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CD:クラシック現代 アーカイブ

2007年01月03日

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番(ムラヴィンスキー盤)

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番(ムラヴィンスキー盤)をディスクユニオンで見つけて落手して聴いた。

弦楽セクションの緊張感が極めて無茶苦茶に高いのがこの録音を名盤ならしめているのは以前から仄聞していたのだが、実際聴いてみると壮絶以外の何物でもない。中間の緩徐楽章もとりあえず緩いのはテンポだけで縦の線は死守して音量指示は数値化できるほど守っているという強烈さ。そして第4楽章のギチギチぶりは全然勝利の凱歌じゃないよこんなのむしろノルマ250%達成目指して昼夜の別なく働き続けるムキムキ労働者という気分にさせられる。他の指揮者の演奏に比べると相当速いテンポだし、そのテンポ自体も各所で相当に揺らしている(特にフィナーレは崩壊寸前までルバートしている)のだが、それでも一糸乱れぬ統率できっちりアンサンブルを縛り上げる第一ヴァイオリンはセル時代のクリーヴランドもかくありなんと思えるほど厳しい。
とにかく癒しとかヒーリングとかそういうたわけた思考は瞬時に粉砕されるような素晴らしい演奏。ハラショー。

でも録音としては咳やら何やらのノイズがちょっと気になったのでその辺りがちょっとペケ。

マーラー:交響曲第10番(クック版/ギーレン盤)

マーラー:交響曲第10番(クック版/ギーレン盤)をアマゾンにて落手して聴く。

クック版のマーラーの10番といえば、ラトル指揮のBPOライブ盤が定番と言われて久しいが、昨年発売されたこの録音もそれに負けず劣らず素晴らしい。

ギーレンと言えば現代音楽フリークにはおなじみの指揮者で、彼が昔振ったベートーヴェンの交響曲第5番の録音はケーゲルだってこんな解釈はせんだろうという水準の抜け殻演奏で、逆にノーノの『広島の橋の上で』とかの演奏は正確無比としか言い様のない実に的確かつテンションの高い素晴らしい録音に仕上がっているし、同じくノーノの『セリーに基づくカノン風変奏曲』とかリゲティの『レクイエム』の録音なんかも実にドライないい演奏としてごく一部で評価が高い。
と言うわけで本録音はどうせ重油のようなマーラーの苦悩をあっさりそぎ落とした骨組みだけの即物主義の極北のような演奏かな……と高をくくっていたら大違いなのでこうしてレビューを書いている次第です。

確かに、ギーレンのタクトさばきはインバルなんかの演奏と比べると圧倒的に主観性が足りない。だが、そこにはマーラーの晩年の懊悩から倫理的に距離を置こうとするギーレンの節度ある解釈態度が伺えるように思える。歌うべき所は確かに歌い込んでいるのだが、すすり泣きを分かち合うような共感ではなく、あくまで4メートルほどマーラーから離れてマーラー最晩年の肖像を、ギーレンの視点から彫琢しようとしているように感じられるのだ。

演奏は総じて丁寧に音符を追っており、主観性に流れてスコアの音価を蔑ろにしていることはないし、音符間のアーティキュレーションはわざとあっさり目で鋭角的な鳴らし方をしている。このあたりはギーレン節といった感じ。特に中間楽章はそのドライさが逆にマーラーの躁状態の悲しさを的確に示しているように思う。そのキッチリした演奏は彼の楽しげな表情自体がなにか浮薄であるという迷い、怯えを感じさせてくれる。

そして終楽章。大太鼓の一撃が素晴らしい。自らをこの世から引きずり攫っていく死神の弔鐘のように響く凄絶な一撃。スフォルツァンドかつ余韻を抑えた鳴らし方(マーラーの指示通りではあるのだが)がこの世界からの別離の虚無の深淵を恐ろしい程に刻印してくれる。それに続くフルートのソロは比較的自由に歌い込んでいたパユに比べるとやや固い印象はあるものの、乾いた印象を持続させるという点では効果が大きい。

そして最後の弦セクションの13度の跳躍も艶がありつつ寂寥感と諦念が無限に滲み出てくる穏やかさ。ああ、マーラーは、第1楽章のオーケストレーション作業をしていた頃はまだこの世にいたマーラーはもうこの世にいないのだな、永遠に手の届かない彼方へと旅立ってしまったのだな、という切ないほどの喪失感を与えてくれる。

文句なしにお勧め。聴け。

2007年01月05日

ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲(オイストラフ盤)

ハチャトゥリアンの芸術2 〔ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲〕オイストラフ(vn)ペトロフ(p)ハチャトゥリアン/ロシア国立so. 他から、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲について。

ハチャトゥリアンといえば『剣の舞』が余りにも有名すぎてその他は交響曲第2番が少々知られているだけだが、彼の猛烈パワー大爆発の名曲といえばこのヴァイオリン協奏曲を措いて他にない。最初から最後までアルメニア民謡などから題材を得たエネルギッシュな旋律がこれでもかこれでもかと続く。第1楽章のダンプカーの疾走の如き強烈なテンションの高さもさることながら、特に終楽章の「バラによせて」の変奏によるロンドやアルメニア民謡「Kele-Kele」をSulGで朗々と歌い上げるあたりは曲自体の圧倒的な野生風味と併せて、アドレナリン垂れ流しの脳味噌暴走気味の気分にさせてくれる。
もし20世紀に書かれた曲だからというような理由でこの曲を聴くのを敬遠するならば、それは大きな損失であると思う。かくまでに「凶暴」に限りなく近い熱狂と躍動感溢れるヴァイオリン協奏曲はこの曲くらいなので、とりあえず聴け!

で、要求される演奏技術も実は結構高い(特にカデンツァは無茶苦茶難しい)この曲を聴くのなら、まずオイストラフ盤が筆頭だろう。以前メロディアから出ていた録音ではショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番も収録されていて、オイストラフのマッシフで正確無比の鋼の如き演奏を堪能するにはうってつけの名盤だったのだが、今は廃盤らしい。中古屋で見かけたらこちらを買いましょう。

ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(ミュンフン盤)

ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(ミュンフン盤)について。今度彼の指揮によるトゥランガリーラ交響曲を聴きに行くのでついでにレビュー。

学生時代N響の定期演奏会で聴いて、余りのテンションの高さに一発で折伏された曲です。

フィラデルフィア管といえばオーマンディ時代の健やかサウンド、という印象が余りにも強くてショスタコとかヘンツェとかペンデレツキみたいなドロドロ怨念皮肉悪意敵意てんこ盛りの曲にはあれ?という先入見というか印象あるいは偏見がどうしてもぬぐえない訳なんですが、技術水準は決して低いわけではなく、太鼓部隊の重低音大会ぶりは特筆すべきだし、並のオケなら第1楽章の弦楽プレスト突撃で崩壊するアンサンブルも、少々機動は鈍いものの何とか持ちこたえており立派。元々大音量でドカンドカン鳴らすのが得意なチョン・ミュンフンの棒もあって曲の外観をお勉強するには非常にまともな録音に仕上がっている。
……でも何か憎しみというか苦しみが足りない。有名なコンドラシン&モスクワフィルの演奏だと、実は弦楽セクションはあんまりうまくなくて音が濁って聞こえるところも結構あったりするのですが、演奏全体に漂うドス黒い緊張感が生み出す猛烈な負のエネルギーが、この曲の不幸な生い立ち(つかショスタコの曲には不幸な生い立ちの曲が多すぎて笑える)と曲自体が示唆する近代ロマン派音楽への軽蔑に似た構成や「マイスタージンガー」のパロディ的引用やマーラーの7番の引用等々と相俟って、ショスタコがシンフォニストとしてドイツロマン派に叩き付けた挑戦状のようなパワーと共にダンプカーの警笛のように聞こえてくるわけです。

総じて言うと、この録音はうまくまとまりすぎていて逆に破壊力を欠いている。時々音量指定を無視して金管群が爆発したりマッハ2.8で編隊飛行を行うMig31のような弦楽セクション等々、ソ連時代のモスクワフィルやレニングラードフィルの何と魅力的なことか。

この曲については少なくとも、もっと暴力的で恐ろしい演奏を聴きたいのですよ。

メシアン:トゥランガリーラ交響曲(ミュンフン盤)

そんなわけでチョン・ミュンフンが振っているトゥランガリーラの録音です。

グラモフォンでの彼の持ち上げ方は何というか(フィリップスが大いに利益を上げた)ポスト小沢征爾としての極東マーケットへグラモフォン印の浸透を図ろうとしているのがミエミエでなんか気持ち悪いのだが、少なくともメシアンの録音に関しては優れていると言えるだろう。特に本録音は録音に際してオリヴィエ・メシアンが立ち会っており、解釈については一定の水準は担保できていると考えていいと思う。但し、ハンス・ロスバウトが振った官能性のかけらもない別の意味で楽しい録音に関してもメシアンは結構褒めていたりするので、信頼性はムニャムニャ……かもしれないのだが。

で、演奏の内容は熱っぽく、テンポ自体は結構遅め。特に前後半の締めに当たる第5・第10楽章の演奏は非常に法悦度が高くてウットリできる。また、その他の楽章もイヴォンヌ・ロリオの高水準のピアノの演奏もあって、この広大無辺な交響曲をキッチリ仕上げていると思う。特に第6楽章とかは鳥の歌声を擬したピアノの音色と弦楽のアンサンブルの一体感がこの上ない多幸感を与えてくれること請け合いです。

ただ、敢えて難を言えばこの曲の一つの目玉であるオンド・マルトノの音色が少々小さいこと。原田節がオンド・マルトノを担当しているリッカルド・シャイー&コンセルトヘボウ盤ではこれでもかというくらいにオンド・マルトノが鳴りまくっていて結構楽しいので、できればその位派手目にやって欲しかったなあと思うのです。

そんなわけで今度の演奏会では原田節の演奏も楽しみだったりします。大昔に新星日響の演奏会で聴いたときもそれはそれは愉快に鳴らしていましたし(ちなみにその時の指揮は沼尻竜典、ピアノはミシェル・ベロフであった。今思えば素晴らしいメンツだ)。

2007年02月25日

ギヤ・カンチェリ『Lament』

ノーノつながりということで、カンチェリの『Lament』を聴いた。

カンチェリはグルジア出身の現代作曲家だが、この曲は元々共作する予定だったノーノの想い出に捧げられている。この録音でのヴァイオリン独奏は『未来のユートピア的ノスタルジー的遠方』などの初演をおこなったクレーメル。東欧系の作曲家の作品紹介では定評のあるECM New Seriesだが、この作品は実に痛々しい、ノーノの不在という事実を浮かび上がらせている。

ノーノが晩年、共産主義の退潮に伴って、創作意欲が枯渇するほどのショックを受けていたことはよく知られている。結果、『断章―静寂、ディオティマへ』や『旅する者よ、道はない、だが夢見ながら進まねばならない』といった極めて黙示録的な作品群を遺している。社会の革命はその本質において人間性の革新でなければならない、そうしたノーノの理念は、人間の内面、あるいは精神が存在する必要性の地平まで沈潜することで再度深化されていたのだ。だからこそ、晩年のノーノの作品は単なる政治アジテーション音楽ではなく、われわれ自身の認識そのものが物象化され平準化され、「非-場所」というユートピアを夢見る能力そのものが破壊されている事態を徹底的に無言の絶叫で切り裂く。

カンチェリの『Lament』は、彼なりの広漠とした音楽言語を用い、そうしたノーノの晩年の境涯の意味を彼の不在、喪失と共に嘆くでもなく静かに示す。マーヒャ・ドイブナーのソプラノは終結部でようやくハンス・ザールの詩を歌うが、それまでは時折思い出すかのような、夢を見るかのような歌詞が模糊として聴き取れない歌を弔いとして、口をついて語られる、晩年のノーノの問題意識に対する、覚束無い足取りの空虚に満ちた呟きを奏でる。そしてクレーメルのヴァイオリンは、ノーノの葬列を見送るヴェネツィア、あるいはわれわれ自身の心の中でたゆたう波の風景の音色のように揺れながら進んでゆく。

また、時折入ってくるオケのトゥッティの乱暴な音色は、かくの如きノーノの死を単なる追悼として捉えるような安易な喪の意識自体を斬りつけてくる。ノーノが死んだことを、嘆いてはいけないのだ。悲しんではいけないのだ。彼は我々に課題を、本来は共に考え合うべきであった極めて重大な、我々の精神自体の挫滅という問題を突きつけて、なお時間の彼方へと、風景の向こうへと背中を向けて歩いて行ってしまった。

夢を見なければいけないのだ、全く別な、この世界のどこにもない場所を、その兆しを微かに聴き取るためにも。そしてまさにその力こそが、今人間の精神において危機に瀕している。カンチェリの、この曲における極めて躊躇いがちな旋律の流れは、そのような問いかけの無力さを、分かち合うでもなく嘆き、訥々と語る。

ああ、我々は、聴くようなふりをして、結局何も聴いていないのだ。

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