(書評)『監視ゲーム― プライヴァシーの終焉 ―
ウィリアム・ボガード著・田畑暁生訳(アスペクト社・¥2800)


未来を描いたサイバーパンクのSF小説や映画、時にはゲームにおいて必ずといっていいほどキーワードとして出てくるのは「管理」の全面的発展である。『未来世紀ブラジル』然り、『1987年』然り。そしてそこで枢要な管理者の役割を果たすのは、これまたコンピュータであることも多くの言を俟つまでもないことだ。そしてそれらの物語では主人公達はそれらのシステムを内部からの崩壊を仕掛けることによって突破していくのが典型になっているが、このようなありかたは昨今のインターネットの普及によって少しずつ自明のものになりつつある。そして、このような状況の中で、かつて大澤真幸が『電子メディア論』で指摘したような身体性の変容、そしてそれとカードの表裏でもあるプライヴァシーの概念も、旧来のそれでは把握不可能な形に、推移してきている。
ウィリアム・ボガードの著書『監視ゲーム』(原題:The Simulation of Surveillance Hypercontrol in Telematic Societies)はそれらの状況、およびテクノロジーの今後あるであろう発展を認識射程に入れた上で、ジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』や『透き通った悪』を通じて展開される「リアル」と「ハイパーリアル」の問題をフーコーの『監獄の誕生』におけるパノプティコンの問題などと関連させて展開させている。そこで基調テーマとなるのはテクノロジーの発展がプライヴァシーの概念をいかに変容させたか、そしてそれらに対しての未来の在り方、である。
本書の論点はボードリヤール的ハイパーリアル論や「ペリューク」労働論など多岐に渡っていて、またそれぞれが複雑に錯綜しているので総括的に評じることは難しいが、本書のタイトルでもある「監視」について言えば、テクノロジー、とりわけコンピュータによるコミュニケーション技術が今日のように発展してくると、「監視する」という行為はただ単に一方通行の管理技術ではなく、同時にこちらからも「監視されていることを知る」という技術にもなる。それらはつまるところ仮構された相互監視という形で既存の監視をハイパー化していくわけだが、これは既存の管理の延長線上にあり、且つ又ハイパーリアル的であるので、ボードリヤールの言うような「リアル」はますます意味を失っていく事になる。まさにこれは『アメリカ』でボードリヤールがアメリカの未来形として暗示することと相似関係にあるといっていいだろう。
では、ボガードの議論は単なるボードリヤールのシミュラークルかというと、私にはそうは思われず、若干毛色の違いがあるように感じられる。それはボードリヤールの、特に前期の消費社会論がどちらかといえば理論社会学的色彩が濃く、消費社会の有り様を描出するといった傾向が強いのに対し、本書はそれに立脚した上で未来のハイパー管理社会を展望しようという意欲がうかがえるからだ。ボードリヤールがそれらを他者の喪失とラディカルな他者の出現という形で片づけようとしているのに対し、ボガードのそれはもっと熱心に、それらと格闘しようとしている様がうかがえる。
が、それゆえに難点がないとは言い切れない。ボガードの議論は未来に向かっての展望を開こうとするがために、どうしても新しいテクノロジーを摂取していかねばならない。そしてそれは現在研究中のものはおろか、サイバーパンク小説に出てくる未知のテクノロジーまで題材にする必要が出てきてしまう。無論、そこで採用されるテクノロジーは理論的には実現不可能なものは除外されているが、例えばウィリアム・ギブスンの作品に出てくる脳直結型のインターフェースや完全なヴァーチャル・リアリティが議論の題材として取り込まれているのである。
しかしそれには明らかに無理がある。やはり、私には、実現されているテクノロジーと実現されるかもしれないテクノロジー、そして理想的だが実現不能なテクノロジーは峻別されなければならないように思われるのである。なぜなら、実現されるであろうテクノロジーとは基本的に現在のテクノロジーの延長線上にあるのであって、インターネットもまたその一種に過ぎないからである。それらがもたらした諸々の事柄の変容をたどり、現状をもう一度地道に考察する事から、未来への道筋も説得力を持った形で展開しうるのではないだろうか。
それから疑問に思う点がもう一つある。それは、このようにして展望されたハイパー管理社会の限界に関する彼の見方である。彼はそれについて完成されたシステムはそれゆえにその限界をあらわにするとしているが、これではボードリヤールの『透き通った悪』や『世紀末の他者たち』で触れていることとさして変わりない。
いずれにせよ、本書は情報テクノロジーが我々のプライヴァシーをいかに変容させ、それはどのようなリアルへと我々を導いていくのか、という事を精緻な議論で考察しぬいた良書である。ボードリヤールが湾岸戦争以降ただの評論家兼写真家になってしまったことを考えれば、このような消費社会論をリアルタイムで展開し、またそれに対する問題意識を投げかけてくれるボガードは、我々にとって貴重な論客の一人と呼んでいいだろう。



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