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敗者であることは勝者であることよりも難しく
―― 篠原美也子「新しい羽がついた日」について


   「結果が努力の対価として支払われるならば、
こんなに楽なことはない。問題は、延々と
赤字続きの努力に対して、それでも誇り高くある
にはどうすればいいのかということだ。  

自分を尊重していない人間は、美しくない。」
「シノハラミヤコのノーコンエッセイ」1999.12.15
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(本稿公開に当たっては、歌詞の転載の許可についてRoom493に連絡をとらせていただいたところ、ご本人?より許諾をいただきました。ありがとうございました。)


  1998年の10月半ば、彼女篠原美也子のシングル『ガラスの靴』の発売にあわせて、私は一本の批判を掲載した。「言葉の力を取り戻せ」と題したこの論考(本体はこちら。なお、これはライブの折に彼女宛に感想ボックスに投函してきてある)は当時細々ながら存続していた篠原美也子関連のサイトやメーリングリストに極めて大きな波紋を投げかけた。極めて熱心なファンが運営するサイトおよびその掲示板では猛烈な中傷めいた批判とアジテーションが飛び交い、途中からはメーリングリストもかなり荒れた。最初に「ファン」の間でこのような事を書き、彼女の当時の動きに対し疑義を呈したのは私であったことから、彼らの私に対する嫌悪あるいは憎悪といったものは相当なものであったらしい。そのあたりの経緯は以前に別のところでまとめておいたのでそちらを参照していただくとして、実際、その騒動から半年と経たずして、篠原美也子の所属事務所の契約は終了した。いわゆるメジャー時代は終わりを告げたのである。
  インディーズに戻ってから約2年を経てようやく発売された彼女のアルバム『新しい羽根がついた日』には、そこからの長い日々と蓄積された思いが再び、魂を吹き込まれ、瑞々しくはなくとも力強く芽吹く言葉によって歌われている。今回「独り言」で取り上げるのはこれについてである。




  今すぐ走り出せ、と世の中の平凡な歌は語りかける。やりたいようにやれ、君が君であることが一番大切なのだ、と。そしてその歌はだからこそ私は素晴らしい、という一種の自己陶酔を推奨している。
  だが、それらは我々がそうではないことをその成立根拠の裡に隠し持っている。私たちは今すぐ走り出すことはできず、やりたいようにやることもできず、そしては自分らしくあることもできないでいる。だからこそ私は素晴らしくあることもできず、それ故日々をただやり過ごしてゆく以外に自らを支えることができないのだ。この冷徹な事実を、私たちは受け止めることができない。それらの歌が最も単純かつ卑近な自己実現のまがい物でしかない色恋沙汰ばかり取り上げるのはそれらの事実と無関係ではない。
  なぜか。我々は、好むと好まざるとに関わらず、いやむしろ我々自身の成り立ちからして、意志する事、望むことはすでに生の価値を規定する争いの中に組み込まれているからなのだ。歩くこと、ただそれだけでも我々は衆目に晒され、その価値を外的に決定されてしまう。食品の嗜好は階級性の現れであり、そして無論我々の社会的自我を構成する要因の多くはテストに代表される多くの数的指標によって構成される。自らの意志はすぐに他者の評価対象へと変換され、我々はその過程で自分が何を望んでいたのかも忘れ、他者との評価を巡る果てしない隘路に迷い込んでゆく。
  その一種カフカ的な状況は、勝者と敗者を決定的なものとして作り出す。クイズ番組が戯画化して描き出すように、勝者と敗者は宥和不可能な階級的事実として物象化される。そして常に勝者とは圧倒的な少数であり、必然圧倒的多数を占めるのは敗者である。そしてその敗者たちは自らが敗者であることを認めたくがないためにさらにその中で血みどろの潰しあいを演じる。勝者は敗者を踏みにじり、敗者はさらに敗者を作り出してはそれらを踏みにじる。かくして人々はごくわずかな自らの差異を絶対的なものとしてその編成に血眼になる。だがその一方、我々は何を望んでいるのかさえ分からぬまま、何のために生きているのかさえ分からぬままその競争を絶対化して生を浪費していく。自らが敗者であることを認めないまま、認めようともしないまま、そして敗者であることの意味も見ようとしないまま。蜃気楼のような勝者のイメージに陶酔し、酩酊して。心を溶かさなければ我々は自らの事実に耐えられない。敗者であることは勝者であることよりも難しいのだ。

  篠原美也子は、商業的な観点からすれば異論の余地なく敗者である。メジャーとして発売された最後のアルバム『Magnolia』の販売枚数が惨憺たるもの(仄聞するところに依ると1万枚も売れなかったらしい)であったということ、「ツアー」と言っても実質的には最後は東京と大阪でのライブ2本であったことを考えればそれは明白だろう。ミリオンセラーが文字通り濫発されるポピュラー音楽の世界に彼女は挑み、そして敗れていった。
  そうした厳然たる事実を前にして、篠原美也子は自らが敗者であることを引き受ける。敗者であることの意味と価値すら、彼女は自らに引き受ける。「HERO」という歌の中で、彼女はこう歌う。
すべてが終わり果て、誰も彼もが後ずさるように立ち去って
希望と絶望が右往左往してる ひと気のないスタジアムで
幻を抱きしめている

力など無く 名前など無く
はかない日々をはかないままに
始まりじゃなく 終わりでもない
そこには道がただ続くだけ
  契約がうち切られた後の「祭りの終わり」のようなその風景を描写しつつ、彼女はそれで全てが終わるわけではないということ、私はまだ生きて行かざるを得ないのだという事実が展開していることを、事実としてその手に掴もうと、眼を血走るほどに開いて見据える。メジャーレーベルと契約していたという事実があっけなく消滅してしまった灰燼のような光景をその目に焼き付けるために。そしてそこから自らの生がようやく始まるのだという意志を抱く。彼女は続けてこう歌う。
夢から覚める時を思って
夢見る人はどこにもいない
力ではなく 名前でもなく
わずかに残る誇りを守る
  一つの時代は確かに終わってしまった。そして私は確かに商業的な勝ち負けという世界で明らかな、恐らく全面的な敗北を喫した。力の限り戦って、力の限り抵抗して、力の限りで今のこの状況があるのだ、と彼女は認めるのだ。それは自らを慰めるためでも、悔し紛れに畜生を叫ぶことなのでもない。一つの価値に対する自らの抵抗の記録として、自らの敗北は否定的ながらもその価値を持つ。自らは確かにそういう意味では敗者である、と彼女は認め、その上で自らの誇りを高く高く掲げようとする。うち砕かれ、踏みにじられ、裏切られ瓦礫の山と化した自らの全ての誇りを両手に掻き集め、彼女はそれを空高く掲げ、陽の光にそれを曝し、この場所に私はいるのだ、と埃まみれの微笑みを浮かべるのだ。
  競争と価値の桎梏を相対化し得たとき、世界の姿は、人々の姿は向きを変える。競争と貨幣価値の世界が覇権を握っているとしても、価値そのものが相対的でしかなく、全ての価値は自らの自由と共にあるのだとしたら、我々は価値の呪縛から自らのペルソナを移しうる空間を手にしうるということになる。無論覇権世界に我々が破壊され疎外されていたとしても、である。「Place」で彼女は歌う。
もういいよと引きとめても
きっとあなたはドアを出て行く
夢がもはや力尽きて
むなしいだけの風だと知っていても
        (中略)
世界の全てにそむかれたならば
痛みより強く抱きしめてあげる
何ひとつさえ癒せないけれど
ただその背中を抱きしめてあげる
  ここで独白する「私」は人間ではなく、むしろそのような競争とは別の世界に住まう価値であろう。競争価値に従って、敗れ、自らを呪い、蝕み、棄てる代わりに、我々はそれらの別の価値が別の世界に存在する、あるいは存在する可能性を知ることで幾ばくかの自由を手にしうる。だが無論それは自らの一方での敗北を無みすることでも、否定することでも、無かったこととして心理機構の上で排斥してしまうことでもない。敗北は、拭い去ることのできない痛烈な傷痕として記憶に残り続け、自らが敗者であるということを絶え間なく弾じ続けている。だがそれ故にこそ、敗者たる我々は存在する上での価値の身体的構築への可能性を意識することができるようになるのだ。痛みや拒否という経験が現実性を涵養する心理的契機となるように、我々は挫折の意味を通じて生の在処を識る。そして、篠原美也子はその生こそが豊かな実りある共同性と生の実感という花を咲かせることを知っている。だからこそ彼女はデビューアルバム『海になりたい青』の1曲目「心のゆくえ」に似てアカペラで始まる「Flower」の中で歌う。
もしも明日世界が終わると知っていても
花を植えよう 約束をしよう
愛を告げよう

ああどんなにはかないものでも
希望ならひとりひとりの胸の中
とどまることなく訪れる未来は
嵐の中 その手を離さないで
  花を植えるのは貨幣価値と連続しない生の豊かさを誇るためであり、約束をすること、そして愛を告げるのはその意味が他者とつながりあうこと、共にあり花を愛で育てる者同士の辛く優しい関わりと共同存在性を謳うためなのだ。そして、希望は自由と共にあり、誇りと共にあるものなのである。競争とその価値の中で粉々になって残骸になってしまった私の誇り。けれどもその荒廃した風景の中に、ひっそりと赤い花が芽吹く。それは我々の更新された誇りの姿であった。全てが色褪せ荒廃した風景の中で、その花は彩りを鮮やかに放つのだ。

  けれども、それが甘えであることは許されてはいない。我々は覇権である競争価値に破壊され、またその破壊自体を深刻かつシニカルに受け止めている以上、その庇護を受けることも許されてはいないのだ。内在的にその覇権を我々が逸脱するのだとしても、だからといって全ての価値から我々が無関係であることは不可能なのだ。それは判断、思考、意志の中断あるいは放棄であり、「癒し」と呼ばれる部類の各種商品は実質的には思考を甘美さの中に融解させることで敗北の経験や意味を中絶させてより激しい競争の秩序の中に自らを再投入させることを唆す、「ポジティヴ主義」の拡大再生産用の副産物でしかない。篠原美也子が掲げる「誇り」とはそのような体制に従属することを促すものではないのだ。花のように美しく、誇り高くあるためには、自らにそれでも厳しく向かい続けなければならないのだ。自らの誇りを賭して自らの限界に常に向き合い、自らの誇りの篝火をそうすることによって常に灯しつづけること。そしてその光によって全ての、そして自らの闇を照らし、また歯を食いしばって自らに災いをなすもの、そして自らに立ち向かうこと。そうしてこそ誇りは誇り足り得るのであり、いかなる空虚さにも耐えうるものなのであって、だからこそ誇りは持たなければならないと篠原美也子は文字通り自らの誇りによって、我々にその言葉と歌を叩き付ける。敗者だから何だ、私は確かに敗者となった身だ、だからと言って私の誇りはこれっぽっちも傷つくことはないのだ、と。自らへの恐らく怒りを込めて篠原美也子は「秒針のビート」の中でこう歌う。そしてそれは我々自身のふがいなさにも響く。
たとえ歯をくいしばってでも愚痴をこぼすべきではなくて
自分に生きる価値が無いなんて思うのは間違いで
それでもこうして生きてるうちに 自分自身をつかい果たせるのだろうか

気が付けば残されたチャンスは驚くほど少なくて
そのくせ有り余る時間を持て余しては無駄にして
何もしないために何かをして 何も言わないために喋り続けている
何も言わないために喋り続けている

選ぼうとしなければもっとずっと人生はたやすい
望んだりしなければきっとずっと人生はやさしい
思っているよりもずっとずっと人生は短い
遅すぎるかもしれない だけど顔を上げて

誇り高くありたいと願えば日々はあまりにせつない
勝ち負けで決まるならきっとずっと人生はたやすい
動機を見失ったまま過ごす日々は何てはかない
遅すぎるかもしれない

だけどこんなところで待っているよりは


  この文章を書きながら、私は「秒針のビート」を聴いている。意志的な表出に満ちたボーカルと、切り詰められむき出しの強さと高さを持った歌詞。以前篠原美也子関連のサイトを運営していたある人は、いつか彼女が元のスタンスに戻ってきてくれることを期待する、と表明してその運営を停止した。そして数年の時を経てようやく、私は篠原美也子があの地点に、言葉が甦り漲り、装飾的要素のない無骨ながらも逞しく優しい旋律と共に回帰しつつあるのかと思う。今は歌う事への誇りを携えて、敗北し、敗北したものであることを認めることの限りない強さと生への喜びを携えて。
It's a spiral stairway 昨日よりも
ほんのわずかでいい 高くあれ
(「S」)





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