さまざまな言説=駄弁の混乱についての速達

(12/5)


N君へ
柏、1998年12月5日

メールありがとう。
実際のところ、直メールでもらう感想の類は非常に肯定的な内容のものが多くて、それぞれのホームページで攻撃的な罵詈雑言をクダ巻いている人々はごく少数というのが実状なのだけれど、まあそういうのを読むと悲しい気持ちになるのは事実だね。

で、インターネットがもたらした功罪の一つが、ここには現れていると思う。現実問題として、大多数の日本人(ここでいうのは、日本国籍を有している人、という意味)は言葉を具体的にどう使うか、ということに関しての教育を受けていない。大学受験などで小論文が科目に上るようになって初めて、言葉を自覚的に使うとはどういうことなのか、を考えさせられるわけだけれど、そんなものに無縁な人生を送っている人たちの方が圧倒的に多いというのが世間というものだ。だから、言葉を使うということに対して、その持つ力がいかなるものであるのか、を全く知らない人は実に多い。だから言葉の力に頼らずに安易に暴力に走ってしまったり、すぐ喧嘩腰になる人たちは実に多い。昨今の中学生たちのようにね。

そのような問題が現実社会には厳然として横たわっているのにもかかわらず、インターネット、とりわけWWWの流行は、誰彼構わず、その資格を問わず、言葉を発することを可能にした。以前は印刷媒体という形でアウラに包まれていた著作者というステージが、電子メディアという形で多くの人に開かれた、ということになる。
このこと自体は歓迎すべきことかもしれない。というのも、博士論文は出版された形式のものでしか受け付けないという頭の固い大学院はいまだに多いけれども、それを劇的に改変する可能性をWWWは持っているし、ヨーロッパと日本では学問の流れに数年分のタイムラグが常に存在しているが、それを解決する可能性をこの電子の網は持っているからだ。実際僕もAmazon.comやFnac sur le Webなどには何度もお世話になっているし、外国のアーカイブを調べることもたまにだけれどもある。ル・モンドをオンラインで読めるのはこれまた実に有難いしね。しかしヤーヌスが両面神であるように、この「革命」は二つの側面を持っている事を忘れてはならないだろう。一つは当然のごとく、マスメディアを含む数多くのタブーや障壁にとらわれない自由な発信が可能になったということ。このことによって僕たちが情報を得る機会は爆発的に増えたし、卑近な話ではポルノに関しては事実上日本の法律は意味をなさなくなりつつある。また、最近議論がかまびすしい盗聴法案も、PGPなどのおかげでどうせザル法になるであろう事は明らかだ。そのような形でもカウンターカルチャーへの契機をもたらしたという点でもインターネットは評価されるべきだろう。新聞がいかに偏向的な報道をしているか(特に右派のメディア)、ということもインターネットのお陰で自明のものになりつつある。それは電子による『千のプラトー』の臨現といってもいいだろう。

が、もう一方のネガティブな側面を忘れてはいけない。そしてそれこそ僕たちが直面して考えなければいけない、もっともアクチュアルな問題の一つだ。それは、先にも述べたように言葉での表現に習熟していないひとが無思慮に表現のフィールドに足をつっこむということだ。例えて言うならば、それは料理の何たるかを知らない人に包丁を持たせるようなものなのだ。ごく稀には偶然に任せて何かいいものができるかも知れないが、まずおおよそのところ、できる料理といったらどうしようもないものだし、時には包丁を人に投げつけて怪我をさせることもあるだろう。大衆が往々にして立ち入るのはそうした行為だ。そしてオルテガが『大衆の反逆』で明らかにしたように、現実には知識人(知識人という概念は既に廃れて久しいことは僕もよく知っているが)よりも大衆の方が何かと「意見」を言って介入した積もりになりたがるという傾向によって拍車をかけているから、WWWも含めて、言論に関わる事態は悪化する一方だ。残念ながらWWW上の素人の読み物には日記以外には読むに耐えないものが多いけれども、それはこうした理由による(そして僕が日記をホームページに載せないのも、そのようなバカバカしさを嫌ってのことであることは以前にも君に口頭で説明したことがあったように思う)。

だから、インターネットにおいて何かを言う場合、僕のケースのようなトラブルに巻き込まれることは必然であるといってもいいだろう。だからといってそれに挫けるわけにはいかない。むしろ、それらに渦巻く蒙昧を徹底的に粉砕するのが僕たちの使命だ。僕は共通認識をもたらすために意見を言っているつもりは残念ながらないのだけれど、言葉による、言葉での議論の終わらない継続(これをリオタールは「争異」といっている。この概念には色々な批判があるが、詳しくは『文の抗争』を参照のこと)こそが、実は平和のメシア的本質であるからこそ、言葉は連ねられる価値がある。みんなニコニコ、という全体論的調和による平和は、実際のところ他者を暴力でもって排除するという思考様式の上に成り立っている。だからこそ、それらをうち砕くために今世紀の思想家、特に第二次大戦後の思想家達はヘーゲルの思想と格闘しているのだけれども、少なくとも「知」の現場にふれあっている僕たちはそのような事情を承知の上で、大衆が持つ言説=駄弁の不毛さにくさびを常に入れ続けていかねばならない。それこそが、知の持つ本質的な倫理であり、僕たちにとっての義務だからだ。
無論、ホルクハイマーとアドルノがオデュッセイアを分析して僕たちに示してくれたように、認識と文化の享受には社会的分業によって成立する水準の差があることは僕も十分了解している。だが、かといって、僕たちは相対主義に甘んじて彼らを放置していくわけにはいかない。それは言葉の死、つまるところ知の倫理の破産を意味するからだ。だから、知の倫理とは僕たち自身が傷つくことを求めていさえする。しかしそれは、エデンと名づけられたインファンティアで、知恵の実を生命の実の代わりに選び取った僕らの、避けられない運命なのかもしれない。

問題解決を志向するのはまだ早いであろうと僕は思う。むしろ、大切なのは、問題が存在することを、白日の下に曝すことによって、彼方の他者へと言葉を紡ぐことの意義を痛感させる表現をつなげていくことであろうと思う。そうだ、そうだ、そうだ。

少々長くなってしまったけれど、今日はこの辺で。

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