『THE END OF EVANGELION』を観てきました
(7/21)

今日、『THE END OF EVANGELION』を観てきました。内容については敢えて触れないことにしますが、登場人物の帰趨についてはほぼ某所で書いた予想通りだったので、やっぱりな、という気がしないでもありません。特にラストシーンについては。
しかしそれでも全体としては「満足、ごちそうさん」といえる出来に仕上がっていると思えます。特に第26話『まごころを、君に』の後半の練り込み方は凄まじいものがあります。詰め込まれている情報量が一般的な映像表現の比ではないので、頭の中の回転速度を上げて観ていないと何が何だか分からないでしょう。決して万人向けのものではありません。某『ヘラクレス』のように洟垂れ小僧が観て分かるような代物ではありません。

というわけで、今回の『新世紀エヴァンゲリオン』の完結を機に、ある程度思ったことをつらつらと書いてみようかと思います。
(以下、用語については一切解説を設けません。詳しい人にでも聞いてください)

★「マルドゥック機関」としての詰め込まれた謎の数々
『新世紀エヴァンゲリオン』(以後『エヴァ』)には数々の謎というか寓意的な神秘主義的モチーフがやたら出てくる。まず物語の基調テーマをなす「人類補完計画」。さらにオープニングにも出てくる「セフィロトの木(セフィロティック・ツリー)」。「裏死海文書」。正体不明のバリアー状の機構「ATフィールド」。敵として現れるがその正体は全く謎の「使徒」。そして何よりもその駆動システムから何から何まで分からないことだらけの汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオン(特に初号機)。テレビのニュース番組などではこれらがこのアニメの最大の魅力であるといっているようである。
確かに、これらの神秘主義的モチーフは魅力的ではある。元々、オカルティズムは人を惹きつけずにはおかないある物を常に持っており、そのもつヘルメス主義的性格は我々の知的好奇心をくすぐらずにはおかない。そしてそれは興味のない人にとっては何の意味もないし、そもそも興味の対象にすらならない。
だが、これらは『エヴァ』においては統一的意味を成しているわけでは全くない。むしろ、「セフィロトの木」からしてもその元来の意味からかけ離れた用いられ方がされているし、『エヴァ』に用いられているそれらのモチーフはキリスト教とユダヤ教のそれぞれがごちゃごちゃになっていて、作った本人たちもそれらのまともな意味を把握した上でそれらを具現化したという考えはどうやら持っていないようだ。早い話が、これらのモチーフにはそれらが持っている元来の意味になぞらえられた意義などないのである。神秘主義の基本とも言える新プラトン主義が話の基軸になっているだけに過ぎないのである。ま、それに加えてウパニシャッド思想などを導入したら3×3eyesになってしまうかもしれないが。

では、なぜそこまでして大量にそれらのクリシェを導入したのか。それは、『エヴァ』において観るものを選別するための暗黙の仕掛けが必要だったからである。『エヴァ』での数々のそれらの情報は体系だっていないにせよ、処理するには尋常ではないとも形容しうるある種の特殊な能力が要求される。即ちそれは過剰に供給される情報をトリビアルな記号として逐次受容し、それらに対して深入りすることなくひたすら知識一般として蓄積していく能力のことである。これらの能力の有無については世代によりはっきりとした違いが出る。なぜなら、それは知識偏重の教育体系の中で何から何まで「支配」されて育成されてきたものにしか備わっていない能力だからである。だから、いわゆる「学習塾」という特殊な「コミュニティー」の洗礼を受けていない四十代以上の人々にはそれは全く理解不能なものとして写るのである。彼らには、『エヴァ』は処理不能な情報の羅列でしかなく、即ち戸惑いを発生させる装置にしか過ぎない。ところが、それ以下の世代の人間で、なおかつ情報をただ蓄積していくという作業に習熟した人間たちには、それは処理・把握可能なものであり、必然的に物語の中核への入り口に立つことになるのである。なぜなら、それらの神秘主義的な諸情報は彼らにとって知識としてのマチエールにはなり得ても、それ以上の意味はないことを彼らは無意識のうちに悟っているからである。従って、『エヴァ』に魅せられた人々の間で交わされる会話は傍から聞いていると何やら理解不能なクリシェのオンパレードでしかないが、それは彼ら=私たちにとって見ればお互いが『エヴァ』を軸として同質性を持っているものであると確認する作業なのである。謎に満ちた数々のテーマは即ち彼らの同定用の符牒であり、同時にそれを理解・吸収し得ない人々を排除する機構でもある。だからこそ、『エヴァ』における数々の謎は、『エヴァ』専属信奉者を選出する「マルドゥック機関」なのであり、その実態は、監督である庵野秀明の内面世界が抱えているある種の空虚さの表象でもあったのだ。

★『エヴァ』の物語のコアとはいったい何なのか?
それでは、そういった謎に粉飾された選別過程を通過した者たちに開示される、『エヴァ』の物語のコアとはいったい何なのだろうか。
それは、「人の心」の叫びに他ならない。テレビの報道番組などでは、「心の成長物語」と陳腐に説かれているようだが、それは真実の隠蔽に他ならない。我々が『エヴァ』という物語のコアに見るのは、主人公の碇シンジや怱流・アスカ・ラングレーや綾波レイの心ではない。むしろ、それに投影されることによって暴き出される、われわれ自身の心の叫びである。何度も繰り返して言うと、我々は、『エヴァ』という作品を通じて、我々自身の心の暗部に蹲っていた我々自身の懊悩を暴き出され、それに嫌が応でも直面させられていることになるのである。
それが「選別された人々」となぜ通底するのか。それは彼ら=我々が有している能力と不可分の関係にある。横溢し過剰である情報を知識として蓄積するという作業を通じて、我々はそこに人間の姿を見失う。我々個人個人を取り巻いているのは我々を規定する人間という関係によるのではなく、身に纏っている情報でしかない。そして我々自身の意義を構成するのも我々が身に纏っている情報でしかない。情報は差異のみによって連結され、それらの情報を処理していく過程で我々は人間にではなく、それが持っている情報にのみ接触して事足れりとするようになる。その内奥で凍えている人間という存在に対しては接触する必要はない。即ち、我々は、コミュニケーションによって関係を維持しているのではないのだ。ただ単に情報をそれこそシリアルケーブルでやり取りしているに過ぎない。そこにおいては相手は勿論のこと、みずからの存在も蔑ろにされる。碇シンジが「僕には価値がない」と何度も何度も繰り返すのはそうして置き去りにされた自己の叫びである。置き去りにされた自己は「自分は無価値であり、愛される価値などないのだ」という無言の波動を我々に常に送り続ける。そしてそれは不安として表出することもある。
だが、その関係は孤独かもしれないがまず何よりも快適である。なぜなら、他者は常に我々を脅かすものだからである。しかし、情報自身は我々が受容して処理する対象でしかないから、我々を傷つける恐れがない。そして我々がまず習得する事を要請されているのはそうした能力であり、他者と傷つけあいながらも関係を構築していくことではない。しかし、そうした過程で、我々はみずから、そしてみずからの心の要求を敢えて忘却し、同時に他者の心の要求と存在を忘却してゆく。しかし忘却したからといって心の要求や他者が消滅してしまったわけではないのだ。それを『エヴァ』は暴き出し、我々が再びそれらに直面することを要求したのだ。我々の心は何を求めているのか、そして我々にとって他者は必要なのか、を。前者のテーマは他者との関係という形で結実し、後者の「人類補完計画」とつながる。我々が求めていたのは他者と何物をも媒介にしない接触であり、交流であり、関係であったのだ。これはエマニュエル・レヴィナスが「他者への欲望」という形で我々に突きつける、世界−内−存在としての我々の基本的な在り方においての存在理由でもある。我々はこの世界で我々としてあるためには、傷つき、傷つけるという危険を冒してでも他者との関係構築を要請しなければならない。それを情報という代替物によって関係構築への欲求を去勢し、隠蔽したとしてもそれは仮の措置にしか過ぎないのである。そして、一者=完全なる「存在」へと帰還することによって他者の他者性を抹殺しようとする「人類補完計画」は我々の心があらゆる恐れを包含しつつも他者を要請しているのだという再発見に基づく叫びによって瓦解することになるのである。冬月コウゾウの「我々は生きているということだけでも意義あるのだ」という台詞は、我々がみずからの維持・規定のためには他者を求めざるを得ないという、ゼーレに言わせると「欠陥」であるものを、人間の生そのものに内在する必然的希望であるのだとして、人類補完計画が持つ他者性の撲滅に対して厳しく弾劾を行い、その欺瞞性に対しての告発を行ったものなのである。即ち、我々は世界内に存在することにおいてこそその意味を持つ。その他もろもろの条件規定は一切本質的ではない。そして世界内に存在することとは必然的に他者との結ばれを作り出していく不断の作業に他ならない。「生きている価値がない。愛される価値がない」不安とはそれらを閑却している事によって生ずる自己という価値の喪失に伴う帰結なのだ。我々が身に纏っていた情報という装甲を脱ぎ捨てたとき、そこに現れるの我々が生きていくというのは人々と関係を、その困難性を承知の上で無限に反復するという作業そのものなのだ、というありふれてはいるけれども困難な事実である。『エヴァ』のコアとは、自らを形作る=自己という価値を創出するということのためにも、存在者としての「他者」と勇気を持って不断に関係せよ、という現代社会においては忘れ去られて久しい命題であった。この意味は、完結篇のラストシーンをご覧になった方ならお分かりになるはずである。

★やはり「母」なのか?
しかし、やはり、「母」なのだろうか。『エヴァ』においても、最後に問題になるのはまたしても「母」との訣別であった。この主題は過去に何度も何度も繰り返されてきたものである。別段、庵野秀明の作品に限ったことではなく、『宇宙戦艦ヤマト』にしても『機動戦士ガンダム』にしても断片的ではあるが垣間見られるテーマである。そして、それらの中でももっとも決定的なものが、『銀河鉄道999』であり、これは完全に母からの訣別がテーマになっている(ヒロインとも言うべきメーテルの名前は古代ギリシャ語の「母(Μητηρ)」およびラテン語の「母(Mater)」とほとんど同じ発音である。なお、「メーテル」という名前自体は『青い鳥』の作者メーテルランクから取られている)。またしても『エヴァ』は同じ轍を踏むのか。母の魂が宿してあるエヴァンゲリオンに、母の人格が移植されたスーパーコンピュータ、母のいない専属操縦者およびその候補者たち、碇シンジの母のクローンである綾波レイ、等々。この物語はあまりにも母、そして代理母の匂いがする。
この点で、『エヴァ』はやはりこれまでの人気アニメの典型的路線を継承しているということができる。だが、母親の存在自体を物語の出発時点では非存在(=既に死亡)にしておき、主要な登場人物から母親の記憶を一切抹消しておくことで、『エヴァ』という物語はより一層他者についての問題が鮮明になるのである(『銀河鉄道999』の場合、主人公には一応母の想い出がある)。即ち、母親という最初の他者経験を排除しておくことで人間関係を構築するに困難な主人公達を創出し、その地平で「それでも君は他者と関係したいか」という問題を叩き付けるのである。これは単に主人公の精神的成長を描写するだけでは意味がない。なぜならそれは主人公単独の問題ではないからである。それは彼を取り巻く、そして我々を取り巻く関係全体の構造を変容させる問題なのである。従って、この領域に踏み込んだことで、『エヴァ』は過去のそれまでの諸作品よりも数段深い問題意識を維持し得た、といえる。『エヴァ』が単なる旧来型のヒーローを要請しなかったのも、「他者」というテーマを「母との訣別」に導入したためだったのである。

★最後に
宮崎駿は、エヴァンゲリオンを観て、「大衆がいない」と言ったという。なるほど、『エヴァ』には大衆の生き様とかそういった物は一切出てこない。物語のターミナルでただ繰り返されるのは、傍観者然と聞いていれば気の滅入るようなモノローグの連続である。しかし、『エヴァ』があくまで我々個人個人の心の内奥に深く関係する物語である以上、なぜ大衆の神話をそこに提示する必要があろうか? 物語の表層構造を突き抜けてそしてそこに照らし出された我々自身の心に咽び泣いたのは我々自身であった。我々は一人では生きている価値自体も創出しないし、愛される価値なども発生しない。だが、我々が眼差しを他者へと向けたとき、それらの可能性は一つの希望として現れる。希望は時として現実化しまた時として否定されたりしながら、他者との関係という形で徐々に、本当にわずかずつではあるかもしれないが、具現化する。そしてその連続が、また新たな希望を生み出し、他者へのまた新しい希望と意志を作り出して行くのである。まさに、「人は愛をつむぎながら歴史を作る」のである。


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