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2007年02月 アーカイブ

2007年02月13日

エミール・ゾラ『ごった煮』

ルーゴン・マッカール叢書第10巻、『ごった煮』を読了。角川版は手に入れられなかったので、論創社版の新訳にて読んだ。

南仏プラッサンからパリに上京してきたオクターヴ・ムーレ(後の『ボヌール・デ・ダーム百貨店』の店主)が下宿することになったブルジョワアパルトマンのヴァフル館での滅茶苦茶な風紀紊乱ぶりと虚栄たっぷりの社交界の頽廃を描いた作品。話の筋はこれまた余り重要ではないが、虚栄と経済の分かちがたく絡み合った関係を、浮気し放題の社交界の現実をなぞることで描き出しているのが本書の見るべき点であろうと思う。

つまりだ。当時(そして恐らく現代も)ブルジョワ階級の地位は当然の如く経済力によって維持されるし、担保される。そして社交の場においてはそれは衒示的な消費を必要とするわけだ。結果、中級ブルジョワ階級の連中は相手により少しでも優位に立とうと、あるいは優位に立っているふりをするために、本質的には余り意味のない、装飾的な消費に傾倒していくことになる。本書でのジョスラン夫人と娘のベルトが完全にはまりこんでいるのは、まさしくこういう価値体系である。
これが次巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』ではさらにエスカレートし、買い物せずには主体性を維持できなくなってしまう女性達の病理が皮肉たっぷりに描かれているわけだが、当書ではその前段階ではあるものの、金が全てに優先するのだというガチガチにリアルで血も涙もないブルジョワ社会の現実が描かれている。

恐らく、このようなどうしようもない消費社会は、今日でも加速こそすれ消滅していないだろう。ヴェブレン的な意味での階級の証明としての消費という性質は多分に後退はしているのかもしれないが、相続財産目当ての骨肉の争いや夫婦関係そっちのけで浮気に精を出すくせに葬式の時だけ信心深くなる連中、そして使い捨て同然であるのにファッションに湯水の如く金銭をつぎ込んで少しでも自分を「シック」あるい「コケット」に見せたがる輩、そうした階級は今日もなお健在であるし、時と場合によってはそれがモードの中心であるかの如く振る舞っているらしいのだ。

ちなみに、その小説にはゾラその人と思われる人物が出てくる。他の登場人物との交流は皆無だが、この小説が発表された当時に巻き起こった騒動のことを考えるとなかなかに笑えるくだりも多いので、その辺りに留意してみるのもいいと思う。

2007年02月25日

ギヤ・カンチェリ『Lament』

ノーノつながりということで、カンチェリの『Lament』を聴いた。

カンチェリはグルジア出身の現代作曲家だが、この曲は元々共作する予定だったノーノの想い出に捧げられている。この録音でのヴァイオリン独奏は『未来のユートピア的ノスタルジー的遠方』などの初演をおこなったクレーメル。東欧系の作曲家の作品紹介では定評のあるECM New Seriesだが、この作品は実に痛々しい、ノーノの不在という事実を浮かび上がらせている。

ノーノが晩年、共産主義の退潮に伴って、創作意欲が枯渇するほどのショックを受けていたことはよく知られている。結果、『断章―静寂、ディオティマへ』や『旅する者よ、道はない、だが夢見ながら進まねばならない』といった極めて黙示録的な作品群を遺している。社会の革命はその本質において人間性の革新でなければならない、そうしたノーノの理念は、人間の内面、あるいは精神が存在する必要性の地平まで沈潜することで再度深化されていたのだ。だからこそ、晩年のノーノの作品は単なる政治アジテーション音楽ではなく、われわれ自身の認識そのものが物象化され平準化され、「非-場所」というユートピアを夢見る能力そのものが破壊されている事態を徹底的に無言の絶叫で切り裂く。

カンチェリの『Lament』は、彼なりの広漠とした音楽言語を用い、そうしたノーノの晩年の境涯の意味を彼の不在、喪失と共に嘆くでもなく静かに示す。マーヒャ・ドイブナーのソプラノは終結部でようやくハンス・ザールの詩を歌うが、それまでは時折思い出すかのような、夢を見るかのような歌詞が模糊として聴き取れない歌を弔いとして、口をついて語られる、晩年のノーノの問題意識に対する、覚束無い足取りの空虚に満ちた呟きを奏でる。そしてクレーメルのヴァイオリンは、ノーノの葬列を見送るヴェネツィア、あるいはわれわれ自身の心の中でたゆたう波の風景の音色のように揺れながら進んでゆく。

また、時折入ってくるオケのトゥッティの乱暴な音色は、かくの如きノーノの死を単なる追悼として捉えるような安易な喪の意識自体を斬りつけてくる。ノーノが死んだことを、嘆いてはいけないのだ。悲しんではいけないのだ。彼は我々に課題を、本来は共に考え合うべきであった極めて重大な、我々の精神自体の挫滅という問題を突きつけて、なお時間の彼方へと、風景の向こうへと背中を向けて歩いて行ってしまった。

夢を見なければいけないのだ、全く別な、この世界のどこにもない場所を、その兆しを微かに聴き取るためにも。そしてまさにその力こそが、今人間の精神において危機に瀕している。カンチェリの、この曲における極めて躊躇いがちな旋律の流れは、そのような問いかけの無力さを、分かち合うでもなく嘆き、訥々と語る。

ああ、我々は、聴くようなふりをして、結局何も聴いていないのだ。

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』

古本屋で見つけたエルヴェ・ギベールの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』を読了。

早い話がエイズにかかって死を意識して生きる著者の八つ当たり日記である。当時はまだ噂のレベルでしかなかったフーコーの死因がエイズであったことや、イザベル・アジャーニがいかにろくでなしであったか、等が情け容赦なく赤裸々に綴られている。

通り一遍の倫理感なら、こうした本を出すことに対しては反発もあるとは思う。このような著者側からの暴露は一種の欠席裁判に他ならないからだ。晒し者にされた人たちにとっては堪ったものではないだろう。だが、不治の病を、しかも(当時は少なくとも)極めて社会的偏見の強い病気を宣告され、死の恐怖と社会の理不尽さに震えながら生きていた著者の内面の絶望は想像するに余りある。そして後半に至るに従って明らかに平衡を失っていく彼の文体の崩壊は、彼自身の自殺を強く示唆する展開とも相俟って非常に苦しい。

苦しみ、悲しんでいるときに限って、人間というものは案外余所余所しく冷淡なものだ。他人は所詮他人なのだし、その事実はギベールだって私より数段よく分かっていたはずだ。だが、それ故にこそ、のギベールの孤独が胸に迫るのは私だけではないと思いたい。

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