« 2006年09月 | メイン | 2007年02月 »

2007年01月 アーカイブ

2007年01月03日

エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』

エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』の感想。ちなみに読んだのは相当前です。

タイトルを全部訳すと、「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」と非常に回りくどいタイトルになる。

元のフランス語の文章が晦渋の極みであり、ギリシア語やラテン語の知識は勿論のこと現象学やら基礎的存在論とユダヤ教敬虔主義の知識等々を総動員しないと何を言っているのかさっぱり分からないという無茶苦茶に難解な文章で、翻訳はそれを補完するためにさらに分かりづらくなっている(それでも朝日出版社から出ていた版から比べるとかなり読みやすくなっている)という、取っ付きにくさからいえば酷いとしか言い様のない代物になっている。

だが、それに齧り付くように読み進めていく、あるいはその躊躇いに満ちたレヴィナスの思考の足跡を追い縋るように読み進めていくと、そこに現れてくるのは峻厳でありけれども愛と美しさを湛える彼の倫理である。反存在論というレヴィナスの立場は『全体性と無限』以来変化することはないのだが、その立場は本書においてより徹底的なものになっている。即ち、「私」は主体としてデカルト的な形で措定されるのではなく、他者に、他者の「顔」に直面することで一切の主体性を剥ぎ取られ、常にその身代わりとして現存することがその存在者としての不可避の様態であるということが強く強く強調されているのである。世界に対する意識、あるいは他者への責任は「私」の自由の上に成立するのではない。「私」を逃避の余地なく他者のそうした呼びかけ(懇願ともレヴィナスは言う)に曝す、そうすることで生じる応責性が一切の起源(あるいは存在)に先行するとレヴィナスは唱えるのである。この結果私は他者と無限の隔たりを強制されつつもそれに対して無限の責任を負うことで「他者」の悲惨を全て引き受ける身代わりとならざるをえない。

自己の自我に先行する義務、認識されうる起源を破壊してそれに永遠に先行する他者からの責任。この義務にそのまま生きることはほぼ不可能に近いのは言うまでもない。だけれども、他者からの哀訴、あるいは悲鳴に似た「語りかけ」に私が選択の余地なく向き合わされるとき、レヴィナスの他者論は強い示唆を与えてくれる。

原書なら絶賛してお勧めするのだが、翻訳はどうしても翻訳不可能性が立ちはだかってしまうので人を選ぶとは思う。

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読了。

周知の通り『ブレードランナー』の原作だが、全くの別物と見た方がいい。話の内容は巻末の解説にもしっかり書いてあるとおり、「人間とは何か」を問うもので、その解答として著者は他者に対する感情移入を挙げているわけだが、それだけだとどうも掘り下げが浅い読後感しか招かないようにも思う。『ブレードランナー』だとルトガー・ハウアーが辺境惑星での労働がいかに酷たらしいものであるかを切々と訴えたりして、それに鈍感なままの人間のあり方を厳しく糾弾したりして結構考えさせられる内容も多いのだが、もちっとアンドロイドと人間の連続性を強調した上でその図式をひっくり返すところまで(つまりアンドロイドのほうがより『人間的』であるとか)やった方が問題提起としては射程が長くなったのではないかと思う。

ドストエフスキー『虐げられた人々』

ドストエフスキー『虐げられた人々』について。読んだのは相当昔です。

登場人物の描き分けがやや雑かなという印象はあるが、優しさ溢れる作品。特に物語後半のネリーの一連の話は物語全体のリアリティとフォルムを大きく損なう結果にはなっているが、そのために却って読み手の胸を打つ。特に激昂して割ってしまった茶碗を弁償するために乞食をする場面はのたうち回るほど悲しい。それに引き替え最悪のダメ人間ぶりを露呈しているのはアリョーシャで、安っぽい善人のエゴイズムあるいは醜さを余すところなく描き出しているようにも思う。ドストエフスキー自身の思想性は余り感じられないが、素朴バカや信心深い老人、悪魔的な信条と権力を持つ人物、とことん悲惨な境遇にありながらも魂は清らかな女性等々、彼の後の長編小説に出てくる登場人物の基本セットが一通り揃っている作品ではある。

マーラー:交響曲第10番(クック版/ギーレン盤)

マーラー:交響曲第10番(クック版/ギーレン盤)をアマゾンにて落手して聴く。

クック版のマーラーの10番といえば、ラトル指揮のBPOライブ盤が定番と言われて久しいが、昨年発売されたこの録音もそれに負けず劣らず素晴らしい。

ギーレンと言えば現代音楽フリークにはおなじみの指揮者で、彼が昔振ったベートーヴェンの交響曲第5番の録音はケーゲルだってこんな解釈はせんだろうという水準の抜け殻演奏で、逆にノーノの『広島の橋の上で』とかの演奏は正確無比としか言い様のない実に的確かつテンションの高い素晴らしい録音に仕上がっているし、同じくノーノの『セリーに基づくカノン風変奏曲』とかリゲティの『レクイエム』の録音なんかも実にドライないい演奏としてごく一部で評価が高い。
と言うわけで本録音はどうせ重油のようなマーラーの苦悩をあっさりそぎ落とした骨組みだけの即物主義の極北のような演奏かな……と高をくくっていたら大違いなのでこうしてレビューを書いている次第です。

確かに、ギーレンのタクトさばきはインバルなんかの演奏と比べると圧倒的に主観性が足りない。だが、そこにはマーラーの晩年の懊悩から倫理的に距離を置こうとするギーレンの節度ある解釈態度が伺えるように思える。歌うべき所は確かに歌い込んでいるのだが、すすり泣きを分かち合うような共感ではなく、あくまで4メートルほどマーラーから離れてマーラー最晩年の肖像を、ギーレンの視点から彫琢しようとしているように感じられるのだ。

演奏は総じて丁寧に音符を追っており、主観性に流れてスコアの音価を蔑ろにしていることはないし、音符間のアーティキュレーションはわざとあっさり目で鋭角的な鳴らし方をしている。このあたりはギーレン節といった感じ。特に中間楽章はそのドライさが逆にマーラーの躁状態の悲しさを的確に示しているように思う。そのキッチリした演奏は彼の楽しげな表情自体がなにか浮薄であるという迷い、怯えを感じさせてくれる。

そして終楽章。大太鼓の一撃が素晴らしい。自らをこの世から引きずり攫っていく死神の弔鐘のように響く凄絶な一撃。スフォルツァンドかつ余韻を抑えた鳴らし方(マーラーの指示通りではあるのだが)がこの世界からの別離の虚無の深淵を恐ろしい程に刻印してくれる。それに続くフルートのソロは比較的自由に歌い込んでいたパユに比べるとやや固い印象はあるものの、乾いた印象を持続させるという点では効果が大きい。

そして最後の弦セクションの13度の跳躍も艶がありつつ寂寥感と諦念が無限に滲み出てくる穏やかさ。ああ、マーラーは、第1楽章のオーケストレーション作業をしていた頃はまだこの世にいたマーラーはもうこの世にいないのだな、永遠に手の届かない彼方へと旅立ってしまったのだな、という切ないほどの喪失感を与えてくれる。

文句なしにお勧め。聴け。

2007年01月05日

ドストエフスキー『二重人格』

ドストエフスキー『二重人格』について。だいぶ前に読んだものについての感想。

主人公ゴリャートキンのダメ人間&小心翼々ぶりが非常に痛々しく、能力と理想のギャップに苦しむ人間の苦悩をギチギチと描いており、読んでいてかなり苦しい。
惜しむらくは新ゴリャートキンが旧ゴリャートキンのコンプレックスから生じた幻影だということが今ひとつ分かりにくいということか。それゆえにこそ読んでいて主人公の苦しみっぷりが伝わってくるということもあるのだが。あとはそういった人間の描写を通じての哲学的な問が今ひとつ掘り下げられていない点も不満かも。晩年の著作と比べてはいけないのかもしれないけれど。

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(クレーメル新盤)

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(クレーメル新盤)を聴いた。新録音盤と言っても発売されたのは2005年なので誤解なきよう。

ヴィヴラートを抑制し、時として乱暴にすら響くアクセントの付け方やデュナーミクは決して美音的ではないという点で、名盤とされるシェリング盤やクイケン盤とは対極にあり、むしろシゲティのそれに近いと思う。但し、全体的に遅めの速度でバッハの器楽曲に内在する精神の孤独な輝きを必死に掘り出そうとするシゲティのに比べて、クレーメルの演奏はかなり速く弾いている箇所も少なくなく、それでいて音の粒が全く崩れていないのはクレーメルの演奏の技術水準の高さを証明していると言っていいだろう。また、手元にあるヨアヒム版の楽譜と見比べると、各所で解釈の違いが見られるのだが、そのいずれも彼の演奏の高い説得力と緻密な弾き分けで全く以て納得させられてしまう。

そして、クレーメルのこの演奏を聴いて浮上してくるのは、バッハのような美が今日では最早不可能になってしまった事への諦念に似た距離感である。これは残響を強く残した録音にも依るところにも大きいのだろうが、元々現代音楽の演奏において評価の高い(ペルトやノーノのヴァイオリン曲でまともな録音が聴けるのはクレーメルの功績の一つである)クレーメルのバッハに対する態度は、単にそれが美しく、モダン楽器であっても全くその価値が減じることのない独奏曲の最高峰として例えばシャコンヌを礼賛しているだけではないように私には思える。美的な、単に美しい――それはそれ自体として極めて困難な一つの到達点ではあるのだが――演奏ではなく、敢えてピリオド楽器の時代のようにヴィヴラートを抑制し、敢えて言うならば傷だらけの音符の連なりを敢えて剥き出しにして差し出すことで、クレーメルはこのような音楽が不可能になりつつある現代の商業化された文化の自滅的状況を嘆くでもなく、そこから静かに遠ざかろうとしているように感じられてならない。例えばこの録音の最後のジーグは前半の短調の曲群に比べて、何と明るい開放感に満ちていることだろうか。険しい音色でありつつも伸びやかな健やかさを湛えたこの演奏において、クレーメルはバッハの時代と現代の音楽状況の双方から静かに微笑みを浮かべつつ別れを告げようとしている。

そういう意味において、単に美しいのみならず、聴いていて極めて辛い気持にさせられる録音。単にこの曲の素晴らしさを堪能したいだけであればシェリング盤を勧める。但し、我々の時代が持つ美的なものへの不可能性といったアポリアに沈潜して思考したいのであれば、クレーメルのこの演奏は一つの手がかりを与えてくれるかもしれないと思う。

エミール・ゾラ『ルーゴン家の誕生』

エミール・ゾラ『ルーゴン家の誕生』をとりあえず読んでみたのでレビュー。

ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」は本書『ルーゴン家の誕生』からスタートする。第二帝政期に興隆の端を発するルーゴン家がいかにしてのし上がっていったのかという話を軸に、もう一方の家系マッカール家出身のシルヴェールが南仏動乱に参加して結局は憲兵に捕まって銃殺されて脳漿を墓場にぶちまけるという話が展開されている。で、今も南仏、特にプロヴァンス~コート・ダジュール地方は国民戦線(FN)なる極右政党にとってはおいしい票田であったりもするのだが、ピエール・ルーゴン夫妻が主宰する(正確には主宰するように焚き付けられるのだが)南仏プラッサン市という田舎町の黄色いサロン@ルーゴン邸に集う保守反動のブルジョワ連中の話題の水準の低さや思考方法の陋劣ぶりは自然主義の面目躍如という感じで実にリアルかつおぞましさをかなり正確に伝えてくれている。また、もう一方のマッカール家の流れの連中は別の意味で破綻の極みにあって、有名な『ナナ』の主人公アンナ・クーポーはこの流れに属するのだが、本書ではアントワーヌ・マッカールのヒモっぷりが見事という他ない。でも、こういう話が出版当時突飛な絵空事と叩かれなかったということは、こんな人間は下層階級を訪ねればゴロゴロしていたということなのだろう。

それはさておき、本書で光るのは少女ミエットの余りにも可哀相な生き様と死に様である。彼女はシルヴェールの恋人なのだが、まず生い立ちが不幸。父ちゃんが殺人犯の嫌疑を掛けられて牢獄にぶち込まれ、一応叔母の所に引き取られるのだがその叔母がぽっくり死んでしまい義父とその息子ジュスタンに徹底的に酷使されていじめ抜かれる。ええ、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネリーの話でも私はグッと来てしまったわけですが、分かり切ってても私はこういう出自のヒロインの話に弱いです。もう同情度170%です。で、彼女は頭のいかれたアデライード・フークばあさんと暮らしていた(母親は肺結核で死に、父親は悲嘆の余り自殺していたので)大工見習いのシルヴェールと恋に落ちるわけです。出会った当時まだ13歳だったミエットとほんの少し年上に過ぎなかったシルヴェールの逢い引きのシーンは、悲惨なという形容が陳腐すぎるくらいの残酷な日々のなかで、自分を理解し共に生きていこうとする生命を見出したときの二人の痛々しいくらいの瑞々しい喜びが胸を打つのです。それでもってシルヴェールと出奔して山の中で二人で将来の希望を語り合う場面。その後赤い旗を掲げて人々の先頭に立つもあっさりと撃ち殺されてしまい、パスカル博士とシルヴェールの見守る中で息を引き取る場面。もうこれでもかこれでもかとミエットの幸薄さが読む者の精神を揺さぶりにかかります。そしてその後生きる希望を失ったシルヴェールもあっけなく捕縛され、かつて自分が片眼を潰した憲兵によって殺される。
確かに頭はあんま良くなかったけれど純粋で将来への希望があったシルヴェールと、彼に自分の人生の喜びの一切を託そうとしていたミエット。二人は幸せにならなきゃいけないのに何でだ!という怒りが、ルーゴン夫妻、特にフェリシテの腹黒いマキャベリズムやピエールの愚鈍な虚栄心たっぷりの俗物ぶり、そしてアントワーヌ・マッカールのダメ人間に対して沸き起こります。

けれどもこの話って、150年も昔の社会を舞台にしているわけです。にもかかわらずその実相というか生々しさがここまで伝わって来るというのは、さすがゾラというべきです。『ナナ』とか『ジェルミナル』とか『居酒屋』あたりでゾラの世界に触れた人は、読んでみても損はないと思います。

写真集『アトムの時代』

写真集『アトムの時代』をずいぶん前から探していたのだが、アマゾンのマーケットプレイスで比較的リーズナブルな価格で出品している方を見つけて速攻で入手。
で、どんな本かというと、これはアメリカの原爆・水爆実験及び広島・長崎での核兵器実戦使用時の写真を集めた写真集であったりする。フツーの本ではないです。
「野蛮から人倫の完成に至る普遍史は存在しなくとも、石斧から水爆へと至る歴史は明らかに存在する」とはアドルノの言葉だが、周囲の風景と比較すると圧倒的な巨大さと破壊力を見せつける核兵器炸裂時の写真を見せつけられると、「科学それ自体が悪なのではなく、人間の態度が問題なのだ」という常套句がいかに寝ぼけたものであるのかがよくわかる。
但し、この写真集は装幀や印刷にやや難があり、また収められている写真もアメリカのだけという点でやや不満が残る。A3判ぐらいの大きなサイズで、記録として残されている核実験の写真を片っ端から掲載したほうがより豊かな内容を持つのではないのか。確かにそれほど売れることが見込める本ではないが、まさしくこうした本だからこその内容を望みたいのだった。

ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲(オイストラフ盤)

ハチャトゥリアンの芸術2 〔ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲〕オイストラフ(vn)ペトロフ(p)ハチャトゥリアン/ロシア国立so. 他から、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲について。

ハチャトゥリアンといえば『剣の舞』が余りにも有名すぎてその他は交響曲第2番が少々知られているだけだが、彼の猛烈パワー大爆発の名曲といえばこのヴァイオリン協奏曲を措いて他にない。最初から最後までアルメニア民謡などから題材を得たエネルギッシュな旋律がこれでもかこれでもかと続く。第1楽章のダンプカーの疾走の如き強烈なテンションの高さもさることながら、特に終楽章の「バラによせて」の変奏によるロンドやアルメニア民謡「Kele-Kele」をSulGで朗々と歌い上げるあたりは曲自体の圧倒的な野生風味と併せて、アドレナリン垂れ流しの脳味噌暴走気味の気分にさせてくれる。
もし20世紀に書かれた曲だからというような理由でこの曲を聴くのを敬遠するならば、それは大きな損失であると思う。かくまでに「凶暴」に限りなく近い熱狂と躍動感溢れるヴァイオリン協奏曲はこの曲くらいなので、とりあえず聴け!

で、要求される演奏技術も実は結構高い(特にカデンツァは無茶苦茶難しい)この曲を聴くのなら、まずオイストラフ盤が筆頭だろう。以前メロディアから出ていた録音ではショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番も収録されていて、オイストラフのマッシフで正確無比の鋼の如き演奏を堪能するにはうってつけの名盤だったのだが、今は廃盤らしい。中古屋で見かけたらこちらを買いましょう。

ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(ミュンフン盤)

ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(ミュンフン盤)について。今度彼の指揮によるトゥランガリーラ交響曲を聴きに行くのでついでにレビュー。

学生時代N響の定期演奏会で聴いて、余りのテンションの高さに一発で折伏された曲です。

フィラデルフィア管といえばオーマンディ時代の健やかサウンド、という印象が余りにも強くてショスタコとかヘンツェとかペンデレツキみたいなドロドロ怨念皮肉悪意敵意てんこ盛りの曲にはあれ?という先入見というか印象あるいは偏見がどうしてもぬぐえない訳なんですが、技術水準は決して低いわけではなく、太鼓部隊の重低音大会ぶりは特筆すべきだし、並のオケなら第1楽章の弦楽プレスト突撃で崩壊するアンサンブルも、少々機動は鈍いものの何とか持ちこたえており立派。元々大音量でドカンドカン鳴らすのが得意なチョン・ミュンフンの棒もあって曲の外観をお勉強するには非常にまともな録音に仕上がっている。
……でも何か憎しみというか苦しみが足りない。有名なコンドラシン&モスクワフィルの演奏だと、実は弦楽セクションはあんまりうまくなくて音が濁って聞こえるところも結構あったりするのですが、演奏全体に漂うドス黒い緊張感が生み出す猛烈な負のエネルギーが、この曲の不幸な生い立ち(つかショスタコの曲には不幸な生い立ちの曲が多すぎて笑える)と曲自体が示唆する近代ロマン派音楽への軽蔑に似た構成や「マイスタージンガー」のパロディ的引用やマーラーの7番の引用等々と相俟って、ショスタコがシンフォニストとしてドイツロマン派に叩き付けた挑戦状のようなパワーと共にダンプカーの警笛のように聞こえてくるわけです。

総じて言うと、この録音はうまくまとまりすぎていて逆に破壊力を欠いている。時々音量指定を無視して金管群が爆発したりマッハ2.8で編隊飛行を行うMig31のような弦楽セクション等々、ソ連時代のモスクワフィルやレニングラードフィルの何と魅力的なことか。

この曲については少なくとも、もっと暴力的で恐ろしい演奏を聴きたいのですよ。

メシアン:トゥランガリーラ交響曲(ミュンフン盤)

そんなわけでチョン・ミュンフンが振っているトゥランガリーラの録音です。

グラモフォンでの彼の持ち上げ方は何というか(フィリップスが大いに利益を上げた)ポスト小沢征爾としての極東マーケットへグラモフォン印の浸透を図ろうとしているのがミエミエでなんか気持ち悪いのだが、少なくともメシアンの録音に関しては優れていると言えるだろう。特に本録音は録音に際してオリヴィエ・メシアンが立ち会っており、解釈については一定の水準は担保できていると考えていいと思う。但し、ハンス・ロスバウトが振った官能性のかけらもない別の意味で楽しい録音に関してもメシアンは結構褒めていたりするので、信頼性はムニャムニャ……かもしれないのだが。

で、演奏の内容は熱っぽく、テンポ自体は結構遅め。特に前後半の締めに当たる第5・第10楽章の演奏は非常に法悦度が高くてウットリできる。また、その他の楽章もイヴォンヌ・ロリオの高水準のピアノの演奏もあって、この広大無辺な交響曲をキッチリ仕上げていると思う。特に第6楽章とかは鳥の歌声を擬したピアノの音色と弦楽のアンサンブルの一体感がこの上ない多幸感を与えてくれること請け合いです。

ただ、敢えて難を言えばこの曲の一つの目玉であるオンド・マルトノの音色が少々小さいこと。原田節がオンド・マルトノを担当しているリッカルド・シャイー&コンセルトヘボウ盤ではこれでもかというくらいにオンド・マルトノが鳴りまくっていて結構楽しいので、できればその位派手目にやって欲しかったなあと思うのです。

そんなわけで今度の演奏会では原田節の演奏も楽しみだったりします。大昔に新星日響の演奏会で聴いたときもそれはそれは愉快に鳴らしていましたし(ちなみにその時の指揮は沼尻竜典、ピアノはミシェル・ベロフであった。今思えば素晴らしいメンツだ)。

2007年01月13日

ヴェブレン『有閑階級の理論』

ヴェブレンの『有閑階級の理論』を去年の暮れに読んだ。
今となっては彼の消費理論は別に目新しくも何ともないし、同著作に関する極めて鋭く広射程の批評はアドルノの「ヴェブレンの文化攻撃」(『プリズメン』所収)で読むことができるが、このような思想を大恐慌前のアメリカ社会に叩き付けた思想家がいたということは、人間の知性、就中批判的精神に対する一つの救いであるように思う。

消費が所属階級の優位性を表象するためだけのものであり、文化とは即ち階級の宣伝行為であるという彼の衒示的消費についての考えは、確かに所謂制度派経済学として硬直化して捉えるのであれば、消費についての機能的契機(つまり食事には当然見栄もあるが生命活動を維持するという働きもあるわけで)を無視してしまうことは当然批判として想定しうる内容である。だが、そんなつまらない批判を越えて『有閑階級の理論』が攻撃するのは、もう一つは古代の野蛮、即ち略奪的経済の痕跡が今日の社会では経済行動という形で反復されているということであろうと思う。つまり、大昔石器時代の人間が自然界からの獲得物を戦果と武功の象徴として誇示していた行動が、今日では消費という形、あるいは家政形態で反復されているのだ。ここにおいてヴェブレンが見いだすのは、一見都市文明の栄華のように思われる文化活動そのものの中にも実は野蛮の痕跡がはっきりと存在しているということである。むしろ殺戮を伴わないだけでその文化活動は尚更啓蒙された野蛮の体裁を保存しているといってもいいだろう。
こうして考えると、アドルノがこの著作の中にそうした契機を見いだして論じたのも、『啓蒙の弁証法』との連関においてなるほどなと思わされるところがあるように思う。

制度派経済学を社会学に応用して論じたものといえば近年ではピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』なんかがメジャーだし、記号論の本なんかを読めばこの手の話はいくらでもお目にかかることができるが、古典として、そして一見謀略や殺戮とは最も無縁に思われる「文化」に澱む暴力と野蛮の消しがたい証拠について考えるためにも、こういう本は読んで然るべきだと思う。

でも、階級と文化活動に何の相関もない(cf.苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)日本で暮らしてると、時にはそういう相関がある社会の方が色々と助かることがあるのにねえ、と思わないではないのもまた事実だったり、考え悩むことは少なくないのです。

2007年01月26日

東フィル定期演奏会:トゥランガリーラ交響曲

1/23、サントリーホールで行われた東フィルの定期演奏会に行ってきた。曲目はメシアンのトゥランガリーラ交響曲、指揮はチョン・ミュンフン、ピアノは横山幸雄、オンド・マルトノは原田節という、少なくともソリストレベルでは期待するなという方がおかしい素晴らしいメンツ。欲を言えばそりゃPfはアムランとかティボーデとかウゴルスキとかベロフがいいとか言えないでもないけれど、チョン・ミュンフンとバスティーユ管の名録音を知る人間にとっては、あるいは原田節がソリストを務めるシャイーとコンセルトヘボウ盤を知っていれば、この組み合わせは垂涎の的であろうと思う。

但しこの曲は長い。CDで聴いても1時間以上かかる代物だし、演奏会ではこれだけで90分は優にかかる。しかもメシアン独特の非逆行リズムが頻出するやら調性がヘンテコだったりするので、弾く側としては決して楽勝ではない。だからこそ生で聴いていい演奏会だとそれだけでシヤワセになれる官能大曲である。

で、23日の演奏会では、横山幸雄と原田節の名演が光った。メシアンのピアノ曲は超難曲で知られるものが多いが、とりあえずミスタッチらしいミスタッチはなく、第5・終楽章ではバリバリと弾いていていい感じだったように思う。原田節のオンド・マルトノも非常に手慣れた演奏で、特に第6楽章の「愛の眠りの園」ではウットリ感のある法悦溢れる音色をPfのコトドリの歌声と奏でていて美しいことこの上なかった。

ただ、問題はオケである。後半の楽章では弦の体力不足が露骨に目立ち、第8楽章以降のアンサンブルのガタガタさ具合はこれが果たしてプロの演奏なのかと疑うような崩壊寸前の危機も何カ所かあった。パーカス群もウッドブロックの奏者が何回か落ちたりするなど、集中力の低下が傍目にもはっきり分かる状態だった。金管隊が盛り上げ楽章では結構奮闘していたので終楽章のフィナーレではソツなく、しかも徹底的に長い嬰ヘの和音が官能大暴走でなかなかよかったが、全体としてはまとまりというか色彩を欠いたちょっとだらしのない演奏だった。そんなこともあって演奏後のカーテンコールではチョン氏もオケのメンバーを呼び戻すなどせず、各奏者を一人ずつ立たせるなどのこともせず、割とあっさりと終演でしたよ。確かにトゥランガリーラはプロオケでも手こずる超難曲というのは私でも知っているしスコア見たら卒倒しそうになるくらい複雑な曲だけど、そもそも東フィルだってプロなのだし、定期演奏会の割には決して安いチケットではなかっただけに、ちょっとガッカリ。

翌日のタケミツメモリアルホールでの演奏会はさすがに反省したのか、好意的な反応が多いようだ。会社から近いしサントリーホールでの演奏会だからという理由でこっちを選んだのはうまくなかったのだろうか。

ちなみに帰りにはロビーで売ってた原田節のアルバム『The garnet garden』を購入。前から探していたものだけに落手できて何より。

2007年01月29日

太田真紀 無伴奏ソロ・リサイタル『声』

先週の金曜日は、トーキョーワンダーサイト本郷にて催された太田真紀さんのソロ・リサイタルを聴きに行ってきた。会社から歩いていける距離というアクセスの良さもさることながら、ここは過去のイベントを見ても左大臣が大好きそうな現代美術や音楽のイベントを数多くやっていたわけで、こりゃ行かずにおれるかいなヒャッホウ! というわけでいろいろ調べてみたところ、ベリオとノーノの曲目を含む上記のリサイタルがあったわけです。曲目としては
・ベリオ:セクエンツァIII (女声のための)
・ヘスポス:ナイ
・河村真衣:結願(委嘱初演)
・ノーノ:照らし出された工場(光る工場)La Fabrica Illuminata
でした。ハンス=ヨアヒム・ヘスポスは名前しか知らず、曲を聴くこと自体初めてでしたよ。

リサイタルが催されていた場所は非常に狭く、せいぜいが30人くらいしか入れない(現代音楽のワークショップはこういうのが実に多い)ところでしたが、白石美雪氏や笠羽映子氏らしき現代音楽フリークにはおなじみの面々もポツポツと見えてミーハー心をかき立てられたり。まあ、次の時間帯のコンサートでカスティリオーニやケージの演奏があったというのもあるんでしょうが。

で、演奏の出来は素晴らしいといっても良かったんではないでしょうか。「セクエンツァ」は声量というか場所の残響がやや弱いため、特殊唱法が多発する箇所では表現が今ひとつ空回りするような残念なところも少しありましたが、概ね充実した内容だったと思います。
ヘスポスの曲は文字通りの初めてだったので、「こういう曲を書くんだねえ」以上の感想をもてなかったのは私の知識不足ゆえに他ならないのですが、まあ叫んだりわめいたり超絶的な表現が楽しい曲でした。で、最後に「無い」でガチョン。

「結願」はタイトル通り歌い手があちこちを移動しつつお経風の歌を歌うもの。お経と聞けば多くの人は多分某涅槃交響曲を思い出すだろうけれども、私もその例に漏れずカンパノロジーな世界に意識が飛びかけたり(笑)。

そして目玉はやはりラストのノーノの曲だろう。この曲は昼も夜もフル稼働のピカピカ工場の非人間的な状況をライブ・エレクトロニクスでもって強烈に批判した曲だが、26日の演奏ではライブ・エレクトロニクスを担当した有馬純寿氏の用意した素材が、ミラノ電子音楽スタジオでリマスタリングされた高品位の音源であったこともあり、もうグチャグチャドカーンバリバリバリバリドシーンウギャーな4chの音楽を堪能できた。ノーノのテープ音楽はマルチチャンネルなのでSACDの音源が全然ない(『力と光の波のように』のケーゲル盤は疑似3chであることに加えCCCDハイブリッドなのでクズ)現状を考えると、生で聞くしかないという状況なので、もう左大臣は大満足でした。太田氏の強烈な歌唱もこの曲でこそ活きるという感じであり、耳に乱暴な音の羅列の割には歌心がしっかり残るノーノの魅力を伝えていたと思う。

何せしかもこの晩の演奏会はチケット代がたったの1000円! 某のだめ演奏会なんぞに大枚はたくなら、絶対こっちを聴きに行った方がいいです。

折り込みチラシには「ハノン」の全曲演奏会という爆笑系のお知らせが入っていたり。大昔、オケの連中と「パールマンが弾いたセヴシック教本の録音とかあったらいいのにねー」と馬鹿な話をしたことがありましたが、いやはや、実際にやってしまう連中がいるとは。これも時間があったら行きたいですなあ。

そんなこんなでアフターリサイタルは大酒をかっくらってしまったのですが、翌日はしっかり「海の航跡」を鑑賞いたしましたのです。

2007年01月31日

シャルリー・ヴァン・ダム『無伴奏「シャコンヌ」』(原題:「ヴァイオリン奏者Le joueur de violon」)

『無伴奏「シャコンヌ」』をビデオからDVDに焼く過程で、データのチェックも兼ねて何回か見た。最後の場面では震えが止まらなかった。自分の卑小さがつくづく恥ずかしくなった。

----------------------

芸術なるものが功利追求、或いは「癒し」といった労働力再生産の手段に堕すようになって久しい。そこそこに耳当たりの良い、時として甘美かつ装飾性の高いものばかりが芸術としてもてはやされ、その知識を衒学的に振り回すことがさも教養であり、その人間が属する文化水準の高さを示すが如きである。棚に並ぶグラモフォンのCDはとりもなおさずその人間のディスタンクシオンであるというわけだ。
文化が経済の欺瞞の上に成立する、それは今となっては極めて当たり前なことなのかもしれない。経済的に成功した人間が、あるいは経済的な成功を求めるがために人口に膾炙した「文化活動」に人々が勤しむのはそれ自体としては別段不思議ではない。それが衒示的消費であり、大なり小なり形而上学的な世界のへの入り口というのはそうして開かれるものだ。

けれども、芸術や文化の崇高が単なるそのようなコミュニケーションのための通貨に成り下がる、あるいは単なる気晴らしのための消費財に変質してしまうとき、コミュニケーションの否定或いは破壊によってこそ成立する、より超越的なものに対する認識は跡形もなく消滅する。分かりにくいものは悪であり、そこそこに美しくないものは需要に一致しないとの理由で門前払いを食らう。我々は極めて多くの場合、そのような孤独やそれに伴って生じる貧困を恐れる余り、適当な言い訳を作っては自分を誤魔化して怠ける日和見主義を選択する。それでも文化的だとか教養あるだとかいうお体裁が取り繕えれば、ロマン派の音楽はそこそこ素敵だし、特にラフマニノフとかシューマンなんて綺麗でいいよねー、となる。マーラーの10番を愛好する人間は世間の機嫌を損ねる余りバイバイだ。

しかし本作品の主人公アルマンはそのような世界に徹底して背を向ける。バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中の「シャコンヌ」を、全ての地位を放擲し、地下鉄のコンコースで街頭演奏を続けるのだ。
何故「シャコンヌ」なのか、という説明は本作品ではバッサリと切り捨てられている。そんなことに理由を求める人間は最初からこの作品を理解する資格がないとでもいうかのように。そして、シャコンヌが美しいから、弾き手がそれを求めるから、という理由に逢着する思考方法は恐らく正しいかもしれないが、根本のところで間違ってもいる。崇高なまでに絶対的な事柄の前では、いかなる合理性の探究も無意味になるということをそのような思考方法は忘れているからだ。この作品においては、そしてアルマンにとっては、シャコンヌは一切の交換可能性を破壊するだけの絶対的な存在なのである。従って、人間が主人公なのではない。人間に呼びかけ、魂を引き攫っていくもの、それは本作品においては「シャコンヌ」なのである。そして、究極的に形而上のものであり、故に時間の終焉においても、或いは世界の終わりに於いてもその形姿を失わないシャコンヌは、アルマンにとっては今日的な音楽美学のヘゲモニーを徹底的に否定する救済の象徴でもある。即ち、彼にとってはこのような作品が存在することそのものが人間というものが魂に於いても存在するものに値するという信念の確信を形成している。もっと究極的にいえば、彼にとってはシャコンヌを否定するならばそれは人間の精神の否定でもあるのだ。楽器を叩き壊された場面で彼が魂柱を探すときの言葉「Ou est l'ame?」は「魂はどこだ?」と訳すことができる。そして物語の終盤で魂柱を狂人のように弄ぶアルマンの姿は、今日の音楽の惨状が「たましい」の忘却と表裏一体をなしていることのアレゴリーでもあるように私には思える。精神を、魂を甦らせるために、そして死によって不死へと逢着するがために、魂は再び安易な交歓や共有を否定する、無限に沈黙して奏でられ続ける響きの奥底へと歩まねばならない。この絶対的な孤独の極限においてのみ、垣間見える――あくまで垣間見えるでしかないのだが――奇跡の如き恩寵の瞬間は、全てのものを無価値にすると同時に、全ての存在者を一切の無価値さゆえに結びつけるのである。

この点を踏まえることで、この映画が首尾一貫した物語の展開という点では完全に破綻している必然性もようやく分かると思う。商品としての共約可能性を否定し去ることを前提とすること、それ自体を核心に据える本作品においては、妥当かつ最大多数の人を納得させるだけのカタルシスを伴う必要はもとよりない。ただ、アルマンにとって、シャコンヌが、彼の一切を破滅させつつも、それによってようやく彼の精神を、魂を全ての時間の中で屹立すべきものへと呼びかけているのだ、という圧倒的な衝撃が、我々の意識を粉砕してしまえば、実はそれ以上のものは何も必要なかったのである。

About 2007年01月

2007年01月にブログ「左大臣の読んだり聴いたり見たり色々記録」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年09月です。

次のアーカイブは2007年02月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。