2009年08月
年末の予定  (2009.08.20)

某所で眼がチカチカして読みづらいとの指摘を受けたので、文字フォント等のデザインを一部変更しました。カテゴリー分けなどについてちょっと使いづらいところも出てきたので、秋の連休中にMovable Typeプラットフォームへの移行を考えてはいますが、MTはメジャーバージョンアップするとログの再構築がエラく面倒なのとテンプレートの加工が面倒臭いので、そのあたりがどうも……

年末の休業時期に関して、色々と交渉したり調整したりした結果、何とかまとまった休みが取れたので、ドイツとフランスを旅行してくる予定です。会うべき知人がいる(むしろそのためにフランスには行く)ので、訪問予定の都市も実質的にはほぼ固まっているのですが、日程を確定したり色々調整すべき所があるので、詳しい旅程の確定にはちょっと時間を要しそうですが、とりあえずベルリンとパリには行くことが決まっております。

残念ながら小生は貧乏なので今回もエコノミークラスで、しかもマイレージによるアップグレードができないチケット等級なのが悔やまれますが、往路くらいはチェックイン時にアップグレードできれば嬉しいなあ、とか思ったり。率直に言ってANA Milage Clubのサービス内容はマイレージの有効期限が結構厳しいとかエコノミークラスでのマイレージ付与率がやたら悪いとか色々あってスターアライアンス各社の中でも最悪の部類に属するので、国内出張でプラチナポイントが貯まるのでもなければとっとと別のキャリアのカードに乗り換えるのですが。

というわけで、先日楽天経由でベルリンの地図を取り寄せたりして、妄想を膨らませております。旅行の日までに会社が潰れないことを祈るのみです。


無知はそれ自体として損失である  (2009.08.19)


よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」(「活字中毒R。」)

各地で話題になっているようなのでちょいと便乗。

店の責任者であれば、客の目の前で従業員を叱り飛ばすことがどれほど客に不愉快な印象を与えるのかは知っていて当然の事柄である。従って、従業員を叱る場合であっても、それは一般の目が届かないバックヤードで行うのが人材育成という観点も含めて基本中の基本である。そんなことすらできない店長は早晩降格になるだろう。

だが、規則違反を理由に従業員に注意を与えることは決して間違っていない。特に飲食店の場合、無断の持ち込みを許すことは機会損失の問題も孕むし、衛星管理上のリスクも負うことになる。また、そのようなことが認められるという規律の弛緩が従業員の間にひとたび広がってしまえば、画一的ではあるが快適なサービスの提供という原則が崩れることになるからだ。特定の客にだけ手もみしてサービスをするのは、田舎のスナックかVIP席で儲けていたバブル期のディスコくらいのものである。そしてもし余りにも杓子定規な規則の運用がなされているのであれば、それはその都度、店のスタッフで話し合いを重ねて問題点を共有すればいいだけの話である。

しかし、それらの原則を無視して、よしもとばななは「私達は有名人だから特別待遇をしろ」と早い話が要求しているわけである。よしもとばななといえばかつて田口ランディが盗作をやらかして袋叩きに遭っていたときに「可哀相だから止めてやれ」という実にメルヘン全開な擁護論を展開した不思議なお方だが、わざわざデザートワインを持参して飲み屋でコソコソと飲むくらいなら、最初からBYO(Bring Your Own bottle)を認めている店に行けばいいのである。実際ザガットサーベイにもBYO可能レストランの一覧は掲載されているし、例えば銀座のアルジェントASOなどはBYO可能な有名店として私でも知っている。「みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ」(孫引き御免)と抜かすくらいなら、カード会社のコンシエルジュサービスに頼めば深夜であろうとすぐに手頃な都内の店の一軒や二軒は手配してくれる。
つまり、ここでよしもとばななが露呈しているのは腐った作家としての自意識だけではない。BYOというシステムを知らず、それを友人をもてなすために活用することができないという無知そのものをも露呈しているのである。そしてそれ自体は経験の質を貧しいものにしてしまうという意味で、損失ですらある。

遠い異国に旅立とうとする友人を送るに、王維の詩を吟じつつ心おだやかに酒を酌み交わす楽しみを得るにはそれなりの知性が必要である。大学生のコンパじゃあるまいし、何故そのような立ち振る舞いができないのか、私としては大変疑問に思うし、物書きと称する人たちの素性の一端がそこに垣間見えるように思う。


身捨つるほどの価値はありや  (2009.08.16)


先日野暮用で銀行に行ったら色々と話し込むことになり、3日間連続の話し合いとなりトータルで4時間近い説明を受けた。こんな貧乏客にでも時間を割いてくれる担当者は有難い。

さて、本日は敗戦記念日である。「終戦」という言い方はボコボコに爆撃された挙げ句無条件降伏したという事実から目を背ける気満々な素振りが明確に伝わってくる。何とも惨めたらしい逃げ口上である。
疲弊した身体を引きずってテレビのニュースを眺めていたところ、国会議員の皆さんが靖国神社にお参りする様子が出ていた。後出しジャンケンが得意な某政治屋とか児ポ規制を元タレントとつるんでわめき立てるおばさんが色々としたり顔で話していたようだが、「国のために殉じた人に敬意を表するのは当然」みたいな言い方が気に障った。

「祖国のために死んだ」人間を顕彰することでナショナリズムの昂揚を図る手法は、ペリクレスの追悼演説以来、定番と化した政治上の劇場的手法の一つである。古代のこのようなやり方が人文主義の復興と共に近代国民国家においてどのような形で最具現化したかという話はF.カントロヴィッチ等が述べていることだが、ここで用いられている「祖国の『ために』死んだ」という表現は、それ自体として極めて歪んだ政治的野心の元に捏造されたものであるということは強調しておかねばならない。
即ち、戦争で死んだものは、わざわざ「祖国の『ために』死んだ」訳ではない。特に破壊と殺戮の徹底的な効率化と合理化が理性の下に追究された近代以降の総力戦においては、チャーチルが回想録で嘆いたように、数量化された容赦ない力と力の衝突が基底をなす以上、個々の人間は交換可能な一要素でしかない。彼らの大半は塵屑同然に扱われ、そして惨たらしく不潔な戦場で死んでいったわけだ(しかも太平洋戦争中の日本軍の死者にしめる病没者や餓死者の割合は少なくない)。
そのような死に方が果たして「祖国の『ために』死んだ」と言えるだろうか? むしろ正しくいうのであれば、それは「祖国によって殺された」が相応しいであろう。皇民化教育のおかげで当初はそんなことを思った人もいるだろうが、装備も食糧も人間としての尊厳も全く不足している状態の人間が、果たして祖国のために闘うという空疎な音声の風でモラールを保つことができていたというのか? 忠義と愛国心を顕彰することで聖別を図ろうとする国家の両手は、実はなぶり殺しにしてきた人々の血によって汚れている。
「国のために殉じた人に敬意を表するのは当然」という欺瞞は、国家の犯罪を糊塗すると同時に、国家に忠義を尽くす心象を特定の人間に植え付けることで、動員可能な人間の拡大を企図するものだ。もっと露骨にいえば、「私支配者、君奴隷」を恥じることもなく吹聴する醜く卑劣な精神が、愛国心を煽り立てる連中の背中には透けている。

このように政治屋の知的頽廃を指摘するのは事実そう難しいことではない。元々政治屋というのはそういうものだ。そしてそういう連中は選挙で落としてやれば実際には事足りるものだ。にもかかわらずいざそのような自体になると真っ先に死ぬことになりそうな世代の連中にもそのような思考法を支持する層が一定数存在するのは何故なのか。考察し理解すべき問題の根の一つはそこに恐らくある。
この種の問題は、国民、就中平均以下の層を平然と切り捨てる割に愛国心を強要するような頭の爛れた政治屋に全く無批判に同意を示す人々の認識形態を生み出す社会的構造(平たくいえば所得や学歴などの経済・文化資本の蓄積を中心とした環境的要因)も含めての定量的把握が必要なので、ここでは観念的な断定は避けるべきだと思う。しかしいずれにせよ、「国に殉じる」という極めて稚拙なデマゴギーに潜む神話を求める人間の心の内には、ペリクレスの時代が有していたある種の大きな物語に対する1パック100円のノスタルジーを読み取るのはそう難しいことではないだろう。


GH-USD7Kを買った  (2009.08.15)


作業をしながらFriio経由のテレビを見たり、フルスクリーンで作業しているときにWinAMPやSkypeのウィンドウを表示させておくと何かと便利なので、グリーンハウスのGH-USDKというUSBディスプレイを買った。便利な時代になったものだなあと思う。ちなみにクレバリーインターネット館にて7500円くらいだった。ほとんど同じスペックのIOデータの商品が1万3000円くらいすることを考えればお買い得。

画質についてはとりあえず問うような商品ではないが、メインのMultiSync LCD2690 WUXi2に比べるとやや青かぶりが目立ち、色温度も高めの傾向。動画の見やすさについては応答速度が25msなので、動きの激しいものには向かないという点は留意した方がいいと思う。これでゲームをするような御仁はいないと思うけど。


揶揄と話題  (2009.08.03)


以前にどこかで書いたと思うが、私は世間話やお喋りをするとき、他人の話をダシにするのがとりわけ嫌いだ。それが例えば首相の漢字の読み間違いなど、公人の行動であれば公共性の観点からある程度は仕方ないとは思うが、取り上げられる対象がその場に不在である私人であり、かつそれを揶揄気味に論うような世間話をするような場合、それ以外の話題がないのかと場合によっては哀れにすら思う。

特定の個人を陰湿に叩くようなこの種の態度は、社交的話題の貧困さという意味でその人間(達)の知性と品性の救いようのない水準の低さを露呈する。私も裕福とは到底言い難い中流家庭の出身だが、幸いにしてそういう圏域からは距離を置くようにある時期から自分を形成してきたように思う。無論それは当然の帰結として人の噂話を至上の楽しみとするような人々からの離脱と孤立を意味するわけだが、実際そのような輩と同じ蒙昧に身を落とすのであれば、本でも読むか語学の勉強をしていた方が遙かに有益であると思う。

ところが残念ながら、生きていく上ではこのような忌避すべき人々とどうしてもある程度は関わらなくてはいけない場面が出てくる。例えばキケロやプロティノス、あるいはメシアンやバルトーク等について語ることを嫌味な衒学趣味としてルサンチマン気味に軽蔑し、そのような話題の志向それ自体を世間知らずとして自らの倫理的俗悪さから目を背けるような人々と関わらなければならないとき、私は取引上の交渉で感じる以上の恐怖とストレスを抱かずにはいられない。

勿論、この世間(世界、ではなく)で生きていくということはこのような我慢を切り売りしつつ僅かばかりの賃金を得る行為であると定義するのはさほど難しいことではない。けれども、このような野蛮な人々が権勢を行使するような環境に身を置き続けるというのは、余程の明確な将来性が期待できるのでもない限り、こちらが拒絶の身振りを示して置くことにも一定の意味があることは自ら以て任じてもいいように思う。


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