9月28日
  「私とアメリカ」(田口ランディ,MSNジャーナル)。
  ……。
  言いたいことは色々あるが、そんな気力も萎えてしまうような中学生の作文。
  さ、勉強だ。


9月21日
  IE6を導入してみた。Tableタグに対するheightオプションのレンダリングにバグがあるようで、これまでの作法でデザインをすると表示が少しからず崩れる。これはスタイルシートでPositionを使えば解決できるようなのだが、このプロパティはNN4.xではまともに解釈してくれない。Mozillaでは何とかなるらしいが。
  ブラウザによるレンダリングにここまで違いがありすぎると、今度トップページを全面改訂するときにはブラウザを判別してそれぞれに最適化したものを用意する必要がありそうだ。ううむ、面倒臭い。それともLynx準拠の素朴issimoなデザインにしてしまおうか。

  今日、知り合いの関係者がWTCのテロに巻き込まれたという話を聞いた。安否はまだ分からないという。ということは残念ながら現状はかなり厳しいということだ。このような状況だからこそ希望は捨ててはならないとしても。
  そのような事実に接すると、我々は概念化された死やそれを機軸にした思考がいかに貧しく粗野なものであるのかを痛感せざるを得ない。殺した者を許しうるのは、殺された者だけなのだ。それ以外の者は、私も含めて、本質的に言えばそれについて語る権利を持たない。即ち、生き延びてしまった者たちは、沈黙せざるを得ないという不可能性に由来するその無限の罪責性を引き受けた上で、罪なす者の告発を行わねばならない。なぜなら、悪とは悪の感情を持つことすら、即ち憎悪の感情を抱くことをすら破壊し踏みにじるからである。平和がユートピア的なものとしては憎悪を含むというのはまさにこの点に依る。憎悪が無限連鎖に陥るからといってその感情を排斥しようとするのは、踏みにじられた人々に対して全くアカの他人でしかない我々が黙れと叱りつけるに等しい。無論、これはアメリカ、特にブッシュ政権が徹底的な軍事報復を行うことを何ら擁護するものではない。むしろその逆である。
  山崎洋子氏が認識していないのはこの問題である。即ち、原爆の罪を赦しうるのは、あの日摂氏5000度を超える爆風に曝され涙を流すいとまもなく命を奪われた者、全身の皮膚を熱線で焼かれ水を求めながら絶命したもの、そして今もなお原爆症に苦しみつつ闘病を続ける人々のみである。そして我々にできるのはその歴史的文脈を注視した上で、原爆の罪を告発し続けることなのだ。そしてその怒りこそが、希望としての平和を、否定神学的にせよ垣間見せてくれる。
  


9月19日
  憎しみからは平和は生まれないという台詞をここのところ耳にタコができるほどよく聞く。某募金サイトの掲示板に溢れる頭痛のするような書き込み、そして某ポータルサイトのニュース掲示板、そして個人サイト諸々。
  しかしこれは事態の表層しか観ていない。なぜならば、そのような認識は現在の世界が矛盾と対立の場であり、それこそが恒常的な現実であるということについて全く認識していないからである。即ち、そのような退嬰的な言説をまき散らす御仁の世界観というのはせいぜいがヒロ・ヤマガタの絵のようなものであって、そのような世界というのは人倫の完成を待たずとも既に調和し完了している、鉢植えと交通標語に囲まれた駅前広場のようなものでしかない。
  だがしかし、平和というものが人類の目指すべきものであるのだとしたら、むしろそれは対立と憎悪なしには実現されることはない。いや、突き詰めて言えば、平和とは対立と憎悪を孕み続けてこそ展開される場なのであり、石斧から水爆へと連なる普遍史が不断に産み出す憤怒と絶望が示すのはそれらを遮断する平和像が単なるお題目でしかないということである。即ち極悪非道に蹂躙される、され続けている人々がいる限りにおいてこそ平和という概念は意味を持つのである。
  無論このような認識はともするとヘーゲル的な全体主義的かつ現実盲従の陥穽に陥りかねない。だが、他者の倫理のために、言葉をあげることも許されず踏みにじられ惨たらしく葬り去られた人々のために平和というものがあるのだとしたら、それは絶対に対立を状態として前提とするものでなければならず、そこには当然憎悪が介在する。そうでなければ我々は他者こそが我々の意識のうちで我々を突き動かすのだという謎にすら気づかぬまま現状を礼賛して野蛮な詩を蝶よ花よ愛よと紡いで世界を侮辱し続けるであろう。
  にもかかわらず現実にはそのような人々が先に挙げたように、存在する。彼らが望むのは世界の平和という美辞麗句で粉飾され神格化された自らのみの安寧に他ならない。彼らは自らが世界から糾弾されることを恐れ、それに対抗することに対しての自らの無能から逃避したいが為に内容の空疎なイデオロギーもどきをナイロン製の錦の御旗にして振りかざすのである。
  だから、私はあくまでそのような人々を憎む。ユートピア的なものとしての平和を極限まで望みつつもそれを願うことも許されず踏みにじられた人々のために。癒しや赦しということを軽々しく口にするような愚か者が自らの罪過を恥じ、断ち切られた歌を歌う人々の墓標の前で自らの喉笛を掻き切って謝罪するまでは、私は今この世界に生きているそのような人々、私も含めた存在者に対しての憎悪と断罪の怒りを放ち続ける。怒ることを知らぬものは、愛することの意味を知ることもないのだ。そのような物象化された精神を省みない堕落した意識はラクダの餌にでもなるがいい。


9月18日
  世界の余りにも惨たらしい状況に対して、祈りを捧げて解決を願うことは勝手だ。だがしかし、本質的に言ってそれは無意味である。祈りとはそもそも内省の契機なのであって、政治的問題の解決を神に願うというのは愚昧の極みとしか言いようがないのだ。なぜなら、それは結局のところ聖域に格上げされた内面性へと逃避することによって眼前で腕をもがれ首を刎ねられ臓腑を踏みにじられている人々の断末魔の叫びとその地獄絵図に対して耳を塞ぎ目を瞑ることにしかならないからだ。そんなに現実を否定したいのであれば棺桶の中にでも閉じこもるがよかろう。
  世界は最悪であると形容するには余りにも最悪すぎる。だがそれを引き受けることなしには恐らく希望というものも意味を為さないだろう。内面に逃避して平和を願う精神が産み出すのは無知でしかなく、その帰結は野蛮状態の際限のない拡大再生産である。観念に堕した平和は暴力の一様態でしかないのだ。希望としての平和が自らの内部に矛盾をはらんだ上で初めて成立するものであることを理解できない意識が望むのは、結局のところ他者の排除によって成立するニュルンベルクでの党大会である。


9月17日
  で、先日来の騒動の帰結。
  事実関係を言ってしまうと、人を友人呼ばわりで頼っといてその割には事態の現状についての何の事後報告もないとか、事態の発端になった事柄(有り体に言うとその泥棒大家と彼女は不倫関係にあり、それがこじれたのがそもそもの原因らしい)を隠している(まあこれには基本的には興味はないけどね。「隠す」行為というか態度そのものが忌々しいだけだ)など、騒動の当事者である片方(女)の態度があまりにもひどいので、私はブチ切れて倫理的関係の修復として通訳料の支払い(プロを雇うと1日10〜16万で、私の場合は日本企業の人と仕事をするときには5万円+諸経費)を求めたのだが、あろう事か弁護士に泣きついて「もう払うつもりはない」と言ってきた。
  無論、労働契約がない以上、賃金としての報酬を払う義務は発生しない。これは法的言説の正当性のカテゴリーからすれば至極当たり前のことである。が、私が憤っているのは倫理的正当性の観点からであり、それを解決しうるのは対等な関係であるとのことを社会的に開示する金銭に他ならないと言って日当に相当する金額を要求したわけだ。そんなことも分からないのだろうか。まあ、分かっていたらこんな事にはならないだろうけどね。
  しかもである。被害を被ったのは私だけではない。私に関係する全ての人がその点で倫理的損害を受けているのである。そのことについて全く反省のないまま自分を守ることだけ考えるのは幼稚である
  というわけなので、彼女についてのデータをある程度公開してしまうと、彼女はN.幸子という名前で、日本ではフルートを教えていたそうだ。学歴は東京芸大(院も行っているらしい?)。現在はパリのエコール・ノルマル(ENSではない、ということは実質IUFMか?)に籍を置いている。
  以前実家の裏に住んでいた(しかも離婚したらしい)Oという脳味噌の腐ったヘタピアノ弾き(防音室もないのに朝から夜の10時まで弾き続けとか、苦情を電話したら御大のご両親が家の前でわめき散らしてくれたとか)も東京芸大で修士まで終わっていたらしいが、なんつーか私も楽器を弾くけれどもこういうメンタリティの持ち主にはなりたくないね。私の楽器の師匠も芸高−東京芸大というキャリアを持っていて某プロオケで弾いているが、その人はむっちゃいい人で今でも尊敬しているもんなあ。そういう人に願わくばなりたいものである。


9月16日
市庁舎その1
  9月15日と16日はJournées du Patrimoineという、普段公開されていないあれやこれやの文化財建築物とその内部を公開する日(普段公開されているものも、非公開部分が公開されたり入場無料になったりする)。パリ市(別ウィンドウで公式サイトが開きます)では市庁舎の内部やらアルベール館やらブロニャール宮やらが公開されるはずだったのだが、市庁舎前広場市役所前広場にいざ着いてみると妙に閑散としていた。
  オヤァ?と思いつつ唯一開いている入り口にいたオジサンに訊いてみると、先の世界貿易センター“カミカゼ特攻”倒壊テロの影響で、「無期延期になってしまった。いつになるかは国際情勢の展開次第だねえ」とのことだった。

  で、そんなこんなでここのところずっとニュース専門チャンネルのLCI(別ウィンドウでサイトが開きます)でニュースをチェックしていたのだが、こちらでは自爆テロのことを「自殺テロ」(attentat-suicide)とか「自殺攻撃」(attaque-suicide)と言う。自爆はロボットとかミサイルでもするが、自殺するのは少なくとも私の知っている限り人間だけなので、事態の重大性を考えるとこちらの用語法の方が適切かな、とか思った。


9月5日
で、下の騒動の続き。
……まあ吐き気を催すようなひどい展開なのでここで全部ぶちまけてしまおうかと思ったのだが、とりあえず目下当事者の一方と交渉中。カードはこちらに全て揃っているので、粛々とこちらの目標を達成してオシマイにするのみ。
しかしだ。そんなどうしようもない連中が周りにいるということは、私自身もそういう人間になりかかっているのかもしれない。
気合いを入れ直して勉強に励むのみである。はよ論文書かなきゃ。

侮蔑に対して苛立った批判で暴れるのは、自らが侮蔑される対象なのだということを暗に認めていることになる。あからさまなほどの誤認識に基づくものならば、笑って軽蔑することで十分だろう。
無論、それらに巣くう精神構造を批判理論でなで切りにすることは簡単だが、白痴の思考過程を記述するようなものなのだから、価値のあることではない。そんなわけで、とりあえずメッコールを売るのだけは止めておきなよと、リーダープライスで買った1.5lで3フランのニセモノコーラを飲んでこれから勉強にまた取りかかるのだった。


8月22日
久しぶりの追加。でもまた明日から数日間家を空けます。
さて、こんなに間があいてしまったのには、理由がある。もちろん最大の理由は南仏にバカンスに10日間近く出かけていたため。ガラにもなく日焼けした。
そしてもう一つの理由は、知人のトラブルに巻き込まれてしまったこと。この知人、スペインにバカンスに出かけていた間に、大家に住んでいたアパートを乗っ取られ、荷物をあらかたどこかにうっちゃられてしまったというのだ。というわけで弁護士のところへ行ったり警察へ行ったり大使館に行ったりメンタルケアをしたりして大混乱。
なお、この大家、J.I.とかいうスペイン系フランス人で、玉川大とかで非常勤で英語を教えているらしい(?)。これを読んでいる方で大学でもしヤツを見かけることがあったら、石とかゴミとかクソとか色んなものを投げつけてやりましょう。年の頃は40くらい、中肉中背でハゲているらしい。血気盛んな若者であれば、拳による対話は数秒で終わってしまうと思うが、まあ色々ストレスを貯めている方は是非とも眉間に一撃お見舞いして差し上げましょう。

ここだけの話だが、ごく一部の一流大学を除けば、大学で非常勤で語学を教えている外国人教師の大半はその教授能力に激しく疑問符がつく。某大学(国立大学)でフランス語を教えている何某という男は、学部時代の専門はなんと化学であり、DESSはおろか修士号も持っていない。彼は3ヶ月間フランスのとある田舎町の語学学校で講師養成コースをとっただけである。そんな調子だから、応用言語学なんてなぁんも知らないし、あろう事かヤツはソシュールすら知らなかったのである。はっきり言ってそんな奴らにフランス語をヘイコラ言って学ぶのであれば、私が教えた方がナンボかマシだ。厳しいけどね。


8月4日(2)
  HTMLエディターと名の付くものは星の数ほどあるが、中でもIBMのHomepage Builderは&某煉瓦のページミルなんかと並んでよく使われている。これは確かメーカー製のプリインストールアプリがごっそり詰まったマシンなんかでは大概Homepage Builderもバンドルされているからなのだろうが、なんでこのツールで作ったのって揃いも揃ってデザインが腐り放題のサイトばっかなのだ?
  IBMのサイトを覗くと、一応ソースには「META name="GENERATOR" content="IBM HomePage Builder 2001 V5.0.0 for Windows"」としっかり記載してあるのだが、どうもこれは嘘臭い。というのも、ほとんど同じ構成のトップページにはこの記載がないから。XMLの書き起こしかたからして、どうもDreamWeaverを使ったようなのだが、Homepage Builderで作ったひどいデザインのサイトばかり頻々と見せつけられると、いたる絵ではないが三半規管がクラクラしてくる。
  見栄えのいい、というかユーザビリティの高いサイトをデザインすることは、そこを訪れてくれるユーザーへの配慮としてごく当たり前のことではなかろうか。仮に画像素材を作る技術力も道具もないとしても、色設定はすぐいじれるわけだし、無意味な画像は使わないとかも、ファィルサイズとか回線速度といったことを念頭に置いていればすぐ分かることだろう。
  だから、そんなことすら考えていないひどい色使い&デザインボロボロののサイト(こことか)を見ると、それらの管理者はユーザーとのインタラクティヴなコミュニケーションを前提としているのではなく、ひたすら自分のある種のエゴを他人に強要しているだけではないかと思うのだ。まあ最初のうちはファイルサイズとかGIFとJPEGとPNGの区別なんて分からないし、回線速度を考慮したデザインなんかはかなり難しいから、いきなり最初からそうしろということは私としても言わない。でも上記のようなことは念頭に置いておけば、スキルを上げるなりして何とかしようという気になってもおかしくないんじゃないかなあ。
ちなみに上でこっそり張ってあるリンク先のサイトはクラリスワークスで作っているようだ。語研にいたとき助手にいた某Tも同じツールを使ってこれまた泣けるほどひどい構成のサイトを作っていたが、はっきり率直に言うと、クラリスなんていう生産性の猛烈に悪いアプリを使っている段階でそいつは「既に死んでいる」((c)ケンシロウ)。


8月4日
明日から一週間ほど南仏にバカンスに出かけるので、恐らくサイトの更新はないでしょう。モデムは持っていくかもしれないけど。

理念や理想を声高に始終言い立てるヤツは阿呆だと言っていたのは誰だっけ。忘れた。


7月17日
ロランス&ティエリー夫妻の写真
というわけで先週の週末は友人のベルギー人夫妻が遊びに来た。左に掲載しているのは彼ら。日曜日に拙宅で昼食を共にしたついでに近所のCité des sciences et de l'industrieとかがあるヴィレット公園に出かけた折に撮ったもの。ラヴラヴですな。
彼らが来た三日間は従って彼らと行動を共にしたりパリ市内を案内したりしたのだが、疲れた疲れた疲れた。特に7/14は午前中シャンゼリゼ大通りのパレードを彼ら(当方は前日の疲労もあり、テレビで見た)が見た後、パリ市内を観光。ところがどこもかしこも人だらけ。(あたりまえだ)普段は結構空いているサント・シャペルでも長蛇の列という有様。仕方がないので、ナポレオンの墓があるアンヴァリッドを案内した。
でエッフェル塔を通過した後、Flunchというフォロム・デ・ザールにあるファミレス風のカフェテリアレストランで食事をしたのだが、最悪。店の雰囲気・味といい、全てに渡って吐き気がするような店であった。もう二度と行かない。前日友人のカリーヌ宅でみんなで食べたピザハットのメシと合わせて、大変精神的にボロボロになった。
食生活が貧しいところには文化は育たないというのは私なりの暴論としての持論だが、飯を食うことについてのこうした惨状を目にするに付け、文化国家とかチヤホヤされたおフランスも徐々にその後退局面に突入しているのではないか、との思いは禁じ得ない。
翌日はそういった事情で拙宅においで頂き、某ネットアイドル女史が料理してくださったチャーハンを食した。

うまかった。食事とはこうあるべきである。


7月13日
明日は革命記念日。今日の夕方ベルギーの知人が来て、無茶苦茶な強行スケジュールで観光する模様。うげぇ。
それはさておき、語研から返事が来た。というわけでやりとり転載。個人が特定できるものは伏せる。
まずは私が送った質問状。
さて、この度、語研Webサイトのトップページのデザインが変更されたようですが、 これにつきましては、U氏及び私が携わったものではない以上、同ページに記載され ている制作者としての私どもの名前は、削除すべきであると考えます。 従いまして、可及的速やかに、貴サイトトップページから「Design: U & A.Sugawara --- Team "Tunnel Company"」の文字列を削除してくださるようにお願い 申し上げる次第です。

また、この変更につきまして、一つ質問がございます。
それは、変更前のロゴの色設定はJ.フィーガン先生と相談の上、意味上の含意にも配 慮して決定したものですが、これについてはいかなるお考えの上で今回の変更を行わ れたのでしょうか。担当された方のお考えをお聞かせくだされば幸いです。

また、変更後のロゴのファイルサイズはおよそ58KBあり、変更前の約2.8倍の大きさ になっています。これはダイヤルアップ環境では軽視できない差であると思います が、いかがお考えでしょうか。

以上のメール及びいただけるであろうお返事につきましては、私のサイト
(http://www:tunnel-company.com/) にて全て公開させていただく予定です。あらか じめご了承ください。

それでは、よろしくご回答くださいますよう、お願い申し上げます。
で、来た返事。ある先生とのやりとりは先生の個人的な意見も含まれているのでここには転載しない。
語研のIです。(これは、私信ではなく、HP委員会の責任者としての公式のメールですので、そう理解して下さい。)

語研HPの件について、今日HP委員会を開催しました。
HPの著作権ということについて、これまでHP委員会に基本的な認識が欠けていたことを、まず認識することから始めました。その上で、トップ頁について、あなたたちが指摘したとおり、著作権が語研に帰属しているとはいえ、デザインに関しては、今回のような変更であっても、まず第一に、HP委員会での決定を経ることなく行うべきではないし、また、事前にデザインの当事者と連絡を取るべきである、と結論付けました。また、現時点では、一切の変更を行わないことも決定しました。

事実関係としては、「ちょっと夏向きの色に変えたいなあ」という個人的な意見があり、それを聞いた新任の職員でそうした技術を持っている人が「色の変更自体は簡単に出来ますよ」とやってみせた、ということでした。HP委員会の審議を経ることなく行ったことも含め、「軽率でした」と本人も認め、反省しています。

これが、今日のHP委員会の経緯と公式の決定です。

こちらの認識不足から不愉快な思いをさせてしまって、申し訳ありません。
簡単ですが、お詫びとご報告まで。
これに対して私が送った返事。
ご丁寧なお返事を頂き、本当に有難うございました。経緯につきましても大体了解いたしました。元々は担当された職員の方もよかれと思った上でのことなのだということについてもほぼ理解しました。

今現在はU氏と私は既に語研のWebサイトについては何ら携わっていない以上、サイトそのもののデザインを抜本的に変えることについては私達が口を差し挟む権利はありませんし、むしろそれで現状にふさわしいものができるというのであれば、それは大いに歓迎すべきでしょう。ただ、今回かつて完全改訂版語研Webサイトの制作に携わったものとしては、それらがいかなる経緯で為されてきたのかということが全くの蔑ろにされたことに関して、残念であるとの思いはやはり否定することはできません。このことを理解していただきたかったというのがそもそもの真意でもあります。

Webサイトの管理を担当されている方の創意や発意についてはそれを否定するものでは無論ありませんし、それは現状から鑑みればむしろ歓迎すべきものでしょう。ですから、今回トップページの変更を行った方には、これで意気消沈することのないよう、お伝えください。

頂きました語研としてのお返事につきましては、先だって申し上げたとおり、後日私のWebサイトにて全て公開させていただく予定です。

I先生には今回の件で大変お世話になりました。重ね重ねお礼を申し上げる次第です。数々の困難な状況があるのは承知しておりますが、語研の一層の発展をお祈り申し上げます。


7月7日
語研のトップページだが、変更後すぐに元に戻した模様。
実は変更後すぐにそれらの経緯について質すメールを送り、それに関して語研の某先生とはやりとりが数回あったのだが、それ以降語研からの正式な返事は一切もらっていない。
先に送ったメールには、やりとりの経緯については全てここで公開することを明記してあるので、「元に戻したからいいじゃん」というようなナアナアでごまかそうというのであれば、返事を受け取るまで徹底的に糺す予定であることは言うまでもない以上、人をナめるのもたいがいにせえよ、とだけは言っておくことにしよう。


6月26日
語研事務方某氏謹製の「夏版」
↑語研事務方某氏謹製の「夏版」


菅原@トンネルカンパニーが苦心の末デザインしたもの
菅原@トンネルカンパニーが苦心の末デザインしたもの
作り手の誇りを踏みにじるとはこういうことだ!!

「これは、ひどい」((c)里見の謎)
  左にのせてある二枚のCGを見比べて欲しい。どちらがデザインとして「真っ当」であるのかは一目瞭然であると思う。

  これらは、いずれも早稲田大学語学教育研究所のWebサイトのトップページに掲げられていたものである。下にあるのがつい最近までおよそ2年にわたって掲載されてきたもの、そして上は「Summer」とのファイルネームでつい最近から掲げられているものである。

「バカにすんな」
  暇な方は同研究所に置いてある「語研フォーラム」90号に掲載されている私の論考を読んでいただけると大変ありがたいのだが、このトップの画像を創るにあたっては1週間以上に渡って試行錯誤を繰り返し、文字の色合いについても語研教授のフィーガン先生をはじめとして複数の先生方にご意見を伺って、何回ものβ版テストを経た上で正式に採用に踏み切ったものである。しかも、その他のコンテンツの色設定は、このトップページのものと均整がとれるように、全て調整されている。つまり、トップページのデザインを変えるということは、サイト全体のデザインをやり直さねばならないということを意味しているのだ。
  にもかかわらず、「夏らしい」という理由で安易にそれを(恐らく)RGBの数値操作だけで「青」に塗りつぶすというのは、全く以て狂気の沙汰としか言いようがない。ヒトラーに描かせたとしてももっとまともなのができるだろうよ。

ああ嘆くべきは担当者の倫理的貧困か
  話を敷衍しよう。ものを創るという行為は、いかなる分野であろうとも、このような人間の膨大な「肉体労働」によって支えられている。どんな小さな、あるいは取るに足らないような対象であろうとも、そこにはそれを制作した人の全てとも言いうるものが宿っている。だからこそ制作する者はその為に己の誇りをかけて自らの命を削ることすら厭わないのである。
  にもかかわらず、それを全く蔑ろにする、より適切ないい方をするのであれば、産み出された「作品」にそのような生命が宿っているということを認識することすらできない人間というのは、確実に存在する。彼らは自らの手でアッサリと「夏向け」の絵を「デザイン」して作り手の誇りをきれいさっぱり屠った後、高らかな微笑みを浮かべて帰宅後『プロジェクトX』を見ては涙を流す。そして翌日、同僚からの賛辞に、さりげない謙遜で応えて満足するのだ。


★なお、この話については近日中に「独り言」あたりに徹底的に書き下ろしたものを掲載するかもしれません。



6月23日
床屋行った。




(T_T)





出来損ないの佐竹雅昭のようになってしまった。
夜、19区主催の花火大会をフランドル通りから見物。ちょっとだけノスタルジィ(笑)

大昔のリゲインのCMを思い出してちょっと苦笑い。勇気のしるし。


6月16日
文字として綴ってある事柄よりも、その書き手がどんな意識を伴って書いたのか、が垣間見えてしまう文章というのは実際あるもので、その一つの好例は首相メルマガの某大臣の文章だろう。ジャンク油で肥大しきったようなこういう自我を見せつけられると、どういうわけか肝心の文章の中味は一切頭が受け付けなくなってしまうらしい。

願わくばそういうゴミを書き散らかさないようにと、日々精進に励むのみである。


6月6日
インパクの月替わり編集長、これまで担当してきたのを並べると糸井重里、荒俣弘、清水ちなみ、栗山英樹、田口ランディ。
誰?人選してるの。
これ以上は敢えていうまい。