3月31日(3)
  France 3でイスラエル駐仏大使とパレスチナ駐仏代表の討論を見る(後者のシャイイド氏はパレスチナからの衛星中継)。後者が一方的に前者を叩きのめす展開。ちょっと笑った。

  その後、Arteでアバド&ベルリンフィルの演奏会を視聴。曲目はベートーヴェンのピアノ、合唱、オーケストラのための「合唱幻想曲」ハ短調作品80とメンデルスゾーンの交響曲第2番「賛美の歌」というなんともレアな取り合わせ。恥ずかしいことに両方とも初めて聴いた。演奏はといえば手堅くまとめていて無難な仕上がり。全然知らない曲のため何とも比較のしようがない。前者は「皇帝」に激似だったが。
  アバドはもうじきベルリンフィルの常任指揮者を辞めちゃうが、暴論を承知で言うとアバドはこういうなんでもござれ型の超メジャーオケで定期演奏会をしずしずとこなすよりもヴィーン・モデルンみたいな現代音楽バリバリの演奏会とかフェスティバルの方が向いているような気がする。アバドがポリーニと並んでノーノの良き理解者だったのは有名な話(つまりアバドはガチガチの左翼)で、彼のオペラ『プロメテオ』の初演を振っているのもアバドだったりするのもこれまた周知の事実だが、どうせ一生遊んで暮らせるくらいの金は稼いだんだろうから今後は世界中で現代音楽の布教活動に努めて欲しいものだ。ついでに録音もナクソスあたりと契約して安価でバンバン出してくれれば理想的。



3月31日(2)
  JPOPを聴くのをけなす洋楽かぶれは実際多い。まあぶっちゃけた話オイオイこれはパクりだろうという曲がJPOPと呼ばれるカテゴリーには少なくないのも事実なんだが、そういうしみったれた舶来崇拝は実際のところ当の本人の外国語に対するコンプレックスに由来していたりもするわけで(「レコード評論家」というアレレな職業の連中のほとんどが楽器ができないのと同じだ)、偉そうなご託宣を垂れる暇があるのなら外国語の一つか二つ話せるようになった上で、無調と12音技法の聴き分けくらいできた方がいいと思うのだがどうだろう。無論、楽器も最低二種類くらいは弾けたり吹けたりした方がいい。



3月31日
ル・モンド3/31版の社説の部分訳を練習がてら作ってみたのでこっそり載せる。

救助義務違反...
(ネタニヤでのハマスによるテロが非難されるべきであることを示したのち)

それにしたところで、二日後アリエル・シャロンがヤセル・アラファトに向けて「テロリズムのインフラを破壊する」ことを望むと誓ってその軍隊を差し向けたが、そんな理由は信用するに値しない。それは欺瞞である。彼はただ、ずっと以前から守り定めていた「パレスチナの指導者を、少なくとも政治的には排除する、アラファトの政治運動をおじゃんにする、つまりはその領土内における国家の素描に近しいもの一切合財を爆撃で以て壊滅させて、どんな対価を払ってでもヨルダン川西岸地区とガザにおける復興をダメにしてやりたい」という目的に従っているだけなのだ。彼が首相になってからというもの、この頭のいかれた占領政策の役に立たなかった首相としての決定などなかったのだ。平和の基礎について、例えば先日のサウジアラビアの和平提案のようなものと真面目に交渉を行うということほど彼にとって耐え難いものはなかったのだ。ベイルートにおける今週のアラブ主要国首脳会議においては、その提案は──それは確かに買いたたかれた形となったが──アラビア世界の公式な立場になった。それはゼロではない。本質的なことですらある。しかしアラブ世界の指導者たちが信用に値しようか?彼らが受け入れた文書において、パレスチナの人々がその民族解放の為の闘争において用いたあらゆる手段を正当化しつつ他方ネタニヤを認めるとき、彼らは果たして信用するに値するというのだろうか?

結局のところ正しいやり方で近東における仲介者の役割を果たしうるような唯一の国家を信用してやらなければならないのだろう。それはアメリカだろうか?残念ながらそれは少なくとも今に至るまでは、違う。ジョージ・ブッシュは今日同様ずっとシャロンのやりたい放題にさせていた。彼が紛争に首を突っ込むようになったのはごく最近のことに過ぎない。しかもそれは彼が明確にその意図を持っている、サダム・フセイン治下のイラクに対する攻撃の前にアラブ世界に対して断りを入れるためでしかないのである。

視野狭窄の指導者たちに見捨てられ、終わりのない対決という血まみれの連鎖に二つの民族は嵌ってしまっているのである。



3月24日
  昨晩は上智でフランス語を教えていたP氏のところに招かれた。合計11人もいて、来ていた人々のうち三人は音楽関係者だった。それ故かクラシックの話題が多かった。「好きなカルテットは?」と訊かれたので「アルデッティ四重奏団とLe quatuor」と答えて笑いを取る。いや、他にはラサール・カルテットとかクロノス・カルテットとか大好きですよ勿論。アンサンブル・アンテルコンタンポランは大嫌いだけどね。
  P氏の次男はバカロレアにあたって第二外国語として日本語を選択しているのだが、日本語の統辞システムをフランス語話者に説明するのはかなり骨が折れる。これはフランス語が印欧語族のロマンス系孤立語(+屈折語少々)であり日本語がアルタイ語族の膠着語であるためである。要するに孤立語と膠着語の違いから説明しなければいけないわけだ。んなの言語学プロパーでもない限り無理だよぅ。



3月22日
  青少年有害社会環境対策基本法案
  この法案、あるいはこの法案の起草者の思考が馬鹿馬鹿しいのは、有害であることの根本概念についての思考がないまま「有害である」と規定されたものを為政者が排除しうるという点にある。そして排除されたものは排除されている以上判断することは不可能であり、それ故有害性の対象とされた者にとってはそれが有害であるのか判断不可能であるという背理を犯しているのである。従ってここでは有害であるか否かについての判断の審級が判断主体に属しておらず、何をもって有害であるのかを判断するための審級の形成についての認識が完全に欠落している。
  また、「健全な育成」という概念も根本的な自己矛盾を犯していることをこの法案の起草者は認識していない。ある者が健全であると判断する審級そのものが健全ではない場合、必然その判断自体は虚偽になるからである。即ち健全性という価値判断は判断する者の判断基準の主観的恣意性に依存することになるのであり、それに対する批判が不可能である、あるいは拮抗しえない場合には判断者の放恣を許すことになるのである。従って、健全であるということが判断行為の主観性からの独立を意味するのであれば、そのような主観性の独断を認めることになる概念自体はそれ自体において健全ではない。
  では、そのような健全性の概念そのものは何に依存するのか。それは概念そのものが更新される限りにおいてである。即ち、健全性という概念それ自体は実定的理念としては内容を持たず、むしろそれに対する批判および揚棄のうちにその倫理的本質を有するのである。なぜならば健全である判断そのものが主観に内属するからであり、判断基準の前提を構成する善の理念そのものは理性のカテゴリーには属さず、むしろカント的な意味では超越論的なものとして規定されなければならないからであって、従ってその理念の規定不可能性による対立自体が概念に内在しているからである。とすればアリストテレス的な意味での実証性を正当性の由来とする政治的言説によってこのような超越論的審級が規定されることは背理であり、むしろリオタールが『争異』において言う意味ではそれは言説の言説に対する不当行為であると捉えられなければならない。即ち、この法案は政治的言説の倫理的言説に対する越権行為であり、正当性のカテゴリーの放恣であると言わねばならない。そしてそのような行為それ自体はその倫理に対する侵害において非倫理的である。
  従って、上に示した健全性の概念が理念の超越論的性格に基づく「その場で普遍的基準なく判断しなければならない」という倫理的行為に由来する以上、その契機を判断主体から剥奪することによって健全性を公共的領域において確保しうるとする同法案およびその起草者は倫理性を侵害することにより倫理性の審級を主観的領域において保全しようとしており、むしろ逆に不健全なものとして規定されなければならない。倫理性の倫理性たるゆえんは実は判断すべき基準が存在せず、むしろ判断基準それ自体が常に危機にさらされる状態を生み出すことに属している。即ち、レヴィナス的な意味での「語り」あるいは「語り直し」が「語られたこと」に対立する状態こそが倫理のヘテロノミー的性格を具現するのであって、完了体としての「下された判断」には実は倫理的性格は属していない。そうである以上倫理的な内容としての健全性を判断行為によって示すことは不可能なのであり、むしろその判断に対する批判あるいは反省が健全性を構成するのだ。従ってこのような根本的問題についての思考を有しない人間はそれ自体として健全性の思考を持つことができない。同法案起草者代表の田中直紀が愚昧であるという判断が成り立つとするのであれば、それは倫理的な判断ではなく上記のような問題意識が彼に欠如しているという哲学的言説が要請する思考の必要性という点においてである。



3月21日
  日本でも「必殺」や「水戸黄門」のような時代劇ドラマがあるのと同様、欧米のテレビドラマにも時代劇というジャンルが存在している。どんなものかと言えば高橋英樹とか加藤剛が出てくるものでは勿論なく、当然ヴァーグナーの楽劇ばりの中世を舞台にした物語だったりする。各種古式ゆかしきロールプレイングゲームに出てくるような恰好をした皆さんが馬に乗ったりして鎧兜に身を包んでチャンバラをやり合ったりする。当然お姫様も出てきたりなんかして、実質的に勧善懲悪の話の構造はほとんど日本の時代劇と変わらない。
  これって構造主義か。そういやジーンズの元祖のリーヴァイ・シュトラウスと構造人類学の元祖のレヴィ=ストロースは遠い親戚だという話を聞いたことがあるが、本当かなあ。両方ともユダヤ人だからあり得ないでもないな。なお、Weilというのもアナグラムでユダヤ系。以前ブザンソンに住んでたとき山歩き用のジーパン(私は普段はジーパンを一切履かない)を買った店もWeilという名前だった。去年の頭に社長が替わって違う名前になったそうだが。



3月20日
  諸般の事情で精神状態が大変に悪く、仕方ないので薬を服用。副作用で体がだるく、低血圧ぶりに一層拍車が掛かる。それでも今日あたり床屋に行かないと髪がひどい状態になっているのでまずいかな。



3月18日
  今日は午後から在外研究員でこちらに来ている某教授と話し合い。フランスの今年の大統領選についての話で大いに盛り上がる。某教授はフランス国籍をまだ持っているので大統領選挙への投票権があったりする。PC(フランス共産党)のシュヴェヌマンがいいんじゃないという私に対し、RPR(共和国連合・保守中道)のシラクでも別段悪くはないという教授。教授はクリスチャンだから仕方ないか。エルフ疑惑や旅行についての不正支出とかについて話し合う。いずれにしても「綿棒野郎」と渾名のあるジョスパン(社会党)は評判ボロボロ。世論調査での支持率はそんなに悪くないんだけどね。Canal+で放映されているLes guignols de l'info風にシラクのモノマネをして笑う。
  帰り、駅で20minutesという先日から無料で刊行されている夕刊を貰う。15日深夜から16日未明にかけて起きたサン・ラザール駅での火災の記事が出ていた。乗車券販売窓口とか列車運行司令室のかなりの部分が焼けたり消火時の放水でダメになったらしい。

  「独り言」に新規掲載した論考に関して、篠原美也子本人より「素晴らしい」とのお褒めの言葉を頂戴する。書いた甲斐があったと感涙にむせぶ(笑)



3月17日
  近所の中華食料品屋では中国関連の食品がベラボウな安値で手に入るので、食後に最近はプーアル茶と「減肥茶」なるものを飲んでいる。名前から分かるとおりダイエット向けの中国茶らしく、パッケージには何ともやる気のなさそうなビキニ姿のお姉さんがプリントされていたりするのだが、主成分は烏龍茶らしい。
  だが、いざ飲んでみると、人工甘味料バリバリの味ではないのだがどうも烏龍茶にしては甘ったるい。毒でも入っているんかいなと成分表を見てみると、
Oolong Tea 80%, Lotus Leaf 15%, Pharbitis Seed 5%
  とある。それぞれ訳すと烏龍茶に蓮の葉っぱに朝顔の種。朝顔の種と言えば漢方薬では下剤じゃなかったか?……と思って調べてみたら、案の定そうらしい。蓮の葉には下痢止め・鼻血・血便の止血の薬効が、朝顔の種には利尿、殺虫を兼ねた峻下剤として下半身の水腫や尿閉症なんかの薬効があるそうな。
  化学物質が混入されているわけではないので効能書きに定められた量を守って飲めば悲惨なことにはならな……うぐぅ!(以下略)



3月15日
  おいおい、こいつホントに東大出てんのか?
    ×青色吐息
    ○青息吐息
高橋真梨子が大昔に歌っていたのは『桃色吐息』。



3月14日
  ZDnetGamespotのタイトル&文章って、感嘆符がやたら多い。たとえばこの記事には6個も感嘆符が出てくる。この記事にも6個。感嘆符が多すぎてゲロが出そうだ。そういえば記事のドロップキャップに使われている記号も感嘆符だな。
  ローテンションを地でいくような私にしてみれば、この狂ったようなハイテンションはクスリでも使ってるんじゃないかと心配になるのだが、文体そのものが明らかに脳味噌の足りないお子様を意識しているのはどうにかならないのか? ネットで情報収集して云々というのはある程度年齢層が上で、特にサクラ大戦4の話なんて大きいお友達にしか関係がないように思うのだが。
  ま、読まなきゃいいんだけど。

  読む価値が低いと言えば、MSNジャーナルにも連載している団藤保晴の記者コラム「インターネットで読み解く!」もそうだろう。タイトルのセンスのなさからご本人の文章力というか発想力のレベルの低さはおよそ見当がつくのだが、とくに3/9に掲載されたコラムの卑劣さは指弾に値する。宅八郎の言い方を借りれば「後出しジャンケン」でしかない今回の記事は、自由競争を盲信する彼のオツムの悪さはまあ仕方がないとして、メールで寄せられた批判に対してはまずメールで答えた後、その全文を公開して最終的な判断を読者にゆだねるのがスジである以上、ゴミ以下の最低最悪のシロモノであると断罪されても仕方がない。
  無論、「植民地」を多数有する国立大学の特に理系学部における助手の採用と研究テーマの問題については批判してしかるべきだし、課程博士が滅多に出ない文系学部の体質にも問題があることは事実だろう。だが、そんなことは大学院に入りたての修士1年の学生はおろか、研究者の世界を少しでも知っている学部学生なら誰でも知っていることでしかない。
  日本の学生が勉強しないしないと嘆くのは大いに結構だが、動機付けの失敗、各種規則でがんじがらめの義務教育および高校、若者の自己実現を阻む日本の文化・政治土壌についての包括的な批判(これを具現化するのが真の「構造改革」である)を行うことなしに「勉強してねえバカばっか」とがなり立てるのは5カ年計画の実現のためにノルマ150%を至上命題としてプロパガンダに走るボリシェヴィキの連中と発想の貧困さというレベルではさして変わらないことは、予め我々も含めて理解しておかねばならないはずである。
  「構造改革」と美辞麗句(か?)を並べて天下国家を論じるのは大いに結構である。だが「インターネットで読み解く!」というインパクというか「平成三十年」と同レベルのマーケティング性のないタイトルについて反省しない限り袋小路で自滅するのは目に見えていると思うよ。


  それにしても読点の少ない文章だ(笑)。



3月12日
どこかの場所の写真
ちょっとネタも枯渇気味。そんなときはこんな話を埋め草にしてしまおう。

右の写真の場所はどこでしょうか? (ちなみにパリ市内です)
当てた人にはお米券進呈(ウソ)。



3月10日
  というわけで、卵の件、どうやら大丈夫なようです。
  さて、長野、あるいはもしかするとリレハンメルの頃から既に冬季オリンピックはパラリンピックの方が面白く見られるようになっているという事実を、我々はもっと積極的に認識すべきだろうし、IOCの連中もそれを素直にまずは肯定すべきだろう。
  オリンピック、就中冬季のそれが今年のソルトレークシティにおいて最悪の具体例を示してくれたように、いわゆるオリンピックは完全に商業化し開会式や閉会式などは見る気すら起きないくだらない見世物興行に堕している。
  競技においてもまた然りだろう。順位を巡って多額の金が動き、判定基準そのものもまた極めて恣意的な政治的、誤解を恐れず露骨に言えば人種的なイデオロギーにまみれている。尤も、大多数の無教養な連中による人種差別は今に始まったことではないし、ガキの頃からずっと朝から晩までスポーツ漬けだった選手およびIOCの主要役員にそんな知性を求めるのは無理な話ではあるのだが。
  パラリンピックはその欺瞞を無言のうちに告発し、スポーツの姿を、その喜びに結びついているという意味において、原点とも言うべき形で、浮かび上がらせている。金メダルをとったからといって生涯にわたる富と名声が保証されるわけでもないし、国と民族の誇りとかいうものを背負って戦う、ということも今のところ比較的少ない。そこには「なぜスポーツをするのか」という問いに対する答えが、見えない形で、存在している。

  ここまで「健常者」の五輪が変質してしまったのは、競争に基づく資本主義の市場原理がその拡大過程で導入されたからだろう。そしてこの市場原理は、グローバル化の美名のもとに他の異質な空間を蝕む。かつてはスポーツの空間が古代ギリシアでは戦争の中断を前提とした、別の価値が支配する場であったにも関わらず今日のそれはむしろ逆にスポーツに名を借りた一種の代理戦争でしかないように。そして、パラリンピックはかつてスポーツが有していたはずの異質な空間そのものを浮かび上がらせる働きがあるのだ。商業化したオリンピックはその空間を資本主義に接続することにより「グローバル化」する一方で、それが自らの価値として有していた特異性を「換金」してしまっているのである。

  だから、実際のところグローバル化は経済原理を動員することで我々の空間を均質化し、平準化していく。グローバル化に反対する者はグローバル化の恩恵を通信手段や交通手段という形で利用しているではないか、あるいはグローバル化への反対とは詰まるところ退嬰的かつノスタルジーで一杯の植民地主義の反映だというつまらない意見は、我々にとっての時空がヘテロ的なものである、あるいはヘテロ的なものであるべきであるということを認識していない。
  なぜそれが必要なのか。なぜ異質な空間が多様に我々の世界に求められなければならないのか。それは、それらの空間が場と同時にそれぞれに異なる言語行為とそれに関わる価値観を有しているからである。祝祭の場が祝祭として有効であるのは、それが我々が日常の価値において纏わざるを得ないペルソナを必要とせず、むしろその場の持つ価値によって人々が新たな位置を得ることができるからである。
  従って、資本主義的なグローバル化によって均質化された空間には、単一の価値観しか存在しなくなる。それは産業性至上主義とも言うべきものであって、貨幣化できないものに対しては徹底的な差別と圧迫を加える装置でしかない。この空間においては価値観が単一でしかない以上、一旦敗者の烙印を押された者はその地獄で怨嗟の声を上げつつ踏みにじられるだけである。だからグローバル化が生み出す世界というのは、今日のオリンピックがまさに示すように、ほんの一握りの勝者を除いてあとは辛酸をひたすら嘗め、自らの誇りも持つことの許されない大多数の敗者によって構成される、荒廃しきった砂漠でしかないのだ。



3月8日(2)
  森の十字路さんのところで知ったんですが、は〜、メディアリテラシーですか……
  漢字の成立過程で女編がネガティブな意味を持たされてきた事っていうのは常識じゃないのか?例えば「妨げる」という字は「女」が「方」(「場所」が転じて「政治」の意。cabinetみたいなもんだね)に介入するとロクな事がねえクソという事から由来している。中国らしいやね。で、以下引用。

>「婦」という字には「きれいに掃除をする、夫に従う」という意味があることなどを確かめ
「箒」(ほうき)あるいは「掃除」という字が書けないのかね君たちは。

>「姦」「妖」「妾」「嬌」「姑」など、内容を知って、二度びっくり。女が古くなったとか、うるさいとか、怪しい、女の上に何かが立っているなど、失礼な意味ばかり。
メディオロジーの勉強をする前に国語の勉強をする事をおすすめするよ。同様のものには他にも「嫁」「嫉妬」「媚」「安」「妄」「嬲」「嬉」とかいくらでもあるよ。今まで自分が使っている言葉に自覚的でなかったことの方がむしろ女性差別の教育における再生産という点からすると問題だと思うんですけど、どうですか奥さん(きょん八丈島氏のように)?


追記。昨晩の夕食は焼肉丼に挑戦してみた。古い卵在庫一掃ということで買ってから半月近く経っている卵を使っちゃいました。数日間「雑記」の更新がなかったら消化器官に大ダメージ!ということなので笑ってやって下さい。



3月8日
  朝日新聞が性懲りもなくbeとかいう雑誌を出すらしいんだけど、なんかこのロゴって3/15にnasdaq上場廃止予定のBeに似てないか?
  BeOSといえば一時期秋葉原ではぷらっとホーム日本総代理店として販売していたんだけど、CEOのジャン=ルイ・ガセーが技術屋さんだったために経営戦略がパーなせいで(註)、結局はマニア向けOSというニッチ市場(今それを埋めているのはLinuxの各種ディストリビューションだろう)にも入れず自滅していった。まともに日本語が動く環境になったら是非入れてみようと思っていたのにすげえ残念だった。そのためと言っては問題があるが、フリーで配布されていたBeOSのアイコンをチョコチョコと改造したりして色々と今は使わせて貰っている

(註)Rhapsodyの開発に当たっては当初NEXTSTEPが採用されたが、これは当時AppleのCEOだったギル・アメリオが最初はBeOSを採用しようとしたのに、Be.Incが無茶苦茶な高値をふっかけてきて交渉が決裂したためである。なお、ギル・アメリオはその後NEXTのCEOだったスティーブ・ジョブスに社を追われることになる。もしもBe.Incが交渉で折れていれば今頃Appleは潰れていたかもしれないが。



3月7日
そんなことより聞いてくれよ、>>1よ。スレとあんまり関係ないんだけどさ。
この前国会行ったんですよ、国会。
そしたら、なんか人がいーっぱいで入れないんです。

よく見たらなんか垂れ幕さがってて、「青少年有害社会環境対策基本法の制定で有害情報を規制しよう!」とか書いてあるんです。

もうね、アホかと。バカかと。

お前らな、ドス黒い献金もらっといて「社会環境」とかほざいてんじゃねーよ、
ボケが。
有害情報だよ、有害情報。

なんかK福の科学とか全国PTA連合会とか勝共連合とかもいるし。

マウスとか偽装ツールもろくに使えないクセして「有害情報を規制」か、おめでてーな。
「よーしセンセイ(田中直紀(田中真紀子の旦那))法案提出しちゃうぞー」とか言ってな。
もうみてらんない。
お前らな、勲四等褒章やるから議員の席を空けろ、と。
青少年ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルに向かい合った奴といつ猥談とケンカ自慢が始まってもおかしくない。
バカにするかバカにされるか、そんな雰囲気が若さなんじゃねーか。

エセ政治屋はすっこんでろ


やっと座れたかと思ったら、隣の議員が

「青少年の健全育成、検閲付きで」とか言ってるんです。

そこでまたブチ切れですよ。
あのな、青少年の健全育成なんて今日び流行んねーんだよ、ボケが。
得意げな顔してなにが「青少年の健全育成」だ。
お前は本当に青少年の健全育成を考えているのかと問いたい。
問いつめたい。
小一時間問いつめたい。
お前、自分が理解できないからって新しいメディアを潰したいだけちゃうんかと。
有権者の俺から言わせてもらえば
今、有権者の間での最新流行は
やっぱり



「萌え〜」と「ハァハァ」ヽ(;´Д`)ノ



これだね。
萌えってのはがいっぱいはいってる。そんかわりが少なめ。これ。
で、
それにはじるす
これ、最強。
しかしこれをプレイすると翌日から世間様から相手にされなくなるという危険を伴う、
諸刃の剣。
素人にはお勧めできない。
まあ田中直紀みたいなエセ政治屋は故郷に帰って村会議員でもやってなさいってなこった。

というわけで、憲法違反の「青少年有害社会環境対策基本法」に、私は反対を表明するわけです。田中直紀はまた落選しちまえクソ野郎。



3月6日(2)
  ZDNetに出ていたAVEXの連中の言い分。こちらからの指摘をスレッド形式で付けていくため、blockquoteタグは使わない。なお、これは著作権法に定められた範囲での引用であることをここに宣言しておく。

松田(AVEX):先日,あるデパートで見かけた光景なのですが,中学1〜2年生ぐらいの女の子たちが,CD-Rを買い漁っていました。おそらく,音楽CDを焼いて交換するのでしょう。以前は,CD-RやCD-RWなどはPCのヘビーユーザーのアイテムだと思われていましたが,もはやそんなことはありません。信じられないなら,実際に中学生にアンケートを取ってみるといいですよ。

ZDNet:そういった中学生の行為が,大きな脅威なのですか?

松田:そうです。われわれがコピープロテクト機能で本当に防ぎたいのは,こうした“カジュアルハッキング”なのです。多少技術や知識があるユーザーならば,コピープロテクトを破るのもそう難しくはないでしょう。その方法もネットで出回ってしまうでしょう。

  確かにAudio-CDのデジタルコピーは簡単である。多少音質は劣化するが。CD-ROMドライブが別にもう一台あれば、最近のマシンであれば最低でも4倍速程度でのコピーはできる。これは事実である。
  だが、問題なのは、こうした中学1〜2年生にターゲットを絞ったマーケティングをなぜ反省しないのか、という点である。他の消費財にシェアを持って行かれると売り上げが激減するのは市場が狭いからである。下にも書いたように、ガキにフォーカスしたマーケティングをやっていればコケるのは当然の成り行きである。AVEXも最近はスタチャ(キングレコード・スターチャイルドレーベル)のマネをして榎本温子なんぞを起用してアニオタ向けのレーベルを立ち上げているようだが、昨今のこうした目的で粗製濫造されたアニソンははっきり言ってまともに聴けたものではない。
  クラシック、特にオーケストラ音楽の音楽CDをコピーしてみると分かるが、実はデジタルコピーといえどもダイナミックレンジなどの点で露骨に音質が劣化する。これは24bitオーバーサンプリングなどの技術が使われたCDなどではさらに顕著になる。にもかかわらず、コピーしてもこれらの違いが分からないのは、聴き手の耳がダメになっているか、再生機器が二束三文の安物であるのか、さもなくば音源そのものの音づくりが薄っぺらで、ダイナミックレンジを多少削ったって問題ない、のいずれかである。シンセに頼りすぎ、また歌い手の声にエフェクタをかけまくっていてメチャクチャな曲をリミックスだけチョコチョコと変えて限定盤とかアホな煽り文句を付けて売りに出しているのはどこの誰ですか?

松田:(中略)ではなぜ,携帯電話の通話を減らして,音楽CDを買わないのかといえば,それは,友人やネットから無料で手に入るからです。

  ではなぜ、携帯電話の料金支払いの方が売り上げの減少という形になるほどまでに音楽CDに対する支出よりも優位にあるかといえば、それは、今日日の産業音楽は金を払って聴くほどの価値がないということに、彼らが気づいているからです。

松田:(中略)以前は,シングルCDが発売されてから,バックオーダーが減少するペースは非常にゆっくりでした。時間をかけて減っていくという自然なカーブを描いていました。実際の数字は出せないのですが,最近の傾向として,このカーブが発売から1〜2週間で激減するようになれました。これは,購入されたCDが,CD-Rやファイル交換ソフトで流れているからにほかならないと思っています。
  商品サイクルをガンガン短くしてリミックスだけ変えたゴミみたいな「製品」を山ほど消費者に買わせようというあなたがたの戦略には問題はないと?浜崎あゆみなんかの場合、同一の曲クセして違うリミックスが5種類くらいバラバラに発売されていることについて、消費者がウンザリしていないとでも思っているのか? AVEXから発売されているDave Rodgersとかの曲だって『頭文字D』MIXとかほざいて何回も使い回ししているのくらい、小学生でも知っていると思うが。

松田:先日のZDNetの記事を見ましたが,非常にニュートラルな立場からコピープロテクト機能の問題点を指摘していたと思います。

 ただ一点,ニュートラルではない部分がありました。ドライブメーカーやソフトメーカーに取材した部分で,なぜそういったメーカーが今まで,こちらに断りもなく楽曲のコピーを助長するようなマーケティングを行っていたことについて触れないのでしょうか? 

  こいつバカか?
  各種カラーブックを遵守したドライブをつくって何がいけないの?確かに最近のドライブはRAWモードなんかを搭載していて、SafeDisk2まではCloneCDなどを使えば大体焼ける。でも、それは別に法律に違反しているわけでは全然ない。私的使用の範囲内でのコピーは別に著作権法には触れないのくらい知っているだろう? バックアップを作ってそれを使って何が悪い? 逆汗かけてプロテクトチェックルーチンをとばした訳じゃないんだよ(これは不法競争防止法に抵触する)?
  じゃあこういう人間に逆に訊きたいのだが、レッドブック仕様を満たしていないCDを音楽CDとして販売することについて、何ら問題は感じていないのか?どれだけそれを一般市場に告知した? 一人暮らしの人間にはCD再生機器というよりオーディオコンポーネントがパソコンを中心にして組み立てられている人間(例えば俺だ)も少なくないが、Macでは再生できない(日本の音楽現場では不思議なことに未だにMacが覇権を握っているということを考えれば皮肉なものだ)ことについて、どれだけ広告や店頭ポップで告知したよ?

松田:CDのコピープロテクトはDVDに比べたら脆弱なものです。ファイル交換ソフトの取り締まりについても,イタチごっこだと思います。結局は,真に違法コピーを防止するには,CDメディアが収束に向かい,音楽も映像付きでDVDで提供されるようにならないと駄目でしょう。

  ああ、勿論だとも、DeCSSで(以下略)。



3月6日
  1984年に登場した初代MacのCMを見る機会があった。なるほど、これは当時だったら確かに話題になるな、という出来だ。80年代風サイバーパンク風味なところがまた少しノスタルジーを誘ったりもするが、それはともかく、件のCMの光景は皮肉なことに今日のMacWorldExpoとかで基調講演を行う「有名人」とその聴衆の光景に酷似している。
  解放のはずの技術が実は隷従化の方便でしかなかったというのはどこにでもある話だが。

  昨今のプロテクトAudio-CDの話。文化産業にまつわるアドルノとかベンヤミンの話を思い出す。モ娘。とかに代表されるゴミみたいなガキ向けの曲ばっかり作ってりゃ、そりゃ携帯電話の使用料金に可処分所得(つまり小遣いあるいはわずかなバイト収入)が食い潰されるのは自明というべきか。事実、これらのダメ音楽産業も既存の出版業界を同様のやり方で干上がらせて現在の繁栄を築き上げてきたんだろう?

  つまりはお子さま向けの、さして拡大が望めない市場を巡っての低劣な、極めて愚劣な争い。



3月5日
  インドでのヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立暴動の出発点(ヒンドゥー教徒が乗った列車への放火事件)はパキスタンの情報機関の扇動によるものであると考えるのは下衆の勘ぐりでしょうか?
  おや、「下衆」もATOKでは変換できないのね。すげえなあ。



3月1日
  3月1日といえばビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被曝した(映画『ゴジラ』はこれに対する黙示録的な抗議の意で最初は作られたのは周知の通り)日だが、この船は今でも新木場の夢の島公園にある第五福竜丸展示館に展示されている。近くにゴミ消却炉の廃熱を利用した夢の島植物園がある。展示館の方は入場無料、月曜休館。
  廃船となり夢の島のゴミ捨て場に放置されていた第五福竜丸が、どういう経緯で展示館に展示されることになったのかという話は長くなるのでここでは省くが、この展示館、入り口に置かれているパンフはインクリボン式のワープロで刷ったもののコピーで、館内に展示されているパネルは実はすべて手書きである。
  入場料が無料だということもあるのだろうが、パンフをもっと読みやすいものにしたりパネルを発注する予算なんて年度末のくだらねえ道路工事とかムネオハウスに比べればベラボウに安いんだから何とか手当てしてやれよと思うのだが、皮肉なことに手書きのそれらのパネルからは逆に書き手の瞋恚あるいは呪詛ともいうべきものが立ち上ってくる。パネルを読んでいるだけで私のような小心者は正直吐きそうになるほど、パネルに刻まれた文字(一応明朝体にはなっているが)の筆致は強烈なのである。

  敵意や憎しみは平和のためによくないと人々は言う。だが、この展示館のパネルは、その怒りを通じて、今もなお核実験の惨禍に苦しみ、嘆き、憤る人々が、例えば未だに故郷の島に帰ることを許されないマーシャル諸島の人々など、世界中に私の想像を超えて数多いることを教えてくれる。