5月26日
世界が我々の存在を認めないというのであれば、そんな世界は拒絶してしまえばいい。我々の生とか現実といったものは、所詮その程度のものだ。

隣人を不幸にできないような人間に、平和について語る資格はない。


5月24日
1日150アクセスを誇る「づしの森」の掲示板に書き込んだせいだろうか、全く知らぬ方のサイトでウチのサイトについての話題が出ているのを目にする。なんかこそばゆいような感じ。実際、最近の(インデックスへの)アクセス数は以前の1日平均3〜5回という実にうら寂しく悲しい状況(しかもそのうち1つはたいていロボット)から、20を越える日がボチボチ出るくらいになっている。ありがたいことです。
そんなこんなで、一応哲学の研究もやってますよ、ということでこんなものを上げておきました。転載不可なんで、そのあたりはよろしくお願いしますです。


5月23日
ここでTunnel-company.comのアクセスログが見られるんですが、Domain Reportの項目でなぜか.arpaからのアクセスが一件あります。ほぼ毎月実は.arpaからのアクセスが最低一回はあるんですが、これって一体、何?
もしかして、エシュロン?


5月22日
早稲田大学語学教育研究所のWebサイトの更新については、実は今年度からは我がTunnel-Companyは関与していない。というか早い話予算上の問題からリストラされたのだが、選〜び抜かれたスペシャリスト(コラ)である我々(といっても二人)を排除した結果が、

ここ
(アナログモデムでつないでいる人は要注意)


ここ
だ!


担当のMさん、折角知らせたのに2ヶ月も無視を決め込んでるから。


5月20日
パン切り包丁で指を切った。血が出た。
痛ぇ。


5月15日
「精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定的なものに目を背け、肯定の固まりとなることで力を発揮するのではない」とヘーゲルは『精神現象学』の序文で我々に語る。認識行為におけるこの隔たりと矛盾を直視し、自らをその敷居において引き裂くことを躊躇しない者こそ認識する者の名に値する。即ち、認識という行為はその本質において自らを破壊するのであって、同一性の揺籃の中で快楽を貪り食うものでは断じてないのだ。そして文を紡ぐという行為も恐らくはこの種の懊悩を展開することを身上とし得る。スーパーの安売り棚で二束三文で売られているようなエウレカを連発してそれで事足れりとするような行為はその自己規定において認識ではない。だがにもかかわらずそれが認識であると了解することは実際のところ十分に可能であって、その範疇こそが対話の意義なのであると声高に微笑むのも一つの態度であることは認めなければなるまい。けれども否定的なものに留まって同一化を食い破り対話を破壊しひいては認識する自己そのものをも同一性から引きずり出しその暴力性を白日の下に曝し徹底的な反省を迫ることこそ認識することそして文を紡ぎ続けることの倫理的な生命であろう。


5月8日
教科書問題で韓国政府が日本政府に扶桑社の教科書について修正要求を突きつけたそうだが、基本的に右派指向の強い文部科学省なんかに話を持ってくよりも、扶桑社に直接韓国の議員団とかが乗り込んでってバトルした方がおもしれえんじゃねえのか?! とか思う。
SAPIOとかは早速ギャーギャー騒いでいるようだが、んなこと今更言わなくたって、中国とか台湾とか韓国(の権力者)が自国のナショナリズムを扇動するために「日本」を目の敵にするように国内世論を誘導してきたということは当たり前すぎるほどに当たり前(今でも江沢民は中国共産党内部の引き締めに日本をダシにしているフシがある)であって、じゃあ「ウチらも彼らのマネしてナショナリズムマンセー!としゃれ込もうぜ」というのは全くもって時代錯誤のタワゴトでしかない(もちろん、何をどう言いつくろっても日本軍が太平洋戦争で行った数々の蛮行はごまかされることはない)。つか、「コミンテルン史観」とやらを支持する連中はそもそもがマルクスとかの唯物論的史的弁証法が何であるのかを民青(彼らと以前議論したとき、『資本論』を読んだことがないという御仁がいたのにはたまげたよ)以上に理解していないので、完全に論外なのだけど。
え?「論点を切り分ける」という概念をこのバナーの作者殿は学んだ方がいいようだ
ないね。そんなケチくさい誇りは残念ながら持ち合わせていないよ。一人の人間としてという誇りならあるがね。
いいかい、いいことを教えてやろう。「日本人としての誇り」とやらを持つことと、「人間としての誇り」を持つのとでは、背負う物が違うんだよ。一人の人間として一人立つということは、自分の認識を世界全体に屹立させて身じろがないだけの気合い(あまり好きな言葉ではないが)を持たなきゃいけないってことなんだよ。「世界全体」ってなんだか分かるかい?今我々が目にしている「今」の世界だけじゃないんだよ。有史以来、いやあのおサルさんが骨もって殺しをおっ始めた頃からの、全ての人類、全ての歴史に対しての無限に近い、応答性としての責任を引き受けることなんだよ。それこそ『Air』の翼人ではないけれど、それこそ人類の全ての記憶を引き受けるだけの覚悟を持つということなのさ。
カントは言う。「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」。果たして、我々はこれにふさわしいだけの誇りを持っているのだろうか。問われるのは、そこだ。


5月3日
文章書くときに、「書いている自分」を対象化しないとダメじゃないのか、とか思うわけですよ。
何当たり前のことを書きなぐってんだバカ、と賢明なる読者の皆様は思うでしょうが、そりゃあいくら何でも普段からワタシも認識しているはず、なんですが。
先日自作詩のサイトを運営している某知人とチャットしまして、またその点に回帰してきたわけですね。そのチャットでちょーしブッこいたワタシはそんな当たり前のことをえらそーに大上段に振りかざして説教こいちまったわけですが、その後ふと考えるとそれは自分でもできているのかな、と。
無論、私がこのサイトに「独り言」を載せるときには徹底して推敲します。何回も何回も自分の納得のいくまで書き直します。ほとんど全文を書き直すことも稀ではないです。つまりはその時々でベストは尽くしているつもりなんですよ。
でも、時々昔に書いたやつを読み返すと恥ずかしいですね。特にサイトを立ち上げた頃に載せたやつ。なんつーか、若いというか青いというか意気盛んというか。ま、変わり続けることは生きている証だからはそれでそれでいいんでしょうが。
……で、何が言いたいかというと、これからもよろしく、ということなのかな(オイ


こんな記事を発見。篠原美也子が彼女のメジャー最後のアルバム『magnolia』を「自分の作りたい作品ではなかった」と認めている。このアルバムに関して私はかつて、『言葉の力を取り戻せ』(語句の曖昧な使用などについては数カ所改訂してありますが、論旨には全く影響ありません)というタイトルで徹底批判する論考を公開し(ついでに言えばライブの時の感想回収ボックスにも投函してきた)、今はサイトを閉めてしまったS氏やその他大勢の皆さんから目の敵にされてまあ色々(曖昧化)やったりやられたりしたものだが、それはいいとしてこのエッセイの末尾にある「私が今、今までのどんな時期にもまして負ける気がしないのは、勝とうとしていないからだ。」という言葉に、彼女の「意識」が再び甦ろうとしているのを感じることができる。
もうかつてのように応援することはしばらくできないけれど、それでも頑張ってほしいとは思う。


5月1日
今更ながらにインパクについて書く。
楽市楽座をもじったキャッチがあるあたりなどはいかにも噂のトンデモ小説『平成三十年』の著者堺屋太一らしいが、この博覧会という発想そのものが根本的に間違っていることになぜ気づかないかなあ。
知っての通り、インターネットの構造というのは「核攻撃にも耐えられる」のが売りだったArpanetを原型にしているためすぐれて分散型であり、ツリー状の支配構造は同一ドメインにおけるディレクトリ構造のみに当てはまるのであって、一般的には相互のサイトには支配・服従の関係はない。つまりはネットにおける情報の流れというのは極めて「リゾーム」的なわけだ。
にもかかわらずお上が場所を整地してそこにパビリオンを誘致して観光客を呼んで……という博覧会型の発想というのは明らかに上意下達という旧来のツリー構造の考え方である。んなことしなくたってインターノーツはgoogleとかで勝手に興味の赴くままあっちこっちへと流れていくものなのである。インターネットというバーチャルな空間には「大地」はないのだ。そこへ公地公民でもあるかのごとく「インパク」をうち立てること自体が完全な無知の現れなのである。
堺屋太一殿、ネットだのITだのとジジイババアの間でわめくのは大いに結構だが、まずはげろしゃぶとかラブマとか猫缶とか璃樹無とか梅葡萄とかみかんとかでんことか黒羽とかMagicianとかがどういう意味なのかが分かってからにした方がいいよ。


4月5日
愛国心など要らぬ。国境など要らぬ。歴史=物語など要らぬ。いま必要なのは思考を自由に疾走させる力だ。この肉体の檻に絡みついた汚らわしい自意識を吹き飛ばすに足るだけの力を。欲望を。たましいを。憤怒としての歓喜を。狂気を。


4月4日
「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が検定に合格したそうだ。以前『教科書が教えない云々』を出していた扶桑社が教科書の出版に乗り出すこと自体が既にお笑い草だが、哲学をやっている人間としてはこの「つくる会」の主要メンバーにニーチェ研究者として知られる西尾幹二(電気通信大教授)がいることを大変腹立たしく思う。
まあ哲学研究者だからって脳味噌がまともとは限らないということはショーペンハウアーの研究者としては恐らく日本ではかなり知られる部類に入る(はずの)金森誠也氏(静岡大教授)がかの『ノストラダムスの大予言』に推薦文を寄せているというトンデモな話を想起すれば別段驚くには当たらないのだが、ニーチェを一応理想社版の全集で全部は読んでいるものの所詮邦訳だとドイツ系思想を研究している他の院生からバカにされていた私でも、ニーチェの思想が根本的にナショナリズムと対立することくらいは分かるよ……っていうか、ニーチェ自身妹のエリーザベト(ニーチェの思想をナチ流にねじ曲げた張本人の一人。詳しくはベン・マッキンタイアー『エリーザベト・ニーチェ : ニーチェをナチに売り渡した女 』邦訳白水社1994を読んでくれ)に「お前の考え方は危険だ」と書いた手紙をよこしているし、『ツァラトゥストゥラはかく語りき』の中でも諸価値の没落のあとに新たな偶像として国家・民族(Volk)が現れるから気をつけんといかんよ、ということを述べた章段がある。
まあ、実際の所「人文科学」の正当性のカテゴリーでは研究対象と思想の内容が同一である必要はどこにもないから、別に西尾幹二が頭の天辺から足の先までニーチェ主義者である義務はないんだけれども(それはそれで怖い)、少なくともナショナリズムに関するニーチェの思想を巡ってはこれだけは言いたい。

あんた、ニーチェの何を読んだんだ?


4月3日
Netscape Communicatorの数少ない利点の一つに、スタイルシートで文字サイズを設定していてもCtrl+[ or ]で一段階ずつ拡大したり縮小したりできるというのがある(もちろん何回も押せばいくらでもサイズが変えられる)。このサイトは基本的に文字サイズを約11ptをデフォルトにスタイルシートで決めているので、読みにくいというケースにはこれで対応できるので有り難い。
ところが、知っての通り、Internet Explorerではこのサイズ変更ができない。デザインの設定上デフォルトフォントサイズを決めておくことは避けられないのだが、バリアフリーとかを考えるとこれはいじれるに越したことはないわけで、どうすればいいか思案中。<basefont size>タグで設定してそこから相対指定をするのも手なのだけれど、これもIEでは変えられないからなあ。
なお、色設定については原則としてコントラストの強いものを使用しています。背景に文字が溶け込んでしまうことはまずないように配慮しています、一応。


4月1日
レポートの執筆が進まないせいで「独り言」思いっきり停滞気味。すみません……