2008年07月
汗牛充棟は理想だけれども  (2008.07.20)

デッドストック状態だった1986年のワインを飲んだら熟成が進みすぎていて物凄くまずかったのはさておくとして、今年もまた一つ歳をとってしまいました。この歳になってくると年齢が高いとそれだけで転職が無茶苦茶不利になるので、焦りがビッグウェーヴなのが正直なところですが。

さて、そんなわけでショッピングサイトとかANAとかいろんな所から誕生日お祝いメールが届きましたですよ。自動振り分けしてるので読むことはまずないですが。

ただ、そんなメールが来ること自体が――登録情報から自動的に送っているだけのつまらぬマーケティング手法でしかないのですが――なんか社会的生物としての自分の生存証明のようにも思えるのです。心が弱ってますかね。多分そうですね。こういう状態の時に脳味噌の腐った新興宗教の連中は攻勢をかけてくるのでATフィールドをとりあえずは展開しておきます。

何でこんなことを今更のように書くのか、「寂しさなら慣れているよ生まれたときから」のはずなのに。

以前、かなり昔に付き合っていたある女性が、私の誕生日を失念していたことをケラケラと笑いながら詫びていたことを思い出したのです。ああ、この人は相手のことなんかどうでもいいんだな、結局は自分の利益のために人は利用できればどうでもいいんだな(大なり小なり人間が社会的関係を維持するということは自分の利害の押し付けを正当化する仕組みがあるのは分かっているにしても)、ということが完全に見え透いてしまい、その後1年弱でその人とは別れてしまいました。

年齢とかそういう問題はあくまで付属的な問題に過ぎないのはいうまでもありません。しかし、今夜はその時の感情を思い出してしまい、必要もないのに気が滅入りました。

先日も地方の公共図書館が寄贈図書の大半を破棄しているという新聞記事を読んで、自分が死んだあとに残るであろう蔵書類をどうしておくべきかを思いました。
私が本棚に溜め込んでいる書物の多くは哲学関係のものですが、中には論文集や研究書などの専門書も結構あります。そしてこれからもそれらの本は増え続ける可能性が高いです。となると、これらは私が死んだあとどうなるのだろう、と考えざるを得ないのです。現実的な解としては当然ながら生きている内にできる限り処分を進めておくことなのですが、それをいつから始めるということは中々難しい話でもあります。Memento moriとしたり顔で言うのは気楽なやり方ですが、独りであることを現実的に引き受けようとするのであればこのような問題は避けて通れません。

年を重ねていくというのは、こんなことでもあるのですね。


センセーですよ  (2008.07.19)

昨日いきなり電話がかかってきて、CEATEC Japan 2008(http://www.ceatec.com/2008/ja/)のセミナーにて講師をやることになりました。トレンドセッションか通信ネットワークトラックか出展者セミナーのどれかのコンファレンスだと思うんですが、詳細は未定です。

祝誕生日、自分。


最近読んだ本とか  (2008.07.12)


体の調子があまり思わしくないので、休日は家事を済ませたあとは本を読むか音楽を聴く等して非常に怠惰な週末を送っている。長時間労働ではないのが唯一の幸いだが、複数のプロジェクトを統括するような業務が最近は主になりつつあり、人に任せてそれを管理するのが非常に苦手(あるいは経験不足)なので、それで相当心神が疲労しているという塩梅だ。ついつい自分でやっちまった方が早いんだけどなあ……と思って過剰な介入をしてしまいそうになるのだが、そこは持ち前の怠け心でブレーキをかけている。そうしないとデスマーチ一直線だからなあ。

で、そんななか最近読んだ本の感想。下記以外にもビジネス書は何冊も読んでいるのだけれども感想を書いても面白くも何ともないので割愛。全部書くと長くなるので多分あとで続けます。

・ゾラ『居酒屋』(集英社世界文学全集版)
ひどい話だなあ。とりあえずはそれしか感想が出ない。ジェルヴェーズが結構頑張るも武運つたなくダメ男2匹のせいで破滅し売春までやるも最後は乞食同然で死んでゆくという話は正直読んでいて辛い。ここまでひでえ話を書くことに意味があるのかと当時のフランスで世論真っ二つの大論争になった(小説の道徳性を巡って世論が沸騰するとは何と羨ましい時代であろうか)のもうなずけるのだが、冷酷との謗りを受ける危険を冒してまで書ききった本作は自然主義文学の頂点の一つであろうと言ってもいいと思う。機械化が進む資本主義の中で何もかも滅茶苦茶に、不可避に破滅に巻き込まれていく人々の群像劇はそれ自体として時代に対する怒りに満ちた告発だと思う。ありきたりなルポではなく、小説に昇華して、しかもプロレタリア文学のイデオロギー性を回避しつつ日雇い派遣労働者の現状を書ききるだけの筆力を持った作家が今の日本にどれだけいるのか?

・フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』(岩波文庫)
超有名な本ながら手軽に読める翻訳は戦前に訳された旧字体ラッシュの本書だけ(玉川大学出版部から出た訳はとっくの昔に絶版)。いくら本を読む人が減ったとはいえ、あんまりではなかろうか。
「我々にはドイツ語がある! 教育はドイツ語を通じてドイツ魂を持ったドイツ人を作り、民族としての独立を回復することだ」というのが本教育論の極めて大まかなイデオロギー的あらましだが、些末な知識の教授の連続と場当たり主義的な暴力を伴った「しつけ」に陥りがちな教育に理念を与えたという点では確かに評価できる点が多い。また、独立不羈の精神を失った「民族」なるものがどういう運命を辿るのかというフィヒテの思想は戦中までの日本人(あるいは戦後の保守派の論客にも)に強い影響を与えている――このあたりはリオタール『ハイデガーと《ユダヤ人》』の序文で手厳しく批判されている――ことからも分かるとおり、フィヒテの教育論というのは国民国家の形成期においては実際有効な射程を持った思想だったと思う。だが、民族精神なるものを形成する手段としての教育がその有用性より弊害の方が目立ち始めた今の時代にあっては、『フランス革命期の公教育論』(岩波文庫)に収められた、「あらゆる教育の第一条件は真理のみを教えることにあるから、公権力が教育にあてる諸機関は、あらゆる政治的権威から可能な限り独立していなければならない」と宣言するコンドルセの教育に関する提言(それでも議会には従うべきだとコンドルセは付言するが)の方が優れているのではないかと私は思う。


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