2010年04月
豊かなもの  (2010.04.23)

ここ何週間か仕事がピークを迎えていることもあり、いつもかなり疲れた状態で帰途につくという日々が続いている。

今日は比較的長い時間座って帰ることができたので、帰りの車内ではマーラーの交響曲第2番を聴いていた。繰り返される重苦しい第1楽章第一主題の旋律を左の指でなぞりながら、彼の作品で執拗に反復される美しい世界への欲求と、それに対する断念あるいは禁止の感情の事をぼんやりと考えていた。ヘッドフォンからは3連符で繰り返し叩かれる、あるいはロールで響く強迫的なティンパニが、答えのない質問それ自体を闇から浮上させるように響く。

目を閉じながらこのハ短調の旋律を聴いていると、目に見えない世界に横たわる事柄がいかに私自身の生を支え、かつ支配しているのかという事を再度ぞっとするほどに気づかされる。多くの過ち、苦しみ、嘆き、そうした感情や思考の多くを表層的にやり過ごしてきたところで、実は何も解決してはいないのだし、むしろそれは心の最も奥深いところに根を張ることで、より救いがたいものになり、直視することすら怖気付かせるものになってしまっている。

だから、こう思うのだ。視覚的なものに余りにも多くを依存しているこの社会に生きることは、少なくとも生きながらえていることは、往々にしてその直接性によって私自身を盲にしてしまっているのではないのか、と。もし真の意味で宗教的なものに価値があるとするのであれば、おそらくはそうした視覚的に直接的なものの価値根拠をあやふやなものにしてしまい、むしろ目に見えない世界が持っている豊かさや恐ろしさを気づかせてくれることにあるのではないのか、と。

私は自問する。信仰は一切持っていないとしても、いくつかの時として余り好ましいとは言えない巡り合わせによって、そうした直接的なものに背を向け、思想的なものを自分は学んできたのではなかったのかと。

日々の暮らしの中で、そういう事ばかりにこだわっては多分生きていくことは難しいだろう。けれども、色々な形で本当の意味で私に限らず生の意味とか、本当に考えるべき事を暗示してくれるのは、このような多くの目に見えない事柄なのではないのかと、今更ながらに思う。

かなり心が疲れているように思う。だが、走り続けるしかないのだ。完全に壊れ、倒れ、ほの暗いあの微睡みの国に至ることができるまでは。


スーツケースの修理が終わった  (2010.04.10)


2月に修理に出していたスーツケースが戻ってきた。見積に2週間、修理に一ヶ月ほどかかり、費用は約1万8千円。修理内容はタイヤの交換とフレームの歪み調整。その他諸々の細かい修理もしているので、使う部分についてはほぼオーバーホールに近い。

このスーツケースは私が初めて海外に行ったときに購入したものだ。欧州線はアンカレージ経由の便がまだ残っていたような時代だから、その古さたるや推して知るべしだろう。実際乾燥重量は6キロ以上あるし、TSAロックも勿論付いていない。仕方ないのでスーツケースベルトはTSAロック対応のものにしているが、正直外装部分も含めてかなりボロボロだ。これまでの修理代金を合計すれば、RIMOWAのTOPAS(http://www.hayashigo.co.jp/rimowa/topas1/)の同サイズモデルくらいは余裕で買える。なんでそんなオンボロを……と思う向きもあると思う。それは正しい。

スーツケース海外に旅行に行くたびに、私は滞在した都市のステッカーを購入し、スーツケースに貼っている。これはラゲッジクレーム時、ターンテーブルで自分のを見つけやすくすると同時に、他の人が間違って持って行かないようにするためにそもそもは始めたものだったのだが、気がつくとスーツケースはステッカーだらけになっており、端から見ると結構痛々しい状態になっている。いわば痛スーツケースといった具合だろうか。

そんな状態であっても、この鞄は私の旅の記憶と分かちがたく結びついている。スーツケースにベタベタと貼られたステッカーを眺める度、一つ一つの都市についての記憶が楽しかったことも不愉快だったこともまとめて甦るのだ。
また、空港での荷物ピックアップ時や列車で移動するときも、隣り合った見知らぬ人との会話がこのスーツケースをきっかけとして始まることも少なくない。ベルリンでダイヤ乱れの情報を教えてくれたドレスデン・フィルのチェロ奏者の人は、スーツケース表面に貼られたケルンのフィルハーモニーザールのステッカーを見て、音楽の話題を振ってきた。このスーツケースは、そうしたコミュニケーションを構成しうる都市の空気も含めて、多くのことを想起させてくれるという意味で、単なる道具を超えて、記憶の媒体ですらあるのだ。

そのような事情があるため、このスーツケースはなかなか捨てられそうにない。今度修理が必要な状態になったら、TSAロックへの対応やケース部の強度低下を考えるとさすがに買い換えを真剣に検討しなければいけないかもしれないが、それまではせめて大事に使ってやることにしよう。


深い深い溝  (2010.04.05)


猪瀬直樹やら橋本徹やらが「表現の自由とは次元が違う」ということを振りかざしてエロマンガ規制を正当化しているようだ。猪瀬氏はフランス人の青年が日本のコンビニでエロマンガが売られているということに驚いたということを引用して日本の異常さとやらを強調しようとしてすらいる(http://www.inosenaoki.com/blog/2010/03/post-05ba.html)。

では訊くが、欧州では極めて厳しい規制が敷かれているアルコール類やタバコ類の広告に対してなんの規制も発動しようとしないのは片手落ちではないのか。また、コンビニや自販機等で未成年であっても殆どお咎めなしに高い依存性を持つこれらの嗜好品が買えてしまうことは経済の自由どころの騒ぎではないのではないか。また、中毒患者が少なくなく、子供を駐車場に放棄して熱中症で殺してしまうような事件を誘発する賭博場が駅前で下品な騒音をまき散らしていることは公共空間の利益および人命の尊厳、かつ健全な日常生活の実現の理念に反するのではないのか。

これらの事について黙りを決め込みつつ、徒に「非実在青少年」という噴飯ものの音声の風を振りかざして「青少年の健全な育成」および「性犯罪の抑止」とやらを目指そうというのは、自由と公共の利益の相克についての判断が極めて恣意的に運用されているということでしかない。即ち、気に入らないものがあれば、「〜の自由をはき違えている」と恫喝しさえすれば、どんな規制でもまかり通るということだ。

残念ながら、それは間違いだ。

J.S.ミルの議論を引用するまでもなく、近代においては、自由の概念に基づいた行動が実証的にかつ確実に社会あるいはその構成員にとって損害をもたらす事態を招来する場合においてのみ、公共性の概念による拘束を受ける。即ち、なにがしかの有害な事象に対して、ある事柄が明確な因果関係を持つ場合においてのみ、それは規制されなければならないのである。

とするのであれば、「非実在青少年」とやらの描写された卑猥な表現物を規制しようとするのであるのならば、規制する側の人間はそれがもたらす有害性について明確な因果関係を証明しなければならない。たとえばそれらのポルノ表現媒体の一定量以上の消費が、明確に性犯罪者の増加につながることを、橋本氏や猪瀬氏は証明する責任を負っている。さもなくば、それは単なる権力者の恣意に他ならず、恣意の意味するところは権力の暴走でしかないからだ(橋本氏が言論の自由については極めて稚拙な認識しか持っていないであろうということは彼の言動の端々から伺えるのだが、ここではそれについては敢えて触れない)。

問題の本質はここにある。即ち、何か生理的に気に入らないものがあったとしても、それを法的に規制すべきだという結論の間には極めて深い溝があり、それを越えるには慎重の上にも慎重を期してもまだ足りないということだ。そして今回のようなケースがまかり通るとすれば、それはとりもなおさず社会の多数派の意見として「感覚的に気に入らない」ものであれば、「有害である」とのレッテルを貼ることによりどのような少数派であれ実質的に葬り去ることができるという事を意味する。ペドフィリア漫画が規制されたら、次はたとえばボーイズラブ系やSM系の漫画が標的にされるであろうことは、5手詰めの詰将棋を解くよりも簡単に想像が付くだろう。

いわゆるペドフィリア的な漫画については、正直私も嫌いである。だが、だからといってそれを実質的に社会から葬り去るべきであるという結論に一気に飛躍するのは、実質的な被害者が直接的には存在しないし、幼児への性犯罪との明確な因果関係(相関関係は消費行動を裏付けるだけなので根拠にはならない)も証明されていない以上、思考停止以外の何者でもない。

生理的に嫌悪を感じるものを排除すべしという地点に立って規制に賛成を唱える人には、このような理念に基づいた思考というのは受け入れられないものであろう事は私もよく知っている。だが、それを利用することにより自らの権力の圏域の拡大を企図するような民衆煽動家には、飛礫を浴びせてやることが必要なのだ。


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