5月23日
  あははー、また2chで晒されてしまいましたー
  2chには串規制で書けないので一応ご質問にお答えしておきますと、少なくとも染色体のレベルでは私はヤローということになってます。
  あと、エロゲーマーっていうのはひどいと思うなー。エロゲーと言われているものはそんなやっていないし(そもそもが金と時間の無駄だ)、「独り言」に載せている内容もそんなエロゲーに傾斜しているとは思わないんだけど。
  とりあえず今は激しく酔っぱらってるので著しく個人的な反応としてはそんなところです。ああ、トイレ行かなきゃ〜



5月21日
  ずいぶんと日にちが開いてしまった。論文が修羅場の入り口にさしかかってきて滅茶苦茶な生活が常態化しつつある。まずい。
  デリダなんかは昔読んだ話では朝7時に起きて午前中に執筆作業を済ませてしまうという。彼自身はもう70を過ぎているので夜更かしは体力的に厳しいのかもしれないが、能力に恵まれた人はこういう論文執筆作業も淡々とこなしていくのだろうと思うと、うらやましい。無論、ただ単に自分に規律(そして整理整頓)という概念が欠落していることを先天的な能力の違いという形で言い訳するのは逃げでしかないのだが。
  だいぶ以前に予告したっきりでバリバリ放置状態だった「独り言」のネタを構想中。某「言葉の力を取り戻せ」級のケンカ売りホーダイの内容になるかどうかは、まだ分からないが。



5月9日
  ちゆ12歳のところで読んだのだが、NHKでとんでもないものを放送したらしいなあ。方々で証拠映像を見ても胡散臭さはつのるばかり。どっからどう見てもこれは母親のやらせだろう。脳障害を負ってしまった息子さんを持つことに対する心情は多分に私の想像を超えているものではあるが、だからといって息子をダシにして商売をしていいということの口実にはなるまい。そもそも11歳で宇宙論とか哲学の本を2000冊も読めるはずはないだろ。
  で、関連リンクサイトをチョロチョロと眺めていると、どうもこの子の両親はニューエイジ系精神世界にどっぷりとハマっておられるらしい。とするとこの「読んだ本」なるものはニューエイジ系か? この分野の本は1時間で250ページくらいはガーッと読めちゃうからねえ。

  それで、だいぶ以前に某所(ネット上)でニューエイジの信奉者とやり合ったことがあった。話があまりにもかみ合わないので苦笑しっぱなしだったことは公然の事実だが、ニューエイジ系にはその認識が依っている立場それ自体に根本的な自己矛盾を内包している。
  周知のように、ニューエイジ系思想というのはオルタナティヴとしてのヒッピームーヴメントと結びつく形で1960年代のカウンターカルチャー隆盛の潮流の中で生まれている。これらは合理性に代表される西洋近代理性の徹底的否定と東洋的神秘直観主義への傾向を有している。また、思想の内容も晦渋さを廃し簡明なメッセージとして提起できるものが多い。
  だが、こういった思想傾向は自らがまさしく西洋近代の所産であることを忘却している。即ち、合理性を否定し去った上での東洋的神秘主義への傾斜はそれ自体がロマン主義的なものでしかなく、西洋(この語が二項対立的に用いることができるほど単純かつ自明であるとは私は思わないのだが)の文明のヘゲモニーを前提とした一種のオリエンタリズムでしかない。突き詰めていうならば、オルタナティヴという発想法自体がヘーゲルにおいて絶頂を迎える弁証法の一種であり、その成立根拠は実は当の批判対象に依存しているのである。無論それが止揚しうるものであるのであれば問題はそれほど阿呆らしいものではないのだろうが、ニューエイジ系にかぶれる人々にはそれは無理な話であろう。その理由は簡単至極である。
  アドルノ(以前某新興宗教のサイトで彼がビートルズの守護者だったという話を読まされたときには椅子から転げ落ちそうになった)は『ミニマ・モラリア』の中でチャネリング(正しくは降霊術)が伝えてくれるのは旅立ち近しという死んだばあさんの挨拶程度だと痛快に書いているが、事実ニューエイジが文明開闢以来連綿と続く思想の山脈に対して振りかざすのは「お前らの言ってることなんか分かりゃしねえよ」という泣きべそでしかない。このような捨て台詞はこういった手合いにおいては消費社会の中で物象化されたとする「理性」とやらに投げつけられることが多い。だが当の批判によってでっち上げられたメッセージとやらはそれ自体がコンビニの店に賞味期限付きで陳列された商品に過ぎない。つまり、当の彼らの思想自体が既に物象化されているのであって、そのコアには努力せずとも商品を手にすることに慣れきっているわりにはデパートの店頭に並べられたヴィトンのバッグ70万円也を指をくわえて眺めている物欲しげな「庶民」の垢まみれの賤しい表情がくっきりと刻印されているのである。
  ニューエイジ系思想がその信者に与える思想とはそれらの劣等感に対する埋め合わせとしての商品である。「大切なものは目に見えない」というサン=テグジュペリのご託宣を怯懦な背後世界論者(ヒンターヴェルトラー)風に誤解と誤読の限りをつくした彼らはブラヴァツキーやらシャーリー・マクレーンといった「導師」が賜るメッセージでもってその寒さを手早く埋め合わせようとジタバタするわけである。だが、そんな連中には毒まんじゅうの一つでもくれてやるのがせめてもの供養というものだろう。そうすれば彼らはあこがれの第7次元に飛び立てるのだから。



5月1日
  行ってきました、反ルペンデモ&メーデー。
  ごっつい疲れてしまったのでレポートの公開は明日以降になる予定ですが、とりあえず掲示板でも書いたようにAsahi.comの記事が激しく間違っているのでその点を指摘しておきましょう。イタリックの所は引用です。

リベラシオン紙は30日、1面を全部つぶして「行進しよう」と訴えた。ルモンド紙も1面に「ルペンにノンというフランス」の見出し。ほとんどのメディアが中立報道の建前をかなぐり捨てた。

リベラシオン紙は昔からバリバリの左翼で知られた新聞。タイトルを和訳すると「解放」だよ。日本で「解放」と言えば革マル派の機関紙だ。まあそのくらい左寄りです。で、ルモンドもリベラシオンほどではないけれどもかなり左寄りの新聞(ルモンド・ディプロマティークが左翼知識人の根城になっていることからも、そのくらいのことはロバでも分かる)。少なくともフランスのジャーナリズムでは「中立報道」がただの幻想だということくらいとっくの昔に常識になっているので、大手の新聞は右か左に必ず傾いている。これは地方紙でも同じ。もしかして特派員の皆さんは新聞もまともに読んでませんか?

しかし、反ルペン側のデマもある。

記事を読めば分かるが、これは「勘違い」であって、デマではない。フランスに住むうちに日本語を忘れてしまいましたか?

選挙戦は、次の5年間の政策やもう1人の候補、シラク現大統領の資質を論じる余裕を失った。

極左の候補のアルレット・ラギエの事を忘れてないかい?
彼女は決選投票では白票を投じることを呼びかけているのだが。
他にも、デモ参加者が掲げていたプラカードには「シラクには強制労働5年の刑(大統領任期が5年であることから)」とか「票はくれてやるけど賛成してるわけじゃないからな!」といったシラク批判の台詞があちこちに書かれていた。この記事書いた奴は字が読めないのか?

デモ、アジ演説、デマの応酬……。

呆れてものも言えない。デモは間接民主制国家においては主権者が直接意思表明をする重要な機会である。これを書いたバカのように、デモが衆愚政治の証拠のように抜かす奴はモナコにでも住めばいい。モナコではデモも含めて一切の政治集会が禁止されているから。
また、政治集会等での演説の本質はアジテーションである。んなことはシェイクスピアの『ジュリウス・シーザー』とか観たことがあれば百も承知の事実である。今回のデモでは実際の所そうした形の「劇場形民主主義」を厳しく指弾するアピールも数多くみられた(FOとかフランス同性愛者連盟なんかがその旨のビラを配っていた)。
で、「デマの応酬」って何がどのように応酬になっているのよ?反FN派のは1件だけでしょ(しかもそれは「勘違い」に分類されるべきものである)? そういうのは応酬とは言いません。



4月28日(その3)
全てのリゾーム的存在者の諸君!今まさに我々は卑劣なる走狗的右翼集団による脅迫に晒されていることを革命的に認識しなければならない!その攻撃とは何か?外部プロキシの不正利用による掲示板への強圧的書込みによる威圧である!これは日帝権力が喧伝する内政干渉の美名による国際的なリゾーム者達に対する抑圧装置の紛う事なき暴力的発動であり、我々はこのような認識論的収奪を徹底して粉砕しなければならない!

而して、その反動走狗的な書込みとはどのようなものか?我々は彼ら土着的反動因子の蒙昧性を暴露するが為にこれを公開しなければならない。即ち、このような偏執的国家主義者は我々に対して「5月5日はルペンに投票しる!」あるいは「投票権ないやつがゴタゴタ抜かすな。ぼけ。」といったプチブル資本主義的な簒奪者の尖兵たる「2ちゃんねる」の用語に汚染された言語で我々を屈服させようと卑劣な脅迫を行ってきているのである!

だが、我々はそのような堕落した怯懦極まりない走狗的白色テロルこそ、彼らの追い詰められた社会的・経済的現状から漏れる断末魔の叫びであると断じることに些かの躊躇もないものである!彼らは公共的空間での言論闘争をかなぐり捨てて脱兎の如く逃げ出したにも関わらず、その階級的性格を無視し闘争を威圧に転換することで偽装された抑圧を糊塗しているに過ぎないのである!

全てのリゾーム的存在者諸君!我々は断固として、このような民族主義的反動に対して断罪の斧を振りかざさなければならない!我々の連帯は闘争的であり革命的なのであって、いかなる反動的走狗にも屈することは有り得ず、むしろ彼らの存在が我々の革命の正当性を燦然と輝かせるのである!似非支配階級を欺瞞的に演じる彼らを徹底的に粉砕して、すべての「左翼」勢力の闘争放棄を人民の怒りで戦闘的に乗り越え、闘う大連帯への結集を勝ち取ろう!

環境変数の偽装を粉砕せよ!グローバル化=アメリカの帝国主義的収奪に利用されているだけの民族主義的脅迫から認識を解放せよ!全ての白色反革命を完膚無きまでに徹底的に断罪し世界の全ての場所から駆逐しよう!武装し闘うリゾーム大連帯万歳!
……笑わないとダメよ。



4月28日(その2)
  仏ルペン氏、「国籍法は日本がお手本」(Asahi.com)だとさ。
  日本の国籍法は血統主義と呼ばれるもので、日本国籍を取得するためには父母のどちらかが日本国籍を有していなければならず、国外で生まれた場合は両親とも日本国籍を有していない場合は結構厳しい審査がある。また、日本国籍を取得するに当たっては名字を「日本風」にすることが強く求められている(三都主アレサンドロとか呂比須ワグナーとか弦念丸呈とかすげえ漢字を使った名字があるのはそのため)。対してフランスの国籍法は2世以降については生地主義(詳しくはここ)をとっているため、二重国籍もOK(亡命者が歴史的に見て多いのはそのため)なら両親が外国人でもフランスで生まれて一定期間を過ごしていればほとんどの場合国籍が取得できるし、外国人でも5年以上連続して住んでいれば地方参政権が認められる。
  で、ルペンとゴルニッシュ(こいつはリヨン第3大で日本語を教えている)は「わが党が極右なら、日本だってそういうことになる。極右という呼び方は不当だ」とか抜かしているらしいのだが、ええそうですとも、日本の政権政党は極右です。歴史修正主義者はゴロゴロいるし、首相はA級戦犯が合祀されている神社に参拝するし、青少年有害社会環境対策基本法の条文とか教育審議会の答申なんか見る限り、どっからどう見ても日本の現政権政党は極右です。
  それでも国籍法は将来的には生地主義にすべしという方向性は一応打ち出されていて、二重国籍も認めるべきだという考え方は若手の議員とか一部官僚には持っている人もそれなりにいる(例えばここ。それに対する政府の反応は鈍いが)。そんなことも知らねえとはゴルニッシュも研究者失格だな。



4月28日
  ええ、行ってきました、デモ。
  レポートはこちらにまとめておきました。画像バンバンなんで重いです。ごめんなさい。



4月21日
  周知の通り、フランスの大統領選挙ではシラクと、あろう事か極右のルペンが決戦投票に進んだ。左翼勢力の候補が10人近く出たり政策論争上の論点が曖昧になっていたせいもあって、ジョスパンは3位に甘んじたことも周知の通りだ。ジョスパンは選挙が終わったら政界から引退してやると演説で半泣き状態で話していたが、余程悔しかったのだろう。そりゃ相手は以前サッカーのワールドカップの代表選出に際して「黒人と移民系は代表に入れるべきではない」(ちなみに「将軍」ジダンはアルジェリア系移民の子でマルセイユの下町出身)と公言して大顰蹙を買ったほどの極右のクルクルパーだからねえ。
  で、それが明らかになった21日の晩にいきなりレピュブリック広場からバスティーユ広場までの反極右デモが約1万人の参加者によって自発的に組織され、これを書いている今もデモ行進とシュプレヒコールの連呼が行われている。私の住んでいるアパートはそこからは少し離れているので時間的にも治安上の理由からも参加することができなかったのだけれど、「私は恥ずかしい(J'ai honte)」と段ボールの裏側に即席で書いたプラカードをぶら下げた高〜大学生くらいの連中がデモ隊を組んでシュプレヒコールを上げているのには少なからず感動した。来週の土日にはさらに大規模のデモが行われるようなので、情報を仕入れて参加してこようかと思う。
  これらの光景を「目にして」、「私は恥ずかしい」。 政治的意思表明を徹底的に抑圧し弾圧する日本の政治・文化土壌が、私は恥ずかしい。例えば、先日都内で行われた反メディア規制法案のデモに集まったのはたったの500人である。ヘタをすれば機動隊によるサンドイッチ行進を許す規模だ。この違いは何だ。公安とかリクルートの連中が写真とビデオを撮って個人をプロファイルしている不気味さも含めて、腹立たしいことこの上ない。

  参加してみると分かるが、デモは楽しい。普段は自動車しか走っていない公道を堂々と集団で練り歩くという非日常性が気分をそこはかとなく昂揚させてくれるのである。以前私はチェチェンでのロシア軍による虐殺に抗議するデモ等に何回か参加したことがあるが、シュプレヒコールを上げながらプラカードを掲げてダラダラと歩くのは何とも言えず気分のいいものである。未体験の人には是非ともその快楽を味わって欲しいと私は思ったりする。



4月10日
サッポロビール
  近所のスーパーでサッポロビールを見かけたので思わず買ってしまった。500mlの缶で1.08ユーロ(≒128円)。ここで調べると日本での小売価格は一缶当たり245円くらいらしい(消費税別)。ということはフランスでサッポロのビールを買うと約半分の価格になるということだ。フランスも酒税はかなり高いし間接税は20%近いはずなんだが、価格の約半分(詳しいデータはここ)が税金という日本でのビール事情はやはり問題があるんじゃないのかね。発泡酒に流れるのも当たり前といえば当たり前だわな。
  ちなみに、この他にはフランスではアサヒ・スーパードライ(500ml缶)とキリンラガー(中瓶)が買えます。モノプリに行けば大体どちらかはあるみたい。


4月9日
  Le Monde 4/9付の社説をまた練習がてら訳してみた。知らない単語があまりにも多いのでゲンナリ。

不寛容に抗して(Le Monde 2002/4/9)

  近東での戦争を巡ってのフランスでの各種デモは民主的議論のバイタリティーのしるしであろう。だがそれらは退行を印象づけるであろう他のしるしを伴っている。字義通りのイスラエル−パレスチナ紛争のフランス世論への移入は暴力を引き起こすリスクを有している。それはリオネル・ジョスパンによってまさに断罪された「ウチ的発想(communautarisme)」の威嚇的言動を信用させるものにしかねない。

  ユダヤ共同体が道中でその感情とイスラエル人民への連帯を語るために隊列を組む行為は、理解できるし、まさしくその通りである。ユダヤ系フランス人のヘブライ国家(=イスラエル)に対する歴史的紐帯はこの危機においても、彼らのシンパシーを正当化するには十分強いものであろう。そして最近の反ユダヤ主義のフランスでの復権は、それは直接的あるいは間接的には近東での衝突と関係があるにしても、それは十分に懸念されるべきであり、だからその被害者となっている彼らが自らの声を聴かせようとしているのである。

  同様にして、イスラエルの新たなパレスチナ人への攻撃によってイスラム教徒の共同体が自ら関わり合いがあると感じていること、そしてムスリムであろうとなかろうと、パレスチナ人の立場に対する支持を表明したいと思う全ての人がそれを公にデモなどで示すのも理解できることである。「我々は皆パレスチナ人である」とシュプレヒコールを上げる人々は、アリエル・シャロンの政治に対する激しい断罪を知らしめることになった。彼らがその権利を持っているように。

  逆に、これらの連帯の行動が不寛容と粗暴さという行為を伴っている時、我々が懸念するのはもっともなことであろう。それらの行為は求められていたはずの目的とは逆の所に行き着くのだ。この観点からすれば、先日の日曜パリでCRIF(conseil representatif des institutions juives de France:在フランス・ユダヤ機関代表者評議会)が組織して行われたデモを傷つけた暴力行為、特に過激派によってその標的とされたジャーナリストに対しての暴力、のみならずスペインのテレビ局のカメラマンのケースではデモ警備隊のメンバーによって行われた暴力は看過してはならないものである。それはユダヤ人たちがその対象となりうるような逆の意味での行為と同様に断罪されるべきである。

  特に遺憾なのは今日全てのユダヤ人がアリエル・シャロンの同盟者であるとみなされていることである。それは彼らの共同体内部での意見の多様性を蔑ろにしている。そこでは少数派がイスラエル人への自らの支持を疑うことを躊躇わずに、指導部の選択に対して抗議しているのだ。同様にして、若いアラブ系移民(beurs)がパレスチナ人のカミカゼ攻撃によって犯された自爆テロについて連帯しているとみなされてることも許し難いことであろう。他方フランスのイスラム共同体の代表者たちは常にそれらに対する不同意を示しているのである。

  統一平和デモが急に夢想されるだろう。それは紛争状態ある両陣営のいずれかへの恥ずべき自己同一化の兆しを遠ざけるものであり、戦場から遠ざかっている人々が寛容と友愛の好例を示すことを可能にするものであろう。二つの陣営にとって受け入れられる解決を見いだすために我々が貢献できるとしたら、それは暴力の激化を後押しすることによってではない。それは互いの立場に立つことを受け入れることによってなされる。そのためには、いかなる形態であろうともウチへの自閉は拒絶しなければならないのである。