「にせもの」による「ほんとう」の再生 ―― Key『Kanon』の射程     (2000/7/22)


  経済の停滞と共に、前近代的な父権制度の復古を求める反動的な言説が巷間に溢れるようになって久しい。才能の枯渇した腐れ学者や痴呆化した漫画家などが著した書物は書店に行けばいつでも平積みコーナーに見いだすことができる。相田みつをのような俗情と結託することしか知らない、何の思弁的性格も有しない「癒し」のメッセージはこれでもこれでもかとメディアを飾る。そこに現れてくるのは、「家族の絆」こそ絶対であり、その有難味と意義を反芻してこそ社会的紐帯の秩序は保持されうるのだ、というどこかで聞いた「血と大地」のリフレインである。そこには秩序の回復が何より重大であり、他のことはどうでもいい、という袋小路に陥った現在の日本の経済状況の暗愚が反映されている。

  だがもしも、「近代」が生み出した様々な装置・概念の中で最もおぞましいものを3つ示せ、と私が問われるならば、迷わず「国家」「民族」「家族」を挙げるだろう。『法哲学』におけるヘーゲルのあの吐き気を催すほど気味の悪い阿世の弁証法によって三位一体を構成するこの三要素は、まぎれもなく人間を完膚無きまでに圧制の下に組み敷く。

  Keyが昨年発売したゲーム『Kanon』には、この悪夢、ことに血縁家族に対する無抵抗の告発と弾劾があたかも朝霧(これはタイトル画面で流れる曲のタイトルでもある)のように繊細で幽眇な物語世界のなかに秘められている。そしてその悪夢を終わらせるには、ということも。その点で、この作品は主人公の悪夢を終わらせる話であると同時に、我々の生における現実が持つ悪夢からどのようにすれば飛翔することができるのかという示唆も与えている。「記憶に還る」というこのゲームのコピーは、この物語が主人公の忘却を覗くものであると同時に、我々が家族という悪夢のなかに抑圧し忘却したことにしていた様々な悲しい、身を引き裂かれるほどの絶望と苦悩の事実に直面することを求めるということも意味しているのだ。

  従って、この作品の中では、血によって締結・連結された「家族」という機構は本質的に個人に傷を負わせその心を徹底的に踏みにじるものとして位置づけられる。例えば、月宮あゆのシナリオでは母親の死・父親の不在という事態が彼女に救いようのない孤独感と絶望を与えていることが語られるし、倉田佐祐理のシナリオでは家庭、特に有力政治家である父親が彼女に厳しい姉としてのロールプレイを要求し、その結果として彼女が弟の死によって自らを追い込み手首を切るという自殺未遂に至る経緯が述べられている。他にも、美坂栞のシナリオでは彼女がリストカットをしたときにそれを止める、あるいは共同でそれを癒そうとする家族の存在はないし、彼女の姉香里は妹栞の存在を黙殺している。川澄舞の場合は彼女の精神的な破綻を救うべきであるはずの母親の介在は中途から極端に抹消されている。また、本作中最も完成度の低い水瀬名雪のシナリオにおいてすら、父親の不在という事態が彼女の人格形成について退行の影を落としていることが明らかになる。

  このように、本作のヒロインは皆全て、その生の出発地点において精神を徹底的に壊されている。家族機能研究所を主宰する精神分析医斉藤学氏はかつて「アダルトチルドレン」という概念を提起して当時社会現象ともなっていた『新世紀エヴァンゲリオン』ともリンクして大きな話題を呼んだが、『Kanon』における登場人物が「うぐぅ」や「うにゅ」などの幼児語を使うほど、また好きな食べ物もほとんどがお菓子の類であるように、極めて精神年齢が低く造形されていることはこの事と無関係ではない。即ち、身体は生物として日に日に成熟していくのにも関わらず、精神はその出発点において破壊されているがためにまったく成長できないのだ。むしろ、幼児期を自らの手で幸福という幻影を連れて無限に反復しなければならないほど、彼女たちの精神風景は荒廃しているのだ。ひとりぼっちでのフォルト・ダーの遊びが、収束することなく、彼女たちの中では今も行われている。

  それはなぜか。それは、家族という悪夢が現在もなお彼女を取り巻く生活世界の中で進行し展開されているからだ。いやむしろ、その絶望の圧迫により日に日にその幼児期への緊急避難は加速していくことになるだろう。例えば、川澄舞が自らの行動にますます異常性を加えてゆくのは、誰も彼女の内部にうずくまる危機に瀕した子供、自らを確認するために自らを傷つけて満身創痍になっているその哀れな影の絶叫を聞き取ってやることがないからなのだ。

  しかし、彼女らはだからこそ救いを求める。微かに垣間見えた奇跡の波動に、全身全霊を傾けてすがりつこうとする。飢えた獣のように彼女らは自らの修羅を振り払おうともがく。その姿は尋常ならざるほどの狂気の姿を帯びるものと「普通」の人々の目には映る。恐らく、このヒロイン達の極限の哀願を感受できるか否かが、この作品に対する賛否の分かれ目になると私は思うのだ。そして、私は、この激しい叫哭に感応した側の人間である。

  ところが、その奇跡の物語は「にせもの」に降臨することになる。失われた一家団欒、言葉を媒介せずともそのインナーチャイルドをくるむことができる人間関係。多くの「普通の」場合、家族というユニットの中でまず最初にその有り様が現れるはずのこのような関係は、『Kanon』の中では常に血縁関係が全くない、あるいは希薄な人間同士の「にせもの」の家族関係の中で辛うじてあらわれる。各ヒロイン達ははじめて、本当に「生まれて初めて」の関係の存在をそこに認識するのである。水瀬家という父親不在の奇妙な「機能不全家族」という環境の中で、月宮あゆ、沢渡真琴ははじめて人間の優しさ、いたわり、思いやり、といったもののぬくもりの中でようやく怯えない関係が存在するということに気付くのであり、その結果沢渡真琴は廃人同然になってまで水瀬家の一員であろうとする。
  また、川澄舞は倉田佐祐理と主人公3人での昼食、正確にはエピローグで語られる3人での疑似家族での共同生活において、自分が安心して受け容れられている場があるということに気づき、美坂栞は中庭で主人公に買ってきて貰ったアイスクリームを食べて自分の存在を黙殺しない「兄」がいることを知る。即ち、栞が寒い中庭で長い間主人公を待っているのは単なる恋愛感情からではないのだ。自分がこの世界にいるという実感をようやく持たせてくれた細い細い絆を、あと僅かしかない自分の生を燃やし尽くすように握りしめ抱きしめていたいのだ。その一方、彼女を黙殺していた姉香里は栞の死期が近づいてようやく彼女は自らが栞の姉であることを再度人為として選び取る。沢渡真琴の主人公に対する奇妙な行動も、そのざらつきとじゃれ合いのなかで、自分の存在を正面から受けとめてくれている人間がいるという事実を感覚の全てを使って抱きしめていたいのだ。そして月宮あゆはかつて自分を何の打算もなく好意を持ってくれた唯一の存在が主人公で  あるという、その想いが彼女の存在そのものを生み出すことになっているのである。

  その点からすれば川澄舞の物語終盤における不可解な行動には合点がいく。彼女は、最後の最後まで、自分の絶望を主人公が共にしようとしているということに気付かないでいる。ひたすら自分の悪夢を追い払うために見境なく暴れ、自傷行為でもある怪異打倒に半狂乱になって奔走する。だがしかし、その土壇場で、彼女は主人公が彼女の真の苦悩が何であるのかを思い出してくれたという事実にさらされる。
  だからこそ、彼女は切腹するのだ。自分を理解しようと共に傷を負いながら隣にいてくれた人の気持ちをそれまでまったく分かっていなかったから、彼女はそれまでの自分を全て清算するために、自らの現在の生そのものを否定しようとするのだ。何の衒いも後ろめたさもなく、何ら義務に依るものでもない、本当に何にも根拠を求めない、新しい生を彼女は求めたのだ。それほどまでに彼女は生きることに疲れ切っていて、真に宥和した新たな命のためにそれをかなぐり捨てようと自刃したのだ。

  そのように、彼女らは文字通り自らの命を懸けてこの「にせもの」の関係をつなぎ止めようと抵抗する、あるいは決断して選び取る(この点から言えば名雪シナリオの完成度が低いのは致し方がない)。そのために栞は恐らく寿命を縮め、沢渡真琴は最後は自我すら消滅してしまうほどの痴呆になり、川澄舞は切腹し、月宮あゆはその「にせもの」の価値を永遠にするために自分が忘却されることを願うのだ。しかし、だからこそ、このような「にせもの」の家族関係は血縁の必然性という暴力=現実を越えて奇跡を呼び起こす。月宮あゆが名雪と栞の物語において、そして何よりも自らの物語において奇跡を起こすのは、彼女が水瀬家における「にせもの」の家族関係の中で、自らのインナーチャイルドを癒し、自分の幼児性に耽溺することなく他者を、「ほんとう」の世界を指向しようと彼女自身が自らの心に奇跡を起こしたからなのだ。舞が卒業式の日に佐祐理と主人公に代わる代わるチョップを振りかざす姿は、かつて自分自身を滅ぼすために振りかざしていたその力を、自分を理解しようと、たとえ自分のために傷だらけになろうともしてくれた人たちに対する信頼というコミュニケーションに転化させたことの証なのだ。

  この地点で、「にせもの」は「ほんとう」を再生させる。何ら必然性や義務性を持たないにせものの家族関係は、他者という「ほんとう」を各ヒロインの心の中に奇跡を起こすことで再生させる。『Kanon』は「にせもの」の「ほんとう」である「家族」の悪夢を告発した上で、「ほんとう」の関係の再生への淡い期待と願い、その奇跡への祈りを込めた人々の連なり(Kanon)の物語なのである。

  だから私はこのあと拙い言葉を少しばかり継ぎ足そう。本来、人と人とのつながりなんてものはそのはじまりにおいて「にせもの」でしかないのだ、と。そして、それを「ほんとう」にしていくのは、私たち自身の心の中に起きる、小さな小さな奇跡のつらなりに他ならないのだ、と。

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