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本:小説(フランス) アーカイブ

2007年01月03日

エミール・ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』

論創社版『ボヌール・デ・ダム百貨店』を読んだ。

話のメインの筋ははっきり言ってハーレクインロマンス級のどうでもいい恋愛物語なのでつまんないの極みなのだが、ボヌール・デ・ダム百貨店(つまり大規模小売業)が周囲の零細小売業を片っ端から蹂躙していく様子は実にリアルで圧巻である。いわゆる街の洋品店みたいな傘職人、帽子屋等がなぎ倒され、ボーヌ・デ・ダム百貨店に立ち向かうべく廉売競争に突入した生地屋は大赤字を出した挙げ句店主は破産して自殺未遂。そこそこ手堅い商売をしていたボーデュのラシャ屋は婿養子に決めていた男コロンバンがデパートの店員に恋慕して身を持ち崩し、店主の娘ジュヌヴィエーヴは悲嘆の余り死んでしまう。「百貨店」は彼らから利益を奪い去ったのみならず、人生の一切を根こそぎ奪っていく。この猛烈な資本の暴力こそが実は現在のパリの美しい景観を作り上げた原動力であったという歴史の皮肉は、彼の地を旅する人間なら胸に刻んでおいて損はない。
そしてかの百貨店が編み出したマーケティング手法、即ち「女性を徹底的に収奪せよ」という戦略は、そっくりそのまま今日の日本でも生きている。某地下鉄のイメージ広告が片っ端から例外なく買い物マニアの女性を美化・礼賛することによって東京の都市空間のみすぼらしく醜く薄汚く排他的で狭苦しく陋劣で物価と住居費が高く人間性を太平洋に打ち棄ててしまっているダメダメさを隠蔽しているのもそういう搾取の文法に則っているのだ。そして岐阜市の中心部は今日もゴーストタウンで、人がいるのは金津園の周りばかりなり、ということになっているのだ。

2007年01月05日

エミール・ゾラ『ルーゴン家の誕生』

エミール・ゾラ『ルーゴン家の誕生』をとりあえず読んでみたのでレビュー。

ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」は本書『ルーゴン家の誕生』からスタートする。第二帝政期に興隆の端を発するルーゴン家がいかにしてのし上がっていったのかという話を軸に、もう一方の家系マッカール家出身のシルヴェールが南仏動乱に参加して結局は憲兵に捕まって銃殺されて脳漿を墓場にぶちまけるという話が展開されている。で、今も南仏、特にプロヴァンス~コート・ダジュール地方は国民戦線(FN)なる極右政党にとってはおいしい票田であったりもするのだが、ピエール・ルーゴン夫妻が主宰する(正確には主宰するように焚き付けられるのだが)南仏プラッサン市という田舎町の黄色いサロン@ルーゴン邸に集う保守反動のブルジョワ連中の話題の水準の低さや思考方法の陋劣ぶりは自然主義の面目躍如という感じで実にリアルかつおぞましさをかなり正確に伝えてくれている。また、もう一方のマッカール家の流れの連中は別の意味で破綻の極みにあって、有名な『ナナ』の主人公アンナ・クーポーはこの流れに属するのだが、本書ではアントワーヌ・マッカールのヒモっぷりが見事という他ない。でも、こういう話が出版当時突飛な絵空事と叩かれなかったということは、こんな人間は下層階級を訪ねればゴロゴロしていたということなのだろう。

それはさておき、本書で光るのは少女ミエットの余りにも可哀相な生き様と死に様である。彼女はシルヴェールの恋人なのだが、まず生い立ちが不幸。父ちゃんが殺人犯の嫌疑を掛けられて牢獄にぶち込まれ、一応叔母の所に引き取られるのだがその叔母がぽっくり死んでしまい義父とその息子ジュスタンに徹底的に酷使されていじめ抜かれる。ええ、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネリーの話でも私はグッと来てしまったわけですが、分かり切ってても私はこういう出自のヒロインの話に弱いです。もう同情度170%です。で、彼女は頭のいかれたアデライード・フークばあさんと暮らしていた(母親は肺結核で死に、父親は悲嘆の余り自殺していたので)大工見習いのシルヴェールと恋に落ちるわけです。出会った当時まだ13歳だったミエットとほんの少し年上に過ぎなかったシルヴェールの逢い引きのシーンは、悲惨なという形容が陳腐すぎるくらいの残酷な日々のなかで、自分を理解し共に生きていこうとする生命を見出したときの二人の痛々しいくらいの瑞々しい喜びが胸を打つのです。それでもってシルヴェールと出奔して山の中で二人で将来の希望を語り合う場面。その後赤い旗を掲げて人々の先頭に立つもあっさりと撃ち殺されてしまい、パスカル博士とシルヴェールの見守る中で息を引き取る場面。もうこれでもかこれでもかとミエットの幸薄さが読む者の精神を揺さぶりにかかります。そしてその後生きる希望を失ったシルヴェールもあっけなく捕縛され、かつて自分が片眼を潰した憲兵によって殺される。
確かに頭はあんま良くなかったけれど純粋で将来への希望があったシルヴェールと、彼に自分の人生の喜びの一切を託そうとしていたミエット。二人は幸せにならなきゃいけないのに何でだ!という怒りが、ルーゴン夫妻、特にフェリシテの腹黒いマキャベリズムやピエールの愚鈍な虚栄心たっぷりの俗物ぶり、そしてアントワーヌ・マッカールのダメ人間に対して沸き起こります。

けれどもこの話って、150年も昔の社会を舞台にしているわけです。にもかかわらずその実相というか生々しさがここまで伝わって来るというのは、さすがゾラというべきです。『ナナ』とか『ジェルミナル』とか『居酒屋』あたりでゾラの世界に触れた人は、読んでみても損はないと思います。

2007年02月13日

エミール・ゾラ『ごった煮』

ルーゴン・マッカール叢書第10巻、『ごった煮』を読了。角川版は手に入れられなかったので、論創社版の新訳にて読んだ。

南仏プラッサンからパリに上京してきたオクターヴ・ムーレ(後の『ボヌール・デ・ダーム百貨店』の店主)が下宿することになったブルジョワアパルトマンのヴァフル館での滅茶苦茶な風紀紊乱ぶりと虚栄たっぷりの社交界の頽廃を描いた作品。話の筋はこれまた余り重要ではないが、虚栄と経済の分かちがたく絡み合った関係を、浮気し放題の社交界の現実をなぞることで描き出しているのが本書の見るべき点であろうと思う。

つまりだ。当時(そして恐らく現代も)ブルジョワ階級の地位は当然の如く経済力によって維持されるし、担保される。そして社交の場においてはそれは衒示的な消費を必要とするわけだ。結果、中級ブルジョワ階級の連中は相手により少しでも優位に立とうと、あるいは優位に立っているふりをするために、本質的には余り意味のない、装飾的な消費に傾倒していくことになる。本書でのジョスラン夫人と娘のベルトが完全にはまりこんでいるのは、まさしくこういう価値体系である。
これが次巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』ではさらにエスカレートし、買い物せずには主体性を維持できなくなってしまう女性達の病理が皮肉たっぷりに描かれているわけだが、当書ではその前段階ではあるものの、金が全てに優先するのだというガチガチにリアルで血も涙もないブルジョワ社会の現実が描かれている。

恐らく、このようなどうしようもない消費社会は、今日でも加速こそすれ消滅していないだろう。ヴェブレン的な意味での階級の証明としての消費という性質は多分に後退はしているのかもしれないが、相続財産目当ての骨肉の争いや夫婦関係そっちのけで浮気に精を出すくせに葬式の時だけ信心深くなる連中、そして使い捨て同然であるのにファッションに湯水の如く金銭をつぎ込んで少しでも自分を「シック」あるい「コケット」に見せたがる輩、そうした階級は今日もなお健在であるし、時と場合によってはそれがモードの中心であるかの如く振る舞っているらしいのだ。

ちなみに、その小説にはゾラその人と思われる人物が出てくる。他の登場人物との交流は皆無だが、この小説が発表された当時に巻き起こった騒動のことを考えるとなかなかに笑えるくだりも多いので、その辺りに留意してみるのもいいと思う。

2007年02月25日

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』

古本屋で見つけたエルヴェ・ギベールの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』を読了。

早い話がエイズにかかって死を意識して生きる著者の八つ当たり日記である。当時はまだ噂のレベルでしかなかったフーコーの死因がエイズであったことや、イザベル・アジャーニがいかにろくでなしであったか、等が情け容赦なく赤裸々に綴られている。

通り一遍の倫理感なら、こうした本を出すことに対しては反発もあるとは思う。このような著者側からの暴露は一種の欠席裁判に他ならないからだ。晒し者にされた人たちにとっては堪ったものではないだろう。だが、不治の病を、しかも(当時は少なくとも)極めて社会的偏見の強い病気を宣告され、死の恐怖と社会の理不尽さに震えながら生きていた著者の内面の絶望は想像するに余りある。そして後半に至るに従って明らかに平衡を失っていく彼の文体の崩壊は、彼自身の自殺を強く示唆する展開とも相俟って非常に苦しい。

苦しみ、悲しんでいるときに限って、人間というものは案外余所余所しく冷淡なものだ。他人は所詮他人なのだし、その事実はギベールだって私より数段よく分かっていたはずだ。だが、それ故にこそ、のギベールの孤独が胸に迫るのは私だけではないと思いたい。

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