。仏語では母音にはさまれた"s"の音は"z"の音価になり、"ss"だと清音のsの音価になる。また、アクセントなしの"e"は日本語で言うところのウ段の音に近く、鋭角アクセントがつくことでエ段の音に変化する。こんなのは大して難しい話ではない。

この点を根気強く教えている師匠はさすが教育者だなあと感心することしきりなのだが、正直、そういうのを繰り返して聞かされる私にとっては結構ツラい。そして、その程度の会話とヒアリング能力で仏語圏の大学行って講義に着いてけんのかいなと正直心配にすらなるのだ。
けれども、この心配は実際のところ意味をなさないだろう。仏語圏であっても一定の教育を受けた連中なら今は基本的に英語でバリバリに読み書き会話ができるので、本当に困ったら英語で訊けばいいのだから。もちろん件の学生たちもそれは百も承知だ。そして、この逃げ場が、彼らの他言語に対する学習水準と意欲を低いものにしているのだろうと思う。日本で就職機会を求めようとするのであれば、英語さえできれば別に問題ないからだ。これはこの前の日経ビジネスの単純素朴全開な特集からも伺える。

そりゃ英語はヘゲモニー言語なんで、ある程度はできないと話にならないのは正しいのだが、そこに安住する態度が彼らから垣間見えるのは非常に残念なことだと私は思う。まあ、その程度のことは、かつての私の母校で英語を第一外国語に選択していた連中のほとんどが卒業と同時に、揃いも揃ってêtre動詞とかavoir動詞の活用を直説法現在すらすっかり完全に忘れ去ってしまったという光景を目にしていた段階でわかりきっていたことでもあるのだが、その反復を再度目にすると、しかもそれが強制的な授業ではなく限りなく自由参加の講座であるだけに、残念な気持ちになるのだ。


科学という政治的装置  (2011.06.09)

福島の原発が吹っ飛んで放射能を撒き散らし始めて三ヶ月が経とうとしている。グダグダを通り越してほとんど不条理文学の世界に足を突っ込みつつある政治の無政府状態には笑うしかないし、そこで自己保身に走ろうとするテクノクラート連中の厚かましさ、あるいは常に身内向きのムラ的思考は個人的堕落ではなく、構造的にその組織が腐敗していることの証左だろう。

いずれにせよ、今回の事故で色々と「安全だ問題ない」とか「安全装置があるので最悪の事態には至ることは絶対無い」とかはたまた「多少の放射線被曝は体にいい」とか抜かす所謂「御用学者」がどれほど沢山いるのか、そして彼らを実質的に養っているのが誰なのか、という問題が明るみに出されたのは、それ自体としては良いことだろう。実際には水俣病などの公害病問題が取り沙汰された60〜70年代にもその手の話は事欠かなかったし、何を今更という気もしないでもないのだが、そういう概念が人口に膾炙するようになるのはよいことだ。

そして、これらの問題が再度我々に認識させるのはどういうことなのか、という問題を考える。当然のことながら各種メディアに「御用学者」が登場しプロパガンダを行うのは、彼らの存在がハーロー効果をもたらすからだが、そこで提示されるエビデンスも同様に「科学」というハーローをまとっているのだ、ということには留意しなければならない。即ち、そのような場面において行使される科学的真理性という概念はそれ自体として探求されるべき真理ではなく、ある目的に対する手段として探求され、獲得された「知見」であるということだ。いうまでもなく、その知見を正しいとして受け入れることは、そこに隠されている政治的イデオロギーを無批判に受容することを意味する。「しかじかの事柄が正しいと君は思っているのだから、これこれの政策を批判するのは根拠を欠く」、という次第だ。Q.E.D.

従って、科学的真理、などという輝かしくそして絶対に中立的かつ超越的な正しさを思わせるそれらの概念は、その現実態においてはきわめて政治的、そして経済的な下部構造(あえてマルクス的な言い方を私はここで採用しよう)の上に成り立っている、社会支配のための装置であるということだ。かくして人間の知性は自己の支配的傾向を顧みることがなければ、自然を支配する道具的知性がただ単に社会と人間を支配する道具・装置に成り代わっただけであり、むしろそれは知性そのものの野蛮への堕落という普遍史をなぞるだけとなる。そしてこのような過程こそが、アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』において我々に突きつけたプロブレマティークはなかったか。

もう、科学が真理の探究を通じて人類の発展に貢献するとか、学問はそれ自体として価値中立的であるとか、そういう無邪気なものの考えをするのはやめにしよう。社会的な諸関係による支配、あるいは媒介にたいして無思慮な態度をあえて貫こうとするのは、それ自体として彼らが置かれた政治的布置関係をそのまま反映するものに堕落してしまう。今再度問うべき、あるいは考えるべきは、そのような真理の微笑みを湛えて我々に語りかける神官たちの、彼らも忘れかけているであろう仮面の下にあるどす黒い支配と暴力への欲望の姿である。


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